第七話 邂逅

文字数 5,154文字

 
 二〇**年十一月**日。

 もう、冬がすぐそこまで近づいてきていると様々な事象に感じさせられる、晩秋のある日。

 立ち並ぶ街路樹のイチョウは葉を黄色く染め始めていた。見れば、あちらこちらに銀杏をたわわに実らせたものもある。もうすぐ落ちて、あの独特の匂いを辺りに振り撒くことだろう。
 公園に植えられた低木の下に広がる草叢からは、何の種類だろうか、複数種の虫の音が、心地好い音色を響かせていた。
 とはいえ、ここ一週間の冷え込みで、すっかり数が減った。
 冬の到来まで、あと僅かだ。残された生命の限りに鳴いているのだ。

 駅前のオフィス街や繁華街にそびえる高層ビルの間を吹き抜ける夜の風は、時に肌寒く感じるようになった。夕刻の道行く人々は、何かに追い立てられているかのように、足早に通り過ぎていく。
 日が暮れた頃には辺りを煌々と照らしていた月――あと二日もすれば満月になる月が、分厚い雲に覆われて、すでに久しかった。

 ドン――!!

 それは突然だった。
 アルバイトを終え、帰宅途中であった日下部(くさかべ)沙月(さつき)の目の前に、黒い物体が落ちてきたのだ。何が起きたのか――と目を見開いて確かめようとするも、すでに夜のこと。即座には分からなかった。
 何かが落ちてきた――。
 それだけが分かり得た全てだった。

 左手に建つ高層ビルから落ちてきた

は余程の勢いであったらしく、アスファルトの路面を大きく陥没させた。沙月が

、今の時刻を確認しようと時計を見るために、ほんの少し立ち止まらなければ、直撃していただろう。
 当たっていれば、沙月は即死であった。
 それほどの速度と威力であったのだ。

 その黒い物体はアスファルトを圧し割った瞬間に、前方へと


 続いて、それが跳ねとんだ後の地面に、何かが突き刺さった。物体を追いかけるように、いや、追いやるように刺さった物は、都合三本。薄暗い街灯に照らされるだけでも、十分に輝いて見えるのは、およそ刃渡り十二センチメートル、柄が五センチメートルほどの小柄(こづか)のようなナイフであった。

 そのナイフの向こう、車道を挟んだ向かいの歩道に、あの落ちてきた物体が(うずくま)っていた。
 物体と見えたそれは、黒衣を纏っていた。その頭部らしき部分はフードを被っていたのだ。
 それが僅かに動き、沙月を――見た。
 血走った真っ赤な眼で――。
 憎悪と怨嗟。その他の、ありとあらゆる全ての負の感情に塗り固められたような眼で――。

 その眼と視線が交差した瞬間、沙月は身体の奥底、心臓を鷲掴みにされ、魂までが凍りつくような感覚を覚えた。
 原初の恐怖――。
 人間がこの世の覇者でなかった頃に、遺伝子に刻み込まれた遠い記憶。捕食者の影に怯え、身を潜めるように生きていた頃の恐怖。

 ここにいてはいけない――と沙月は思った。
 逃げなければ――、死ぬ。
 だが、沙月はその刹那、自身の身体が硬直していることを知った。声を上げることも出来ない。すべての機能が麻痺していた。
 ただ、

を見ているしか出来なかった。いや、眼を離せなかった。
 恐怖故に――。

「あ……」

 震える声が――出た。
 しかし、それも僅かだ。助けを呼べるほどの声量ではない。もとより、この辺りに人通りはなかった。助けてくれる者は誰もいない。

「あ……」

 再び、声を絞り出した時、そっ、と先ほどの陥没の上に、軽やかに降り立った者があった。
 落下の衝撃を軽く曲げた膝ですべて吸い取り、新たに降り立ったその人物は、着地と同時に、地を蹴り、前方の黒い影へと(はし)った。
 〝疾った〟と言っても、アニメや漫画でよくあるように、闇雲に頭から突っ込むかの如くに疾ったのではない。僅かに傾けてはいたが、あくまで上半身は垂直を基本とし、下半身のみで、詰め寄ったのだ。また、こうでなくては不意の事態に対応出来ない。
 攻防は一体であるべきなのだ。
 たとえ絵面(えづら)的には派手で格好が良くとも、ジャンプしてからの攻撃など、相手が手練れであれば容易に迎撃が可能であり、絶好の的である。そんな隙だらけの攻撃など、武道ではあり得ない。

 ちなみに、『鯉口を切る』という言葉がある。
 日本刀の刃を出し入れする鞘の口を〝鯉口〟と言い、鍔を押して刃を少し出すことを『鯉口を切る』と言う。その意味は、戦いの〝

〟と言われる。
 よく時代劇で、悪徳な豪商などに用心棒として雇われている浪人が、商人に直訴に来た者たち――武術の心得のない町人であったり、剣の実力のない武士であったりする――を脅す様を描くときに、この『鯉口を切る』シーンが見られる。それを見た者が怖気づき、引き下がらざるを得なくなる――という場面である。
 が、実際には〝鯉口を切った〟ならば、それは〝

〟を意味する。けして、脅しではない。その段階は、もはや越えているのだ。
 あとは、斬るか、斬られるか――である。

 また、『鍔に指をかける』ということも、戦いの意思表示として映像などでは描かれる。
 しかし、刀は重く、鞘とぴったりの刀でも、柄が下に向けば、重みで刀が抜け出てくることもあり得るのだ。そのため、本来は普段から〝鍔に指をかけ〟、不意に抜け出てくることがないよう、押さえているものなのである。特別のことではないのだ。

 さらに付け加えるならば、刀を上の方向に抜き出す場面もよく見受けられる。時代劇や漫画などで特に多いようだが、狭い場所での奇襲ならともかく、武道をやるならば、あんな隙だらけの抜き方はしない。詰め寄られて、斬り込まれれば、防戦することから始めねばならなくなる。よって、柄を相手に向け、相手を制しながら抜くものだ。

 また、対峙した人物が相手の刀の柄頭を押さえて抜かせないようにする――などということは、不可能だ。それなりの腕前ならば、敵対者と判断した者と対峙した時点で『鞘送り』ということをする。
 『鞘送り』とは、納刀した状態の鞘を、左手の下腕――肘までの分だけ送り出すことをいう。その際には右手は柄に触れた状態である。つまり、(へそ)の前方に、両の手で三角形の形を作るように刀を〝送り出し〟て構えた状態だ。
 そうなれば、実際には鞘から少しも刀を抜いていなくても、刀身の半分は抜いたも同然なのである。なぜならば、柄を握った右手はその位置のままで、鞘だけを腰まで戻せば、送り出していた左手下腕の分だけ、刀身が抜けた状態になるからだ。残りの半分は(たい)で抜く――自身の身体を後方に下げれば、刀身の全てを抜き出すことが出来る。身体を後方に下げることを、前方に向き合って対峙している人物が妨げることなど出来ようはずもない。
 結果、これで柄頭を押さえても無意味となる――というわけだ。

 それはともかく――。

 疾り寄る人物を迎え撃とうと、黒い影から二本の突起状の何かが突き出されたが、その人物は左腰に携えていた刀剣を一閃、右上に逆袈裟に斬り上げた。
 斬り飛ばされた突起状の物は、空中で塵芥となって、雲散霧消した。黒い影は追撃を避けるためか、大きく飛び退(すさ)った。
 黒い影とその人物は、五メートルほどの距離を置いて、対峙した。

 沙月には、ここまでで何が起こっているのか、さっぱり理解出来なかった。厚い雲が月を覆っていて、薄暗かったし、街灯は離れた場所にあったからだ。人間の目で状況を認識するには、光量が足りなかったのだ。僅かに、刀身の軌跡を、銀光によって知ることが出来ただけである。
 しかし、ここにきて、ようやく月が雲の隙間から顔を覗かせた。
 それで、沙月にも、影に向き合う人物を見て取ることが出来た。

 あの黒い影に堂々と対峙するその人物は、英国バブアー社の黒いオイルド・ジャケットコートを着、セージ色のセーターと紺のジーンズを身に着けていた。足元はミドルカットの革靴。
 細身だが、決して華奢ではない体躯をした男であった。手にする刀剣は(まさ)しく日本刀だったが、その甘く端正な顔付きは日本人のそれではなかった。

 再び軽く腰を落とし、影に詰め寄る男は速かった。瞬時にして五メートルほどの距離を詰めて見せたのだ。
 影すらも、反応しきれない速度。そして、再び斬り上げる銀光。
 しかし、それは影ではなく、何処からともなく飛来した物を弾き返した。
 そして、対立する男たちの様子を、ただ見つめているしかなかった沙月へと、突然男は疾った。鋭角ほどもある急激な方向転換であった。

「なななっ、なんでっ……!?

 沙月は動揺した。男が味方かどうかはともかくも、とりあえずは、助けであろうと判断したところだったからである。
 沙月に対応する(いとま)も与えず、男は眼前に迫り、煌めく刀身を跳ね上げた。

 チチイーン――。

 複数の物を弾く、美しい金属音。間、髪を入れず、再び、

 チチイーン――。

 またも、美しい金属音。
 そして、男は弾かれ、クルクルと回転しながら舞い落ちる金属片を空中ですべて、右手に掴み取った。すでに、一刀は鞘に納められている。
 五指の間に挟まっているのは、刃渡り二十センチはあろうかという投げナイフであった。
 その数、四本。

(え? 護ってくれた……?)

 男に襲われると思っていた沙月は、今も男が庇うように立ち、二人の右手後方のビルを見上げていることに気付いた。ナイフはそちらから、投擲されたのだ。
 一投目と二投目に、タイムラグはほとんど無かった。その差は、二回の投擲の動作分だけだったのだ。つまり投擲者は、沙月に向かって投げたナイフを、男が受けるであろうと見越して、第二撃を放ったということである。

「あいつめ……」

 男はそう呟いた。その声には、投擲者とは旧知であるらしい響きがあった。それから、男はゆっくりと黒い影の方を向いた。
 もうそこに、あの黒い影はなかった――。


 男は沙月を見やると、

「怪我はないか?」

と、簡潔に問うた。黒い髪に、黒い瞳をした外国人。歳の頃は二十代後半から三十歳代半ばまでだろう。見た目よりも、ずっと落ち着いた印象を与える男であった。沙月は男の話す言葉が流暢な日本語であることに、改めて気が付いた。

「あ、は、はい……だいじょ……」

 『大丈夫です』と言いかけた沙月の足がガクリと崩れた。
 極度の緊張から解放されて、腰の力が抜けたのだ。両足も同様だった。力んでも膝が笑っていて、立っていられない。

「……っと」

 男が崩れる沙月の上腕を片手で掴み、支えた。そのまま、沙月を持ち上げ、つま先が触れるか、触れないかという高さで、

「立てるか?」

と、聞いた。

「だ、大丈夫です」

 沙月は、気恥ずかしさを隠すように、早い口調でそう答えた。

「そうか」

 男はそう言って、そっと沙月を降ろした。沙月の靴裏が地に着いた。しかし、男はまだ手を離さない。

「いけるか?」

と、男は確認した。沙月がちゃんと立てるか、心配なのだろう。

「は、はい!」

 靴底から伝わる地面の感触を確認して、沙月が答えた。やけに返事が大きくなったのは、男の顔が近くにあったからだ。
 思えば、高校に入ってからは、これほど男性と顔を近づけることなどなかった。沙月は頬が紅くなるのを自覚した。

「そりゃあ、良かった。本当に怪我はないな?」

 男が確認するように、再度、問うた。

「え、と……。大丈夫です」

 沙月は自分の身体を確かめるように触ってから、そう答えた。

「気を付けて帰りな。さっきの奴も、今日は懲りて出てこないだろうが、あんまり遅くまで出歩くなよ」

と、男は言った。沙月は男の言葉に、ふと抱いた疑問を口にした。

「懲りて?」
「ん? ああ、さっきな、お嬢さんの方に向かう前に、

を投げたんだよ」

 そう言って、男は先ほどの小柄を見せた。路面に突き刺さっていたものをいつの間にか、回収していたらしい。

「牽制のつもりで投げたんだが、当たったのは、血の匂いで分かったからな」
「匂い?」
「そう、匂い。オレは

んだ」

 男は言いながら、口元に苦笑を浮かべた。何となく、自嘲気味にも見えた。

「お。やっとこさ、目が覚めたらしい」

 男が、ふと思い出したかのようにそう言って、背後の高層ビルを振り返った。男につられて沙月が振り返るよりも速く、ビルが明るくなった。見れば、疎らではあったが、各階で照明が点いたのだ。
 思い返せば、あの黒い影が現れた時にはすでに、ビルの照明は点いていなかった。
 まだ、深夜でもないのに――。
 不自然なこと、極まりなく――。
 そう言えば、周りの街灯も点いていたり、いなかったりしている。そんなことはあり得ないのに。

Buonanotte(ブォナノッテ), Signorina(シニョリーナ)(お休み、お嬢さん)」

 ビルを見やる沙月の後ろから、そんな男の言葉が沙月の耳に届いた。

「えっ? ブォ……?」

 聞きなれない言葉に、沙月が戸惑いつつ振り向けば、もう男の姿はなかった。


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