第三章 互いに忘れぬよう1

文字数 3,458文字



 そのとき、たまたま私は母とキッチンにいた。そこへうっそりと父が現れて、「伊緒ちゃんがまだ帰らないらしい」といった。いましがた山之内家から電話があったという。継母の水枝からだった。
 伊緒が帰宅していないと聞かされたとき、私はたいして心配もしなかった。父が説明を端折ったせいもあるが、まだ騒ぎたてるほどの時刻ではなかったからだ。
「部活じゃないの」と私はいった(実際にはその日、伊緒の所属する演劇部は活動がなかった)。あとで知ったが、山之内家から電話があったのは午後六時四十四分だった。
 父の態度にも、この時点では切迫した気色はなかった。それでも様子を見てくると請けあったらしく、身支度をしながら改めて電話の内容を語った。ここに至って、ようやく私も変な気がしはじめた。一人で双娘町小学校の廃校舎に入った伊緒が、そのまま出てこないとはいったいどういうことか。さっぱり状況が呑みこめなかった。
 七時に父がパトカーで出発してすぐ(駐在所にはミニパトが一台供されていた)、私も廃校へ行ってみようという気を起こした。その前に、ふと思い立って、クラスメイトの山岸(やまぎし)(かい)()に電話をし、手短に事情を話した。槐人は夜遊びにでも誘われたように、「俺も行くから現場で落ちあおうぜ」と声を弾ませた。壁の時計を見ると七時五分だった。受話器を置いたとき、背後で母の「もう暗いから気をつけなさい」という声がした。
 外は海風もなく、心地よい気温で、すでに陽は落ちていた。島の夜は本物の夜である。都会のように夜中でも空が明るいなどということはない。そのぶん、星々は無数にきらめき、月は冴え冴えと照ったが、あの晩、月が出ていたかどうか、あいにく憶えていない。とにかく外は真っ暗だった。双娘町小学校の廃校舎には、自転車を飛ばせば十五分ほどで着くはずだった。
 駐在所への第一報に先立つこと二十一分、廃校前の電話ボックスから山之内家に連絡があったのは、午後六時二十三分だった。
 この季節、この時間の比佐志は、特別な用がないかぎり、ほぼ毎日、果樹園の仕事から帰宅して入浴中だった。彼が風呂を出るのを待って、七時から隣家の世志も含めた全員で夕食となる。ゆえに世志は、七時すこし前に自宅から本邸にやって来る。志乃は比佐志より先に風呂を済ませており、六時二十三分というと、居間か自室にいるのが常だった。水枝はキッチンで夕餉の支度、時には居間でテレビに見入ることもある。
 密夏と伊緒は、部活のない日は五時前後、部活の日でも六時半までには帰宅しており、水枝か世志に声をかけられるまで、二階のそれぞれの自室にいることが多かった。伊緒の部屋には十四インチのテレビがあり、ビデオレコーダーも接続されていた。あの時代、茶の間の団欒は過去の風景となりつつあった。
 水枝と双子姉妹は夕食のあとで入浴する。世志は、食事はともかく、風呂はさすがに気兼ねがあるのだろう、本邸で入ることはなかった。
 では、五月二十七日の様子はどうだったかというと、二つの点でふだんと違っていた。第一に、姉妹ともに部活のない金曜だったにもかかわらず、伊緒がまだ帰宅していなかったこと。第二に、いつもは夕食の直前にやってくる世志が、六時すぎから密夏の部屋で美術の課題を見てやっていたことだ。
 当時、水枝は居間のソファでこう証言している。
「ご覧のとおり、電話機はこの部屋にあるんです。ベルが鳴ったとき、ここには私しかおりませんでした。最初は、てっきり伊緒ちゃんからだと思って受話器を取りました。金曜日はいつも五時ぐらいには帰るはずなのに、この日はずいぶん遅くて気にかかっていたからです。そしたら、相手は伊緒ちゃんの後輩という女の子で、涙声で、伊緒さんが廃校に入ったまま戻ってこないというんです」
 このとき水枝が話した相手は中尾早紀だった。水枝はまた、世志が早めに本邸へ来た理由についても述べている。
「それは、六時に私が世志さんに電話をして、伊緒ちゃんがお邪魔していないか訊ねたからです。ひぃちゃんも伊緒ちゃんも、世志さんとは仲が良くって、学校帰りにお家に寄ることがたびたびなんです。だからもしかしたらと思って……同じ敷地ですから直接訪ねても一、二分ですが、そのときは電話で確かめたんです。でも、伊緒ちゃんは世志さんのところではありませんでした。
 それからすぐに、心配した世志さんがこちらへいらして、前々からひぃちゃんの絵を見てあげる約束だったとかで、二階に上がって行きました。絵というのは、美術の授業で県のコンクールに出すポスターを描くことになっていたんです」
 中尾早紀との通話を終えたあと、水枝はすぐに世志のいる密夏の部屋へ上がって、二人に電話の内容を話している。真っ先に比佐志に伝えなかったのは、入浴中だったこともあるが、この手の話に夫が立腹するのが容易に想像できたので、気後れがして先延ばししてしまったのだと、のちに水枝は語っている。比佐志に対する斯様な認識は、世志や密夏にも共通したものだったと思われる。
 水枝から電話の内容を聞かされた密夏は、妹が後輩を伴って双娘町小学校へ行ったことについて、自分は何も知らないし、何のためにそんなところへ行ったのか見当もつかないといった。
 困惑した水枝が、警察に伝えたほうがいいかしらと独りごちると、窓外に目を向けた世志が、「そろそろ日も暮れそうですし、ひと言伝えておいたほうがいいかもしれませんね。いや、そうなさい。三輪さんは身内なんだし、遠慮は要らないでしょう。何もなければそれに越したことはないんですから」と勧めた。
「しかし、廃校に入ったまんま出てこないというのはおかしな話ですね。あそこは子供らの溜まり場にでもなってるんですか?」
 前年三月に帰島した世志と、外から島に嫁いできた水枝が、そのへんの事情を知らなくても不思議はない。そういう噂はいっさい聞いたことがないと密夏が答えたが、これは正しかった。立入禁止の廃墟に子供や若者が入りこんで屯するというのは世間にありがちな話だが、知るかぎり、当時の白浪島ではその手の問題は生じていなかった。
 ここで世志がやおら立ちあがっていった。
「どれ、ひとっ走り行って見てきますか。途中で伊緒に会うかもしれないし。あの廃校は俺の母校なんですよ。ジョンを借りていきます。伊緒の居場所なら、ジョンが立ちどころに案内してくれるでしょうから」
 こうして三人は階下へ降り、兄のバンを拝借した世志が、山之内家の番犬ジョンを後部荷室に乗せて出かけたのが六時四十分ごろだった。世志が乗って行ったのは、M10系と呼ばれるトヨタの初代ライトエースで、まつ毛の長いウーパールーパーみたいなフロントフェイスがユーモラスな車だった。横っ腹に「山之内果樹園」と誌されたこの白い車は、のちに寿命が尽きて本来の役目を終えるも、さらに後年になって、意外な用途で活用されることになる。
 世志の出発後、水枝は三輪家に電話をかけた。義弟にあたる私の父、三輪信之(のぶゆき)巡査部長とつながったのが六時四十四分のことだ。
 白浪島には駐在所が二箇所あった。浦栖港のそばに三輪家の西駐在所が、キリコ山の麓に東駐在所が。水枝が電話したのはむろん西駐在所だったが、このときの彼女のつもりでは、正式に警察に救けを仰ぐのではなく、あくまで身内の気安さから、私的に父を頼ったのだった。要するに、ことはまだそれほど深刻には認識されていなかったわけだ。
 電話の最中に浴室から出てきた比佐志は、妻からひと通りの話を聞くと、案の定、見る間に仏頂面になり、口のなかで何やら苛立たしげに罵ったきり、むっつりと黙ってしまった。山之内家は、世志が借りたライトエースのほかに、セダンとトラック二台を所有していたが、比佐志は弟を追って自分も捜しに行こうとはしなかった。
「すでに世志が向かったと聞きましたし、三輪くんにも伝えたというので、私が行くまでもないと考えたのです。あのときは、こんな大ごとになるとは思いもしなかった……」
 七時をだいぶ過ぎて、四人分の食卓が調えられた。食事中も比佐志は無言のままで、こうなると、本人が口を開くまでは何をいっても無駄だった。不機嫌な比佐志の前で、あえて会話を試みようとする者もいなかったが、しばらくして、ふいに重苦しい沈黙を破るつぶやきが聞こえた。それはどこか割り切ったような、愁いのない、不思議な響きを帯びた声だった。
「もう二度と伊緒には会えませんよ」
 声の主は、祖母の志乃だった。
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