第9話

文字数 2,493文字

「叔父さん!」
 右肩を押さえ、コクピットにうずくまる大貫に遼は駆け寄った。押さえる左手の指の間から血が滴り落ちる。
 遼は、僅かな可能性であろうと大貫が説得に応じ、警察に投降してくれる事を期待していた。
 しかし神崎の発砲で思い知る。
 事態は、考えていたよりも深刻なのだ。
「遼、レバーを中立に入れるんだ! この辺りは岩礁が多い、スピードを落とさなければ危険だ!」
 遼は言われた通り、レバーをゆっくりと中立に戻した。
 何度か大貫のクルーザーに乗って操船したことがあったため、操作に戸惑うことはない。
 大貫の艇が速度を落とすと、田村の艇が徐々に近づく。
 横並びになったところでバウスピリットに立ち上がった優樹が、ハンドレールを乗り越え大貫のクルーザー船央部に飛び移った。
「優樹君! 無茶をするんじゃないっ!」
 銃を構えたままフライブリッジから降りかけた神崎が叫んだが、聞いてはいない。
「遼を、返せ!」
 優樹は、怒りを露わに大貫を睨み付ける。
「必ず来ると思ったよ、優樹君。君の行動力は賞賛に値するな。心配しなくていい……目的を果たせば遼を帰すよ」
 大貫は、再びナイフを手にした。
「すまんが遼、そこにあるタオルで肩を縛ってくれないか?」
 止血のために、遼がタオルで大貫の肩をきつく縛っている間、優樹はキャビンの床にあったロッドケースから手探りで並継竿の元竿を取り出していた。
 大貫が外洋トローリングでヒラマサなどの大物釣りに使う、カーボンプリプレグ製の太く頑丈な代物だ。
 大貫は気付いていないようだが、優樹が何をしようとしているかを遼は瞬時に理解した。
 止血を終えると大貫は、ナイフを遼の喉元に付けたままレバーを前進に倒した。
 ゆっくりと動き出したクルーザーに、飛び乗るタイミングを見計らっていた神崎が焦って叫ぶ。
「戻るんだ! 大貫さん!」
 神崎は再び銃を構えるが、動き出したエンジンが巻き起こす水流に大きく船体を揺らされ、姿勢を保つことすら出来ない。
 ブリッジで成り行きを見守っていた田村が、即座にスロットルを開きエンジンを加速した。
 大きく船首を持ち上げた大貫の艇は速度を上げ、安定した滑走状態になると田村の艇から距離を開けていく。
 岩礁が障害になるのか、田村は速度を上げられないようだ。
「追いかけてきたクルーザーは、須崎さんの『エリアス号』か……。馬力があって足回りも良いが、岩礁が多い海域には少し大きいな。由起夫の操船技術でも、これ以上近くに寄せることは難しいだろう」
 入り組んだ岸壁の影に入り艇の速度を落とした大貫は、安堵の息を吐きナイフを下ろした。
 その、刹那。
 優樹がコクピットに跳躍した。
 ひゅっ! と風が巻き起こり、手にしたロッドが鮮やかに大貫の喉を突く。
「……っ、ぐうっ!」
 大きく仰け反った大貫が、後方に弾け飛んだ。
 しかし、いつも使う竹刀と違って長さが足りず、強いダメージは与えられなかったようだ。
 よろめきながら立ち上がった大貫は、レバーに手を伸ばす。
「来い、遼!」
 素早く優樹が、遼の手を引いた。
「離してくれ優樹! 僕は叔父さんを連れて帰らなくちゃいけないんだ!」
 掴まれた手を振りほどこうとする遼に、大貫が叫んだ。
「優樹君と行くんだ、遼。おまえに私は救えない……ライフジャケットを付けて早く飛び降りろ、二人とも死ぬぞ!」
 恫喝と共に大貫は、クルーザーの速度を増していく。
 鋭角な岩が重なり合い、黒々とした岸壁が眼前に迫った。
 遼を死への道連れにしないため、あえて強制的な状況を作り大貫は優樹に託したのだ。
「行くぞ!」
 優樹はキャビンのシート下からライフジャケットを引っ張り出し遼に被せると、半ば無理矢理、抱きかかえるようにして右舷から海に飛び込んだ。
 二人をスクリューに巻き込まないように舵を取り直し、クルーザーが離れる。
 まもなく、岩礁を回り込んで追いついた田村が救命浮環を投げ込んでくれた。
 射程距離にない容疑者に為す術もなく、神崎が海上を睨んで拳をハンドレールに叩き付けた。
「遼くん、血が出ているぞ」
 田村の言葉で頚に手をやると、大貫のナイフが当たったのだろう、確かに切り裂かれた皮膚から血が滲んでいる。
「大丈夫です、大した傷じゃありません。それより早く叔父さんを追ってください、田村さんなら止められるかも知れない。僕では……ダメなんだ」
 すがる思いで遼が頼むと、優樹が前に立ちふさがった。
「いまさら、どうするつもりだ! あの人は俺達を裏切り、おまえを傷つけた」
「優樹、彼は……」 
 優樹には、理解できないだろう。
 大貫や遼が抱える心の闇。
 そして、暗く冷たい闇を知ることのない者に対する、羨望と嫉妬。
「遼くん、直人が……大貫が君に何を話したか知らないが、あいつを……許してくれ。悪いのは、私だ」
 既に追うつもりは無いのだろう、厳しい表情で遠ざかる大貫の艇を見つめ、田村が呟いた。
 止められるかもしれない、止めて欲しいという遼の願いとは別に、田村には田村の思うところがあるのだ。 
 全てを知った遼には、田村に応える言葉が見つからない。
 無力な自分が悲しかった。
 沈痛な面持ちで硬く目を閉じた遼の肩を、優樹が強く掴んだ。
「どんな理由があろうと、大貫さんのしたことは許せない」
 冷たく硬い声音。
 思わず顔を上げた遼は、優樹の瞳を紅く妖しい光が一瞬横切ったのを見た。
 あっ、と、神崎から声があがり遼が海上に目を向けると、大貫のクルーザーが海から突き出た鋭い切っ先のような岩礁に乗り上げ、まるで何かに持ち上げられたかのように高く宙に飛ぶのが見えた。
 そして木の葉が舞うように回転し、船尾からその岩に激しく叩き付けられる。
 時間が、止まった気がした。
 が、一瞬の間を置き火を噴いたクルーザーは、大気を震わす爆発音と共に細かい破片となって、雨のように海に降りそそいだ。
「直人っ!」
 悲痛な田村の叫びが波に、かき消されていった。

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