第9話
文字数 1,614文字
夢子の大学入学は父の反対に関わらずどんどん進み、そしてついに高校を卒業。澄み切った青空の下、入学式に家族の姿はなく、夢子はさばさばした気持ちでやっと大学のキャンパスに立った。
専門学校に行った心美とは時折、一緒にお茶などしたりした。夢子にとっては大学進学の道を開いてくれた恩人である。いずれ(それもおそらく近いうち)違う方向性を持つと分かっていたが、夢子はいま少しだけ彼女の世界観に合わせていこうと学費の返済のつもりで決めていた。
いざ入学してしまうと勇作は一切何も触れてこなくなった。店は相変わらず暇だったし、中華そばを作ること以外勇作にできることはない。学費支弁ができない自分と夢子の独り歩きを思うと、どこか寂しかったのだろう。
だからか、勇作がこんな愚行を犯したのも寂しさゆえだったろう。
ある日の朝、夢子は図書館で借りていた授業用の参考文献2冊がなくなっていることに気づいた。この日返すつもりで昨晩から机の上に置いておいたのだ。その本が見当たらないのである。
(おかしいな)
ふと嫌な予感が走った。
呼応するように、窓の外白い煙が上がっている。もしやと部屋から庭を見下ろすと勇作が何やら燃やしている。灯油缶の中で炎に巻かれているものに見覚えがあった。夢子の気配に気づき、勇作が見上げる。その風采に、嫉妬に似た哀れさを湛えていた。
(ふざけんなよ!)
夢子は大慌てで庭に降りていった。
「なに、しとんじゃ!」
夢子が叫ぶ。
「たき火や」
勇作が呟く。
「うそつけ、うちの本やろが!」
「知るかい。俺は家にあるいらんもん、燃やしとるだけじゃい!」
「それはな、うちだけのもんやないんや! みんなが使う大切な本なんじゃ。なにしてくれとんねん!」
「そうか、俺にはただのゴミにしか見えんかったけどな」
勇作は飄々とそう呟いた。
(くっそぉぉっっ・・・)
夢子は拳を握ったまま震えている。こんな無慈悲な父を前に、夢子は吐き出すべき言葉を選べなかった。況や憎しみともつかぬ行き場を失った感情が目の前の中華そばしか作れない小さき存在を滅する憎悪すら見失っていた。ぱちぱち音を立てる灯油缶の中を黙って見ているしかなかった。
そして言った。
「うちは、どないしたらええねん」
やっと声にしたところが掠れて炎に溶け込んだ。勇作は答えない。
「なお、おとん。どないしたら・・・」
サンダルの爪先に涙が小さく跳ねた。
「どこも行ったらあかんのか、うちは」
しおれた白眉を火に照らし勇作はうつむく。父、娘どちらの顔にも攻撃性はなかった。
勇作が呟く。
「俺は中華そば屋じゃ。他のことはわからん」
夢子の涙声が炎に刺さる。
「うちは中華そば屋の娘や。けど、大学に行きたいんじゃ」
勇作はかろうじてこう応じた。
「大学いくのはかまへん。せやけど、あれだけはあかん。あれだけはやめてくれ夢、頼むさかい」
これを聞いて夢子は固く目を閉じた。瞳の奥で明滅している光から心美と客たちの悦楽した顔が浮かんできた。
そして言った。
「せやったらおとん。奨学金借りてええか? あればこのさきせんでも行ける」
勇作は奨学金がどういうものかまったく理解していない。しかしこの場合、彼はこう言うしかなかった。
「すきにせえ」
そう言い放つと、勇作はバケツの水を灯油缶に注いだ。消火された炎の余熱がしゅうしゅう音を立てて、灰燼の底にはなんやら入門と読めそうな焼き残りが黒く光っていた。
***************
<自己紹介>
水無月はたち
大阪下町生まれ。
Z世代に対抗心燃やす東京五輪2度知る世代。
ヒューマンドラマを中心に気持ち込めて書きます。
―略歴―
『戦力外からのリアル三刀流』(つむぎ書房 2023年4月21日刊行)
『空飛ぶクルマのその先へ 〜沈む自動車業界盟主と捨てられた町工場の対決〜』(つむぎ書房 2024年3月13日より発売中)
『ガチの家族ゲンカやさかい』(つむぎ書房 2024年夏頃刊行予定)
専門学校に行った心美とは時折、一緒にお茶などしたりした。夢子にとっては大学進学の道を開いてくれた恩人である。いずれ(それもおそらく近いうち)違う方向性を持つと分かっていたが、夢子はいま少しだけ彼女の世界観に合わせていこうと学費の返済のつもりで決めていた。
いざ入学してしまうと勇作は一切何も触れてこなくなった。店は相変わらず暇だったし、中華そばを作ること以外勇作にできることはない。学費支弁ができない自分と夢子の独り歩きを思うと、どこか寂しかったのだろう。
だからか、勇作がこんな愚行を犯したのも寂しさゆえだったろう。
ある日の朝、夢子は図書館で借りていた授業用の参考文献2冊がなくなっていることに気づいた。この日返すつもりで昨晩から机の上に置いておいたのだ。その本が見当たらないのである。
(おかしいな)
ふと嫌な予感が走った。
呼応するように、窓の外白い煙が上がっている。もしやと部屋から庭を見下ろすと勇作が何やら燃やしている。灯油缶の中で炎に巻かれているものに見覚えがあった。夢子の気配に気づき、勇作が見上げる。その風采に、嫉妬に似た哀れさを湛えていた。
(ふざけんなよ!)
夢子は大慌てで庭に降りていった。
「なに、しとんじゃ!」
夢子が叫ぶ。
「たき火や」
勇作が呟く。
「うそつけ、うちの本やろが!」
「知るかい。俺は家にあるいらんもん、燃やしとるだけじゃい!」
「それはな、うちだけのもんやないんや! みんなが使う大切な本なんじゃ。なにしてくれとんねん!」
「そうか、俺にはただのゴミにしか見えんかったけどな」
勇作は飄々とそう呟いた。
(くっそぉぉっっ・・・)
夢子は拳を握ったまま震えている。こんな無慈悲な父を前に、夢子は吐き出すべき言葉を選べなかった。況や憎しみともつかぬ行き場を失った感情が目の前の中華そばしか作れない小さき存在を滅する憎悪すら見失っていた。ぱちぱち音を立てる灯油缶の中を黙って見ているしかなかった。
そして言った。
「うちは、どないしたらええねん」
やっと声にしたところが掠れて炎に溶け込んだ。勇作は答えない。
「なお、おとん。どないしたら・・・」
サンダルの爪先に涙が小さく跳ねた。
「どこも行ったらあかんのか、うちは」
しおれた白眉を火に照らし勇作はうつむく。父、娘どちらの顔にも攻撃性はなかった。
勇作が呟く。
「俺は中華そば屋じゃ。他のことはわからん」
夢子の涙声が炎に刺さる。
「うちは中華そば屋の娘や。けど、大学に行きたいんじゃ」
勇作はかろうじてこう応じた。
「大学いくのはかまへん。せやけど、あれだけはあかん。あれだけはやめてくれ夢、頼むさかい」
これを聞いて夢子は固く目を閉じた。瞳の奥で明滅している光から心美と客たちの悦楽した顔が浮かんできた。
そして言った。
「せやったらおとん。奨学金借りてええか? あればこのさきせんでも行ける」
勇作は奨学金がどういうものかまったく理解していない。しかしこの場合、彼はこう言うしかなかった。
「すきにせえ」
そう言い放つと、勇作はバケツの水を灯油缶に注いだ。消火された炎の余熱がしゅうしゅう音を立てて、灰燼の底にはなんやら入門と読めそうな焼き残りが黒く光っていた。
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<自己紹介>
水無月はたち
大阪下町生まれ。
Z世代に対抗心燃やす東京五輪2度知る世代。
ヒューマンドラマを中心に気持ち込めて書きます。
―略歴―
『戦力外からのリアル三刀流』(つむぎ書房 2023年4月21日刊行)
『空飛ぶクルマのその先へ 〜沈む自動車業界盟主と捨てられた町工場の対決〜』(つむぎ書房 2024年3月13日より発売中)
『ガチの家族ゲンカやさかい』(つむぎ書房 2024年夏頃刊行予定)