井の頭恩賜公園の水辺と鎮守

文字数 1,710文字

 井の頭恩賜公園は、武蔵野市の南東から三鷹市の北東にかけて広がる都立公園だ。JR中央線吉祥寺駅に近接した場所に、この巨大な林が広がっているのは何とも不思議な感じがする。
 総面積は 42万8,000平米だ。その中心に井の頭池がある。

 井の頭池は、北西から南東方向に延びる細長い形の池であり、北西端は二つに分かれ、南東端からは井の頭池を源とする神田川が流出している。神田川の流れの一部も井の頭公園に含まれている。
 1975~76年にかけて放映されたTVドラマ『俺たちの旅』を見たことのある人は、扇形に美しく噴き出す噴水や、ボートを漕いで楽しんでいるシーンに使われた場所だと言えば思い出すかも知れない。
 井の頭池の西側には御殿山の雑木林があり、吉祥寺通りを挟んで北側に「井の頭自然文化園」がある。雑木林の南側には玉川上水が東南方向に流れ、そのさらに南には西園がある。西園には競技場やテニスコート、三鷹の森ジブリ美術館もある。玉川上水の下流側の脇には東園もある。

 樹木の数は桁違いに多い。サクラ、ラクウショウ、ヒトツバダゴ、イヌシデ、モミジ、ヒノキなどの樹木が約20,000本、広大な芝生も広がっている。
 特に、春の桜は有名だ。井の頭池の中央を渡る七井橋から眺めると、池に向かって岸からせり出して延びる枝が、水面に届かんばかりに折り重なって桜の花が咲き乱れ、公園の美しさを演出する。

 西端の小さな島に弁天堂があり、弁財天が祀られている。
 紅葉の季節に来ると、弁天堂の鮮やかな朱色と樹木の緑と紅葉の彩り、そして池に設けられた噴水から扇形に噴き出す水の曲線が何とも言えない美しさを醸し出している。
 お堂の管理(別当寺)は三鷹市牟礼にある天台宗大盛寺だ。その起源は古い。平安時代中期に源経基が伝教大師作の弁財天女像をこの池に安置し、その後、1197(建久8)年に源頼朝が東国の平安を祈願して創建したとされている。鎌倉時代末期の元弘の乱で焼失し、数百年間放置された後、将軍徳川家光により再建されたとされている。

 井の頭とは川の水源のことをいう。「井」は泉の意味であり、それが比較的大量に湧水し、川の水源となったような場合に「井の頭」と俗に呼ばれた。だから同じ名を持つ地名は全国各地にある。
 ただ、ここ井の頭の地名は、別当寺である大盛寺縁起によれば、家光が池の畔の辛夷(こぶし)の木に刀の小柄(こづか)で「井之頭」の三字を彫りつけたことによるようで、その彫りつけたところを寺宝として長く保存していたが、火災で焼失したという。明治26年にその伝承にちなんだ石碑が建てられている。
 家光がこの地を何度も訪れていたのは確かなようで、御殿山の地名は家光が鷹狩りに訪れた際の休息のため、井の頭池を見渡す場所に御殿を造営したことに由来するそうだ。
 武蔵野一帯は三鷹という地名にも残るように、徳川歴代将軍が鷹狩りを楽しんだ鷹場だった。

 江戸市民にとっても、井の頭池は信仰の地であるとともに行楽地でもあった。
 安藤広重は『名所江戸百景』の「井の頭の池 弁天の杜」で秋の風景を、また『名所雪月花』の「井の頭の池 弁財天の社雪の景」で冬の夕景を描いていて、江戸近郊の風景地の一つとして知られていたことがわかる。
 風景地として以上に重要なのは、江戸時代初頭に神田川が改修され、江戸に神田上水が引かれたため江戸市民にとって井の頭池が貴重な水がめとなり生活の一部としてつながったことで、これがお参りへと足を運ぶ大きな誘因となったのだろう。
 弁財天の境内や石段の脇などの周辺に、その当時の商人や歌舞伎役者が寄進した石灯籠や宇賀神像(うがじんぞう)(穀物の神、転じて福の神)などが残っている。
 弁財天はもともと河の神様だが、水の流れの音が音楽や豊かに溢れる言葉を連想させることから、音楽をはじめとした芸術や学問全般の神様としての信仰も集めている。このため、歌舞伎役者を中心に弁財天信仰が厚かったのだろう。
 吉祥寺付近が、多くの芸術家やそれを目指す若者が集まる文化の発信地でもあり、ライヴハウスや劇場・映画館なども多いのは、こうした文化的な背景が、新たなつながりと関係性の相互作用を生んでいるからだろう。
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