第五話 磔刑

文字数 2,464文字

 
 イエスが瞑想をするのだと言って別れてから、一週間が過ぎた。
 その間もマリアは欠かさず、ミケーレの所にやって来ていた。ミケーレもとやかく言わないから、マリアも気兼ねなく現れる。今日もそうだった。
 そこへ、

「母上様」

と声を掛けた者がいる。マリアが声の方を見た。ミケーレはとっくに気付いていたから、改めて見るようなことはなかった。マリアに声を掛けたのはイエスではなく、年老いた男だった。

「あら、ペトロ」

 男の名はペトロと言った。最初にイエスの弟子となった彼は、十二人の使徒――弟子たちの筆頭と目される人物であった。

「母上様」

と、ペトロはもう一度、マリアに呼び掛けた。

「一人? イエスは?」
「それが……」

 マリアの問いかけに、ペトロが言い淀んだ。しかし、黙っているわけにもいかないと覚悟を決めたようだ。

「師がゲッセマネで祈りを捧げていたところ、祭司長たちと神殿の番兵に捕縛されました」
「は?」

 あまりのことに、マリアが間の抜けたような反応を示した。ペトロの言った言葉が、素直に頭に入ってこない。その様を横で見ていたミケーレが補足した。

「息子さんが、祭司長とやらに捕まったんだと」
「ええっ? 何で?」
「それは彼に聞いてくれ」

 理由は知らないから、ペトロに聞くように――とミケーレは言うのだ。マリアはペトロに問うた。

「何で?」
「は……、それが……」

 ペトロはまたも言い淀んだ。それを見たマリアが、強く言った。

「どういうことか、答えなさい。ペトロ」
「は、はっ……。祭司長らが言うのには、師が〝ユダヤの王〟や〝救世主〟を自称したから……と」
「王? あの子が?」
「そう、自称したと……。それで裁判にかけるのだと言って、師は連れて行かれました」
「捕まったのね?」
「はい。ですが、師は自ら進み出て……」
「あの子が自分から?」
「はい」

 マリアは口元に手をやり、考え込んだ。

「何か、意味があるのかしら……」
「師の考えておられることは、いつも我々には分かりません」

 ペトロがすまなそうに言った。官吏に捕まったものだから、マリアにも彼らにも打つ手がなかった。

 そうこうするうちにイエスは裁判にかけられ、ローマ帝国のパレスチナ行政総督に判断が委ねられた。時の総督ピラトはイエスを鞭打った後、いばらの冠をかぶらせて懲罰を行い、それで釈放しようとした。彼は群衆の前に進み出て、

「この者をどうするか?」

と、判断を民に委ねた。民衆がこれで納得するだろうと思ったらしい。だが、群衆はイエスの厳罰を求めた。祭司長たちと神殿の番兵側の人間が多く紛れ込んでいたからである。ピラトは群衆の求めに折れ、イエスを磔刑に処すことに決めた。

 総督官邸からゴルゴダの丘までを、イエスは十字架を背負い、歩かされた。途中で何度か倒れたが、最後まで自力で十字架を担ぐよう、強いられた。
 丘までたどり着くと、イエスは釘で手足を十字架に打ち付けられ、掲げられた。
 マリアやミケーレ、ペトロを筆頭にした弟子たちが駆け付けた、正にその時、イエスは脇腹を槍で突かれ、処刑された。

 刑の執行後、十字架から降ろされた息子の頭を膝に抱き、マリアは息子の乱れた頭髪を撫でつけながら、傍に立つミケーレに呟いた。

「何でかな。この子がこんなことになったのに、ちょっとだけ、ホッとしてるの」

 ミケーレは何も言わない。黙って聞いていた。マリアが続けた。

「いつか、こんなことになる気がしてたのよ。色々なところから、睨まれてたから」

 そう言ってミケーレに見せた顔は、複雑な表情だった。安堵したような、それでいて、今にも泣き出しそうな、そんな顔。それを見かねたか、ペトロたち弟子が声を掛けた。

「母上様。師をお運びします」
「ああ、そうね。ありがとう」

 弟子たちによってイエスの遺骸は一旦、マリアたちの家に運ばれた。敷いた(むしろ)の上に遺骸は安置された。

 埋葬前のバタバタとした慌ただしさの中、イエスの遺体をミケーレは見詰めていた。何か、気になることでもあるらしい。
 ただ、遺体の傍で脱力しているマリアを気遣ってか、近寄って眺めるでもなく、遺体をしばらく見詰めた後、家の外に出て行った。

 遺体は翌日には埋葬された。その際、弟子の一人が、

「師は、『たとえ死んでも、三日のうちに復活する』――と申されていたそうです」

と、マリアに告げた。ちょうど、その時にマリア宅を訪れたミケーレにマリアはイエスが言ったという言葉を伝え、

「どういう意味だと思う?」

と問うてきた。

「さあな」

 ミケーレは両手を広げ、解りかねる――とばかりに、首を振って言った。さらに続けて言う。

「普通に考えれば、言葉通りの意味だろ?」
「普通ならそうよね」
「それが、いいことか悪いことかは別だがな」
「ん?」

 そのミケーレの物言いが気になったのか、マリアが問い直した。

「何か、知ってるの?」
「いや? そう見えたか?」
「うん」
「そうか。何となく――だよ。何となく、そんな気がするだけさ」
「そう」
「ああ」

 それきり、二人は黙ってしまった。マリアは黙って、ミケーレが腰に佩いている短剣を見ていた。刀身が三十センチメートルほどの品だった。先日まではなかったものだ。

「それは?」
「ん? これか?」

 ミケーレの短剣を指差し、マリアが問い掛けた。ミケーレは腰の品に手を添え、答えた。

「こいつは護身用さ。近頃は物騒だからな」
「ミケーレなら、そんなものはなくても大丈夫と思うけど。何でもこなしちゃうんじゃない?」

 マリアは薄く笑って言った。その笑顔は、無理に笑っているようにも見えた。

「そうかい? けど、そいつは買い被り過ぎだよ」

 マリアの意見を、ミケーレは()なす。
 マリアに対するミケーレの言動はいつも通りで、イエスの死後も変わらなかった。我が子を失ったマリアを変に気遣うでもなく、普段通りに接したのだ。
 そんなミケーレに、マリアもようやく自然な微笑で笑った。

 そこへ、

「母さん」

と扉の外から、マリアを呼ぶ声がした。
 以前と変わりなく――。
 息子の声で――。

 マリアが戸の方を見た。

「イエス?」


 
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