第10話 あの言葉が本心だよ
文字数 2,020文字
今にも水平線の向こうに消えようとする太陽の巨大な炎に包まれて、幾つもの島々が西の海上にぽっかりと浮かんで見えた。浮島という現象だ。兄ちゃんも由香里ちゃんもそれを指差し見つめていた。
海や太陽はちゃんと分かってくれている。
僕はそれが嬉しかった。
海が少しずつ昼の光を吸い込み、代わりに夜の深い色彩と白い冷気を交互に吐き出していく。併せて波が、夕暮れに特有のあの緋色を、海の向こうからひっそりと持ち寄る。それらが、兄ちゃんの赤と由香里ちゃんのオレンジ色をより鮮やかに浮かび上がらせる。
粋な演出だった。僕は立ち止まってその光景に見とれていた。
ずっとこのまま見ていたいと思った。
「あっ、来た来た。おーい!こっち、こっち!」
僕に気付いた由香里ちゃんが大きく手招きした。僕も手を振り返し、ゆっくり二人のもとへ歩み寄った。
「結婚おめでとう。はい、これケーキ。」
「うわあっ、嬉しい!ありがとう!すごいなぁ!こんなおっきいの、一人で作ったん?」
「うん。このケーキはね。こっちのパンは店長さんが二人に、て。それとこれは達也君から。」
僕は預かってきたものを二人に渡した。
「このケーキ、今作ってきたの?」
「うん、どうにか間に合った。」
「ありがとう。お前、いっつもいっつも何でそんなに優しいん?大好きやわ、ほんま…」
そう言って由香里ちゃんは僕の首に腕を回し、力いっぱい抱きしめてきた。これには驚いた。
でも僕をもっと驚かせたのは由香里ちゃんが泣いていたことだった。白く華奢な肩が小刻みに震えていた。僕は咄嗟にそれが嬉しいからだけじゃないってことを感じとった。
由香里ちゃんの門出を心から祝ってくれる仲間や大人がいったい何人いるのだろう。
なぜ誰も見送りに来ないのだろう?
みんな、このまま二人だけ行かせるつもり?
悔しかった。時間があればそこら中を駆け回って無理にでもかき集めるのに…。
僕は由香里ちゃんの温もりを感じながら、兄ちゃんも由香里ちゃんも絶対に幸せになって、と心から祈った。夕暮れの中で優しい二つの光が、寂しげに明滅していた。
「連絡先が分かったら教えて。ケーキ作って遊びに行くから。」
「ああ。お前には一番に連絡する。」
「遊びに来てや。」
由香里ちゃんが笑った。
「うん、絶対に行く。ただ…、アキラ、最後に一つ聞いていい?今日はいったい何があったの?」
兄ちゃんの顔が一瞬曇り、夕闇の中で発する赤色が微かに揺らいだ。由香里ちゃんも心配そうな面持ちで兄ちゃんの顔を見つめた。
「俺のこと言うんやったらまだ許せる。そやけど、お前のことまで…。」
兄ちゃんは下を見ながら小声を震わせて言った。
「えっ?」
「オヤジ、ぜんぜん分かってへん。」
「お父さんが何か僕のことを言ったの?」
兄ちゃんはそれには答えず、ちょっと涙声で、それでも強い口調でこう言った。
「お前がおるからあの家はどうにかもっとるんや。そやのに、オヤジ…、全然分かっとらん…。全然や…。」
図らずも僕にはお父さんがどんなことを言ったのか想像できてしまった。
その一言一句まで。
正直言うとショックだった。
頭がクラクラする。
でも、さっきお父さんが別れ際に言った言葉を思い出して直ぐに立ち直った。
「お父さん、ちゃんと分かってる。さっき言ってた。アキラもお前もおんなじくらい大事なんやけどなぁ、って。」
兄ちゃんの視線が咄嗟に僕の目に突き刺さった。
「あの言葉が本心だよ。お父さんも辛いんだよ。誰でも辛い時って、本心と違う言葉が思わず出ちゃったりするもんだよ。お父さんだって…、きっと愚痴の一つや二つ、言いたくなる時あるよ。僕たちだっていっぱい原因作ってるもん。」
「原因作ってんのは俺や。お前は関係ないやろ。」
「いいや、僕は僕でお父さんの心配の種なんだよ。お父さん、僕のこといっぱい心配してくれてる。お父さんが何を言ったかなんて、そんなの大した問題じゃない。今、お父さん、アキラのこと考えてるよ。僕のことも。きっと申し訳ない気持ちでいっぱいなんだよ。お父さん、何度も言ってた。アキラにもお前にも申し訳ないって…。」
その時なぜかこんな光景が目蓋に浮かんだ。
お父さんとお母さん、それにアキラ、由香里ちゃんとその子供たち(それは男の子と女の子だった)が、楡の木の下の大きなテーブルいっぱいに真っ白なテーブルクロスを広げ、僕の焼きたてのケーキをみんなでわいわい言いながら食べている光景が。
由香里ちゃんが言う。
「美味しいわ!お前、腕あげたなぁ!」
子どもたちは一心不乱に夢中でケーキを食べている。直ぐに平らげてしまうと、口いっぱいにクリームをつけたまま、もっとないんか、もっと大きいやつ、とねだる。僕が新しいのを焼き上げて持っていくと、子どもたちが我先にとそいつを奪い取っていく。みんなが笑う。僕も笑う。
いつかこんな日がきっと来る。
必ず来る。
ある晴れた5月の日曜日。
緑ざわめく楡の木の下で。
海や太陽はちゃんと分かってくれている。
僕はそれが嬉しかった。
海が少しずつ昼の光を吸い込み、代わりに夜の深い色彩と白い冷気を交互に吐き出していく。併せて波が、夕暮れに特有のあの緋色を、海の向こうからひっそりと持ち寄る。それらが、兄ちゃんの赤と由香里ちゃんのオレンジ色をより鮮やかに浮かび上がらせる。
粋な演出だった。僕は立ち止まってその光景に見とれていた。
ずっとこのまま見ていたいと思った。
「あっ、来た来た。おーい!こっち、こっち!」
僕に気付いた由香里ちゃんが大きく手招きした。僕も手を振り返し、ゆっくり二人のもとへ歩み寄った。
「結婚おめでとう。はい、これケーキ。」
「うわあっ、嬉しい!ありがとう!すごいなぁ!こんなおっきいの、一人で作ったん?」
「うん。このケーキはね。こっちのパンは店長さんが二人に、て。それとこれは達也君から。」
僕は預かってきたものを二人に渡した。
「このケーキ、今作ってきたの?」
「うん、どうにか間に合った。」
「ありがとう。お前、いっつもいっつも何でそんなに優しいん?大好きやわ、ほんま…」
そう言って由香里ちゃんは僕の首に腕を回し、力いっぱい抱きしめてきた。これには驚いた。
でも僕をもっと驚かせたのは由香里ちゃんが泣いていたことだった。白く華奢な肩が小刻みに震えていた。僕は咄嗟にそれが嬉しいからだけじゃないってことを感じとった。
由香里ちゃんの門出を心から祝ってくれる仲間や大人がいったい何人いるのだろう。
なぜ誰も見送りに来ないのだろう?
みんな、このまま二人だけ行かせるつもり?
悔しかった。時間があればそこら中を駆け回って無理にでもかき集めるのに…。
僕は由香里ちゃんの温もりを感じながら、兄ちゃんも由香里ちゃんも絶対に幸せになって、と心から祈った。夕暮れの中で優しい二つの光が、寂しげに明滅していた。
「連絡先が分かったら教えて。ケーキ作って遊びに行くから。」
「ああ。お前には一番に連絡する。」
「遊びに来てや。」
由香里ちゃんが笑った。
「うん、絶対に行く。ただ…、アキラ、最後に一つ聞いていい?今日はいったい何があったの?」
兄ちゃんの顔が一瞬曇り、夕闇の中で発する赤色が微かに揺らいだ。由香里ちゃんも心配そうな面持ちで兄ちゃんの顔を見つめた。
「俺のこと言うんやったらまだ許せる。そやけど、お前のことまで…。」
兄ちゃんは下を見ながら小声を震わせて言った。
「えっ?」
「オヤジ、ぜんぜん分かってへん。」
「お父さんが何か僕のことを言ったの?」
兄ちゃんはそれには答えず、ちょっと涙声で、それでも強い口調でこう言った。
「お前がおるからあの家はどうにかもっとるんや。そやのに、オヤジ…、全然分かっとらん…。全然や…。」
図らずも僕にはお父さんがどんなことを言ったのか想像できてしまった。
その一言一句まで。
正直言うとショックだった。
頭がクラクラする。
でも、さっきお父さんが別れ際に言った言葉を思い出して直ぐに立ち直った。
「お父さん、ちゃんと分かってる。さっき言ってた。アキラもお前もおんなじくらい大事なんやけどなぁ、って。」
兄ちゃんの視線が咄嗟に僕の目に突き刺さった。
「あの言葉が本心だよ。お父さんも辛いんだよ。誰でも辛い時って、本心と違う言葉が思わず出ちゃったりするもんだよ。お父さんだって…、きっと愚痴の一つや二つ、言いたくなる時あるよ。僕たちだっていっぱい原因作ってるもん。」
「原因作ってんのは俺や。お前は関係ないやろ。」
「いいや、僕は僕でお父さんの心配の種なんだよ。お父さん、僕のこといっぱい心配してくれてる。お父さんが何を言ったかなんて、そんなの大した問題じゃない。今、お父さん、アキラのこと考えてるよ。僕のことも。きっと申し訳ない気持ちでいっぱいなんだよ。お父さん、何度も言ってた。アキラにもお前にも申し訳ないって…。」
その時なぜかこんな光景が目蓋に浮かんだ。
お父さんとお母さん、それにアキラ、由香里ちゃんとその子供たち(それは男の子と女の子だった)が、楡の木の下の大きなテーブルいっぱいに真っ白なテーブルクロスを広げ、僕の焼きたてのケーキをみんなでわいわい言いながら食べている光景が。
由香里ちゃんが言う。
「美味しいわ!お前、腕あげたなぁ!」
子どもたちは一心不乱に夢中でケーキを食べている。直ぐに平らげてしまうと、口いっぱいにクリームをつけたまま、もっとないんか、もっと大きいやつ、とねだる。僕が新しいのを焼き上げて持っていくと、子どもたちが我先にとそいつを奪い取っていく。みんなが笑う。僕も笑う。
いつかこんな日がきっと来る。
必ず来る。
ある晴れた5月の日曜日。
緑ざわめく楡の木の下で。
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