文字数 2,947文字

「福の神」とは人々に福をもたらす神だ。
 だからとりあえず彼は、そのスーツを有難く頂戴することにした。彼に福をもたらしてくれるに違いないと思ったからだ。
 それで野球の道具の入ったバッグに巾着ごとそのスーツを忍ばせ、彼は午前中の電車で球場へと向かった。
(だけど、こんなスーツを身に付けて公式戦で投げるのは不正なことではないだろうか?)
 律儀な彼は、球場へ向かう電車の中でそんなことを考え始めていた。
(これってドーピングと同じじゃないか! やっぱりスーツは福の神様に返さなければ…)
 そんな考えことをしているうちに駅に着き、電車を降りた彼は球場へと歩いた。

 そしてロッカーでユニフォームに着替えていると、いきなり例の怪力ピッチングコーチと鉢合わせしてしまった。
「どや、昨日教えたフォームは、まだ頭の中に残っているか?」
 怪力コーチの顔を見た途端、彼は昨日福の神との会話で話題になった「羊羹とロバ」のことを思い出し、淡い期待とともに、思わずコーチの耳を確認したが、幸いというか残念ながらというか、人間の耳の形だった。
 それはいいけれど、ともあれ彼はとっさにこう答えた。
「は、はい! もちろん!」
「よし。後でブルペンで投げてみい!」
 本当は全然頭に残っていなかったけれど、彼は反射的にそう答えてしまったのだった。
 だって、仮にも「いいえ」などど答えようものなら、今夜も12時近くまで「ピッチングフォームの指導」をやりそうなオーラを、彼はそのコーチから感じ取ったからだ。
 それにもし正しいフォームで投げることが出来なければ、指導は今夜だけでは済まないだろう。多分連日だ。
 そうなると、怪力コーチはまた重い球を投げまくり、あのブルペン捕手に途方もない迷惑を掛けてしまうに違いない。
 たしかに他のブルペン捕手が受ければいいのかも知れない。しかし、怪力コーチはあのブルペン捕手を妙に気に入っていたようで、今夜の練習にも「ご相伴」させられる可能性が極めて高かったのである。

 その理由は謎である。ただ一般論として、投手という生き物は不思議なところがあり「お気に入りの捕手」というものがいるらしいのだ。
 さて、そのブルペン捕手は現役時代一度も一軍の試合に出ることは無く、引退後「縁の下の力持ち」として球団に貢献している苦労人だった。
 しかも、最近お子さんが生まれたらしく、早く家へ返してあげないと、奥さんも大変だろう…と、彼は律儀にそう考えたのだった。
 そして彼は困惑した。
(一体どうすればいいのか。怪力コーチの言う「正しいフォーム」で投げなければ厄介なことになる…)

 それからしばらく考えて、彼は怪力コーチの前ではスーツを着て投げることに決めた。
(とりあえず、今夜の特訓だけは回避しよう。それしか方法はない。それにブルペンで投げる分には不正投球でもない訳だ…)
 彼はそう考え、それからトイレへ行くと裏返しにスーツを身に付け、その上からユニフォームを着てグラウンドに出た。
 そしてストレッチやランニングやキャッチボールや投内連係や、一通りの練習を済ませた。

 実は彼がスーツを身に着けていても「スイッチ」を入れなければただの「スーツ」だった。だから練習には全く支障は無かった。
 それからしばらくして、怪力コーチが手招きしたので、彼は小走りにコーチの待つブルペンへと向かった。案の定、例のブルペン捕手が受けることになった。
 最初に十球ほどキャッチボール。例によって肩はすぐに出来た。そして捕手が座った。
 彼は背中に怪力コーチの熱い視線を感じた。それから、一抹の後ろめたさを感じながらも、ブルペン捕手の、生まれたばかりの赤ちゃんの顔も彼の脳裏に浮かび、今夜は早く帰してあげたい一心で、スーツの袖のボタンを押し、電源を入れた。
 すると彼はいきなりセットポジションになった。
 それから怪力コーチの「お前さん、セットポジションに変えたんだな」という声を背中から受けるや、彼はもう一度後ろめたさを感じながら、グラブで臍のスイッチをポンと押した。
 今夜の特訓を回避したい一心で…

 それから彼は「素晴らしいフォーム」で快速球を投げ続けた。もちろん、怪力コーチもブルペン捕手も「ナイスボール!」を連発した。
 やがて周囲に人だかりが出来た。怪力コーチは感極まり、うっすらと涙を浮かべていた。
 ひとしきり投球を終わると、ブルペン捕手も駆け寄り、みんなで手を取り合って喜んだ。

 こうなるともはや後には引けなくなってしまった。
 連敗を続けるチーム事情もあった。
 自分の不甲斐ない投球が引き起こした例の三つの「申し訳ない思い」も後押しした。
 周囲の期待を一身に背負った彼は、もはや「投げる」しかなかったのだ。
 例えそれが「公式戦」であったとしても…

 それからの彼は「魔法のピッチングフォーム」で大活躍した。
 とにかくその人物譲り、というか、そのまま左右逆にコピーしたその「インサイドのスライダー」は、並いる、とくに左の強打者たち震え上がらせたのだ。
 元々「デッドボール」を投げたときのフォームだ。それを魔界のアニメスタッフがCG技術で修正し、ストライクになるように仕立て上げたものだ。
 だから打席に立ったら怖いことこの上ない。
 ちなみにボールは彼自身の手で握っていた訳だから、ある程度の変化球を投げることが出来た。スライダーとシュートとチェンジアップとフォークボール。
ともあれ彼はしばらくの間、「一流投手」として活躍することとなる。
あの「事件」が起こるまでは…

 それはシーズン後半の八月下旬。残暑が厳しくナイターでも蒸し暑い、誰もがいらいらするような夜のことだった。
 そしてその夜、球審をつとめた審判は、彼とまったく相性が悪かった。実はスーツのモデルとなったその人物も現役時代はこの審判と相性が悪かったらしい。
 とにかくコーナーいっぱいの球をストライクに取ってくれないのだ。
 強打者も手が出ない、彼得意の、そしてあの人物も得意だった、あのスライダーも…

 だから彼は審判の判定にいらついていた。
 だけど元々温厚な性格の彼はけっして他人に暴力を振るうようなことはなかった筈だ。
 でもあの福の神は彼にとって本当に「福の神」だったのだろうかと疑いたくなるような出来事が、その夜、起こってしまったのである。

 試合はその審判の微妙な判定もあり、ノーアウト満塁となっていた。
 しかし彼の投球は決して悪くはなかったので、監督は彼に続投させるつもりでいた。それでも彼に一息入れさせようとして怪力コーチはタイムを取り、小走りにマウンドへと向かった。
「今夜のお前の球なら少々甘くなったって大丈夫だよ。そうカリカリするな。審判だって人の子だ。太っ腹に行こうぜ。太っ腹にな! わっはっは」
 怪力コーチはわっはっはと言うと、彼の臍の辺りを怪力でポンと叩いた。

 だがちょうどその頃、不幸にして…全くもって不幸なことだったのだが、件の審判は、彼にお尻を向けてかがみ込み、ホームベースの上の泥をポケットから出した刷毛で払っていたのだ。
 もちろん怪力コーチが彼の臍を叩いたまさにその直後、彼のスーツは「投球動作」を開始してしまった。
 彼の「投げた」球は、そのまま審判のお尻に向かって…
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