第4話

文字数 1,540文字

 俺は、食器を新聞紙で包むマリコの背中を見つめていた。白いシャツ越しに透けてみえるブラジャー。黒地に金の糸で花が刺繍してある物で、いつ、どこで買った物か知っているし、そのブラに包まれている肉体の柔らかさと肌の質感も知っているが、この一ヶ月、マリコが何に笑い、何に感動して何を食べて暮らし、何を考えて来たのかは知らない。現在進行形のマリコの事は何一つ知らない。俺の目の前にいるマリコと俺の中のマリコは同じじゃない。俺の彼女ではないマリコが目の前で作業をしている。それは見知らぬ他人がしている作業を眺めているのと本質的には変わらない。もう、触れてはいけない人。無理やり抱きしめたとしても抱きしめ返してはくれないだろう。
 「なあ」
 「何?」
 「俺のどこがダメだった?」
 「何よ急に」
 「いいじゃん。今後の参考にするからさ。あいつだろ?この前、お前が言ってた男。あんなのかタイプだったのか」
 俺は悪ぶって言う。どうせ、今日で最後。さっきのあれ何?みたいな喧嘩をする事は、もうない。
 「なんかムカつく言い方するのね」
 「どこが?前向きな話だろ。俺のどこを直せば浮気されない男になれるんだ。あいつにあって俺に無かったものってなんだよ」
 「やめて」
 「なにをやめる?お前に何かしたっけ。されたのは俺だろ?俺の方がやめて欲しいよ」
 「ドン」玄関から何かを叩く大きな音が聞こえた。俺からは男の姿は見えないが、やつが玄関扉を殴ったであろう事は、音と空気でわかった。
 「ごめーん、先に車で待っててー」
 マリコは玄関の男に声をかけた。勢いよく閉める扉の音が威嚇的に響く。
 「あいつ、人の家を何だと思ってるんだ。傷が付いてたら許さねえからな。……どこか良いんだよ、あんなやつの」
 マリコは作業の手を止めない。
 「あんなやつに俺は負けたっていうのか。礼儀も知らない乱暴な筋肉バカにさ。将来性無いじゃん、あんな浮気男。人の彼女に手を出すような男だぞ?お前もそのうち浮気されるに決まってるよ」
 マリコは箱の口をガムテープで閉じ、そのガムテープを俺に渡した。
 「あなたじゃないって思ったの。ただそれだけよ。彼が理由じゃない」
 突き刺すような眼差し。俺を哀れんでいるようにも感じる。そこには俺への親愛は欠片もなく、一切の温度を感じない。俺は自分の興奮が一気に冷めていくのを感じる。背中に一筋、冷たい。
 「もう行くね。ありがとう、貴重な休日なのに」
 「最後の最後まで謝らないんだな」
 「何?謝って欲しいの?」
 俺は今怯えた顔をしていないだろうか。マリコにそう映ってはいないだろうか。謝るどころか悪びれる事さえないマリコの態度に、逆に俺が悪い事をしたかと錯覚してしまう。いつだってそうだった。
 「こうなった原因はお前にあるんだから、一言くらい何かないのか?」
 「何かって、何?」
 「私が悪かったとか、ごめんなさいとかさ」
 マリコは微笑む。それは母性の笑み。俺の顔のパーツを一つ一つ確認するように眺める。ゆっくりと唇が開く。厚くぷっくりとした唇。
 「トオルが悪いとか私が悪いとか、正直、意味がわからないのよ。だって考えてないだから、理由なんて。単純に私とあなたとのペアとしての賞味期限が切れただけの事なの。私にとってあなたは経由地だったの。あなたにとっての私も多分そうよ」
 そう言って、颯爽とマリコは出て行った。玄関から段ボールの箱と化粧台が無くなり、俺一人残された室内からマリコの気配は全て消え去った。俺は玄関扉に鍵をかけ、叩かれた場所に傷がついてないかを確認した。傷はついてなかったが、別のものを見つけた。
 「傘、忘れてるぞ。バカ女」
 赤白のチャックのダサい女物の傘が玄関の隅に残っていた。昔、俺がプレゼントした物だ。
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