第2話:結婚と死産後、長男誕生と生活のため上京

文字数 1,675文字

 その後、仕事を終えると近くの川で泳いだり、山芋掘りに言ったりして、勉強をせずに尋常小学校を出て家の農家を手伝った。しかし村下敬一が育っていくうちに、こんな環境に随分苦しんで、何もかも嫌になり勉強も手につかず勉強嫌いなった。物事、全てに、熱心に取り組めなくなってしまった。

 その後、尋常小学校を卒業して12歳から自宅の農作業の担い手として、朝から晩まで働くだけの退屈な青春時代となった。それでも戦時中、1944年10月18日、村下敬一が19歳の時に海軍からの召集令状が届いた。そこで広島県の江田島の海軍兵学校に行く途中で米軍の飛行機の爆撃を受けて右足太ももに大怪我を負った。

 そして、広島の病院に約2ヶ月入院した。そして、1945年となり、土浦の実家に戻った家では、農家の仕事手伝った。その当時、有能な若者は、召集令状が来て、戦地に送られる光景を目にしたが、村下敬一は、尋常小学校しか出ていなくて、幸か不幸か、招集されないでいた。そのうち1945年8月15日の終戦を迎えた。

 村下敬一には、実の兄弟が、1人もいなくて、腹違いの弟、妹が6人いたため村下家に居づらかった。それでも1945年11月11日、21歳の時に同じ村の池田絹恵と、お見合いして結婚。しかし、1945年「昭和20年」は、ご承知の通り最悪の年であり、貧しく、食べるのにも困った。

 そして農業をして何とか食べるものがあり、5年が経ち1950年を迎えて奥さんの絹恵さんの妊娠がわかり予定日が1951年4月下旬と知らされた。しかし、村下家は貧しい農家であり妊婦でも農作業を休むことができず、また、この時代、食事も充分に取れるはずもなく苦労していた。

 1951年4月25日の寒い夜、女の子を出産した。しかし、助産婦さんを呼んだと時、鳴き声が小さく、ほとんど聞こえなかった。やはり低栄養の未熟児で、ほとんど死産、同様だった。これに、母の村下絹恵は、気が狂わんばかりに泣き叫んで一日中、ふさぎ込んだ。この事件以来、村下敬一と小百合さんは本家に居づらくなった。それでも、行く当てはない。

 翌年1952年10月、また妊娠がわかり、出産予定は、1953年1月と判明。今回は、以前の死産もあり、充分な休養と栄養を取らせてもらいの1953年1月9日に長男を無事出産でき村下幸一と名付けた。本家でも初孫と言う事で赤ん坊は、みんなに可愛がられた。しかし、村下敬一と小百合さんは、貧農で大家族12人分の食料が確保できないと感じた。

 そこで、家を出る決心をした。その年の10月8日の朝早く置き手紙を書いて都会へ出て行った。1953年9月、父の村下敬一が10kgの米を背負い母の小百合さんが子供を負ぶい、見知らぬ都会、横浜の地を踏んだ。 横浜駅から金沢文庫に向かい京浜急行に乗り換え30分、停車駅からバスで20分程の所に親戚が住んでいた。

 その家の納屋を手直した部屋を借り生活する事になった。家畜臭のする部屋で簡易コンロと粗末な便所と冬には隙間風が入る粗末な納屋だった。父は、職を求め、職安を訪ねる日々を重ね、桜木町に有る小さな船会社に臨時社員として職を見つける事が出来た。その会社は日本石油関連の港湾運送の会社で、そこでは、主に船から大きな荷物を運搬する仕事だった。

 父は、元々、海軍上がりで力仕事に向いている頑健な体の持ち主であり、この仕事には向いていたのかも知れない。ただ台風の時期は船の破損を防ぐため、猛烈な風の中、船を固定する為に一晩中、従事する事もあった。父は酒と女が大好きで家に帰る途中、屋台で飲むのが唯一の楽しみ、他人には愛想良く他の女に、のせられて勘定まで支払ってしまう始末だった。

 そんな事で家に帰れば母との喧嘩は絶えなかった。母は、乳呑み児がいて仕事には出られず、家で内職をし、家計の足しにしていた。貧乏な生活のため、おかずも十分に買えず、昼間に、近くの野山、田畑のあぜ道で山菜、野草を採り天ぷらにしたり味噌汁や煮物にして、おかずにしていた。村下幸一が1954年7月、4歳の夏に幼稚園に入園した。
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