第8話
文字数 1,633文字
どれほどの時間が過ぎただろう。
遼には時が止まったように感じられたが、正確には数分の出来事だった。
田村に肩を抑えられ、祈るような気持ちで海上を睨んでいた遼は、水のうねりに小さく波立つ気泡を目敏く見つけた。
気泡のあと、海面が大きく揺らぎ大貫と優樹の姿が浮かび上がる。
救命浮環を捕らえた大貫を、田村が満身の力を込めて引き寄せた。
先に船上に引き上げられた優樹は激しく咳き込んではいたが、意識ははっきりしているようだ。
遼はほっと胸をなで下ろす。
「どうやら救命手当ては必要ないようだな……」
田村も大きく安堵の息をもらした。
毛布を取りに行った大貫が戻って来て、困惑の表情を浮かべる。
「それにしても、優樹君が溺れるとは……一体どうしたんだ? 痙攣か? 気分が悪くなったのか? どちらにせよ、すぐに帰ってちゃんと病院で診てもらわなければ」
「……すみません、迷惑かけてしまって。俺にもわかんないんだ、急に体が利かなくなって、まるで……」
続く言葉を、優樹は言い淀んだ。
だが、その理由を遼は知っている。
優樹は、何かに引きずり込まれたと感じているのだ。
おそらくあの水柱の化け物が見えたのは遼だけで、田村にも大貫にも見えてはいない。引き込まれた力を感じたのも、優樹自身だけだろう。
正直に話しても信じてもらえるはずもなく、痙攣で体が利かなくなったのだと言われるだけだ。
「とにかく、大事に至らなくてよかったよ。優樹に何かあったら、亡くなったお父さんに申し訳ないからな」
田村は、少し涙ぐんでいるように見えた。
優樹が申し訳なさそうに顔を俯けると、大貫が励ますように肩を叩く。
「釣りはまた仕切直しだ。港に帰ったら私が病院まで送ろう、先に無線で連絡を取っておくよ」
「ありがとう、直人」
田村の感謝の言葉に、大貫は笑顔で頷いた。
港に進路をとったクルーザーの後方デッキで、毛布にくるまった優樹は意気消沈の面持ちだ。
遼は田村から温かい紅茶をもらって、その横に腰掛ける。
「助かって良かったよ……本当に」
「……ああ」
俯いたまま、優樹は無愛想に返事を返した。
「僕は……もしかしたら君が、このまま帰らないんじゃないかって怖かった……」
「馬鹿だなぁ……縁起でもないこと言うなよ。俺は大丈夫さ。でも……」
優樹は少し口ごもったが、顔を上げると遼を真摯な瞳で見つめた。
「正直いうと俺は、もうダメだ、これは死ぬなって思った……。信じられないかも知れねぇけど、誰かが俺の背中に張り付いて、凄い力で深く、深く……真っ暗な穴の底のような海底に引きずり込もうとしたんだ。幽霊……だと思うか? おまえ」
「幽霊……か、どうかはわからないけど、何かが君を掴んで海底に引き込もうとしているのが僕にも見えた。あれは、いったい何だったんだろう?」
二人は無言で海面を眺める。
陽光に眩しく輝く水面に、彼等の見た不気味で恐ろしい影は今や微塵もない。
「あの…さ、俺、聞こえたんだ」
「えっ? 何が?」
遼は、海底から浮かび上がる奇怪な声を思い出した。
優樹にもあの声が聞こえたのだろうか? あの声の主が、海底に連れ去ろうとした者の正体なのだろうか?
しかし、それは何だろう?
「身体は、どんどん重くなって水圧で胃が口から飛び出しそうだった。意識が遠のいていくのに、酷い耳鳴りで頭が割れそうになって……もうダメだと諦めかけた。でも、死ぬもんかって思ったとき……俺の名を呼ぶ、おまえの声が確かに聞こえた。そしたら急に身体が動くようになった」
「あっ……」
夢中で叫んだことを思い出し、遼は赤面する。
「おまえが、呼び戻してくれたのかもな……おかげで助かったよ。ありがとう」
照れたように、優樹が笑った。
守護と厄(わざわい)……優樹を取り巻く二つの力。
その笑顔に安堵しながら遼は、優樹を攫おうとした力の正体に不安を覚えた……。
遼には時が止まったように感じられたが、正確には数分の出来事だった。
田村に肩を抑えられ、祈るような気持ちで海上を睨んでいた遼は、水のうねりに小さく波立つ気泡を目敏く見つけた。
気泡のあと、海面が大きく揺らぎ大貫と優樹の姿が浮かび上がる。
救命浮環を捕らえた大貫を、田村が満身の力を込めて引き寄せた。
先に船上に引き上げられた優樹は激しく咳き込んではいたが、意識ははっきりしているようだ。
遼はほっと胸をなで下ろす。
「どうやら救命手当ては必要ないようだな……」
田村も大きく安堵の息をもらした。
毛布を取りに行った大貫が戻って来て、困惑の表情を浮かべる。
「それにしても、優樹君が溺れるとは……一体どうしたんだ? 痙攣か? 気分が悪くなったのか? どちらにせよ、すぐに帰ってちゃんと病院で診てもらわなければ」
「……すみません、迷惑かけてしまって。俺にもわかんないんだ、急に体が利かなくなって、まるで……」
続く言葉を、優樹は言い淀んだ。
だが、その理由を遼は知っている。
優樹は、何かに引きずり込まれたと感じているのだ。
おそらくあの水柱の化け物が見えたのは遼だけで、田村にも大貫にも見えてはいない。引き込まれた力を感じたのも、優樹自身だけだろう。
正直に話しても信じてもらえるはずもなく、痙攣で体が利かなくなったのだと言われるだけだ。
「とにかく、大事に至らなくてよかったよ。優樹に何かあったら、亡くなったお父さんに申し訳ないからな」
田村は、少し涙ぐんでいるように見えた。
優樹が申し訳なさそうに顔を俯けると、大貫が励ますように肩を叩く。
「釣りはまた仕切直しだ。港に帰ったら私が病院まで送ろう、先に無線で連絡を取っておくよ」
「ありがとう、直人」
田村の感謝の言葉に、大貫は笑顔で頷いた。
港に進路をとったクルーザーの後方デッキで、毛布にくるまった優樹は意気消沈の面持ちだ。
遼は田村から温かい紅茶をもらって、その横に腰掛ける。
「助かって良かったよ……本当に」
「……ああ」
俯いたまま、優樹は無愛想に返事を返した。
「僕は……もしかしたら君が、このまま帰らないんじゃないかって怖かった……」
「馬鹿だなぁ……縁起でもないこと言うなよ。俺は大丈夫さ。でも……」
優樹は少し口ごもったが、顔を上げると遼を真摯な瞳で見つめた。
「正直いうと俺は、もうダメだ、これは死ぬなって思った……。信じられないかも知れねぇけど、誰かが俺の背中に張り付いて、凄い力で深く、深く……真っ暗な穴の底のような海底に引きずり込もうとしたんだ。幽霊……だと思うか? おまえ」
「幽霊……か、どうかはわからないけど、何かが君を掴んで海底に引き込もうとしているのが僕にも見えた。あれは、いったい何だったんだろう?」
二人は無言で海面を眺める。
陽光に眩しく輝く水面に、彼等の見た不気味で恐ろしい影は今や微塵もない。
「あの…さ、俺、聞こえたんだ」
「えっ? 何が?」
遼は、海底から浮かび上がる奇怪な声を思い出した。
優樹にもあの声が聞こえたのだろうか? あの声の主が、海底に連れ去ろうとした者の正体なのだろうか?
しかし、それは何だろう?
「身体は、どんどん重くなって水圧で胃が口から飛び出しそうだった。意識が遠のいていくのに、酷い耳鳴りで頭が割れそうになって……もうダメだと諦めかけた。でも、死ぬもんかって思ったとき……俺の名を呼ぶ、おまえの声が確かに聞こえた。そしたら急に身体が動くようになった」
「あっ……」
夢中で叫んだことを思い出し、遼は赤面する。
「おまえが、呼び戻してくれたのかもな……おかげで助かったよ。ありがとう」
照れたように、優樹が笑った。
守護と厄(わざわい)……優樹を取り巻く二つの力。
その笑顔に安堵しながら遼は、優樹を攫おうとした力の正体に不安を覚えた……。