第4部 昭和十六年十二月 【高松市】

文字数 3,615文字

昭和十六年は駆け足で進んでいる。
六月には不可侵条約をあっさり破ってドイツがソ連に侵攻、
七月には日本軍がインドシナに進駐、
八月にはアメリカからの石油輸入が禁止、
十月東條内閣成立、

十二月、父正一が本社での会議のため奉天から帰国していた。
父がそのあと、年末年始休暇を貰って家族のもとに帰るのに同行して東太も香川県に戻ることにする。
「こんなに世の中が騒がしいと、もともと得意でない勉強もおちおちできんしな、
 一度家に帰って新規一転とするか」

午後八時東京発の特急富士は翌朝十時に岡山に着く、そこから宇野線で宇野、宇野からは連絡船で高松に、駅前の自宅にたどりついたのはもう午後三時を回っていた。
父と一緒の長い時間、東太は徴兵猶予の悩みを父に打ち明けるかどうかずっと迷っていたが結局胸の中にしまい込んだ。
二十歳になれば徴兵検査があって、今の日本の状況ではすぐに召集されて入隊になるにちがいない。
一方で大学に入れば徴兵猶予制度で二十六歳まで召集されないかもしれないし、
といってアメリカとの戦争にでもなればその徴兵猶予が無くなるかもしれないし・・・。
東太の悩みだった。

自宅というのは、留守家族六人の子供たちが生活している正一の妻の実家、柳澤家の高松の別館のこと、妻節子は一足先に戻って久しぶりの家族全員の食事会を使用人たちに手配させているはずだ。
別館には多くの使用人が柳澤家一族のお世話をしている。
正一は柳澤家本家に挨拶に行くため一人高松駅から予讃線に乗り換える。

柳澤家は県会議長を務めた公男が当主として高松市西側の土地を所有する大地主であり、地元政財界の顔役だ。高松から国鉄で二駅ある本宅まで他人の土地を通らず往来できるというのが公男の自慢の冗談だった。
正一は男子のいない柳澤家の後継者として見込まれ長女節子と結婚したが、政治には興味を示さず官僚にもならず商社員の道を選んだため、公男からは冷たい目で見られている。
そんなことを気にする正一ではなかった。
丸亀の貧農の次男として生まれ、学業に優れていたため土地の有志からの支援を受けて,丸亀中学から六高に進み、東京帝大法学部を卒業した苦学生には、お国のためには経済力を豊かにすることが第一だという確信があった。
生来の弱視のため、教科書、辞書が読みづらく学友から後れを取ること4年、二十八歳で大学を卒業した粘り強い性格だ。
その間に実家の兄は少ない田圃を売り払ってまで正一に学費を送り続けた。卒業後実家に帰った正一は兄の貧窮を目の当たりにして泣き崩れた。
満州国は、だから日本の生命線であると同時に正一個人にとっても大切な経済圏、今英米との戦争に突入すると、その未来設計が崩れてしまう。

柳澤公男との堅苦しい歓談の間にも正一は日本とわが身の将来をあれこれ考えていた。
正一の悩みだった。

三日後、
十二月八日午前七時、正一と東太はラジオの臨時ニュースに聞き入っていた。
「・・・本八日未明、西太平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」

柳澤家の使用人たちの万歳の声が聞こえてくる、
「やった、やった」
と繰り返すだけの者もいる、
みんな興奮していて尋常ではない。
東太には愚かしい奇襲攻撃としか思えなかった。
この人たちはアメリカと日本の国力差を知っているのか?
真珠湾攻撃くらいで巨大なアメリカが負けるわけがない。
父が周りの騒音にかき消されそうな小さな声で東太にそっと話しかけてきた。
「東京は引き払ってこちらに戻ってじっとしていなさい、これから大変な時代になるから」

正一にも英米との開戦は暴挙としか思えなかった。
中国での戦争の資源確保を使命とした東洋拓殖(東拓)、そんな国策会社にに入社した精鋭社員だからこそ、今後の暗い状況がよく見える。
これで日本の未来は何十年停滞するのだろう?
そしていよいよあの計画が動き出すのだ。


・・あれは東太が2歳前の時だったから、大正十五年・・
正一は吉本茂と初めて向き合ったときのことを片時も忘れることはなかった。
天津支店長に就位し、居留民団議員、行政委員、商工会議所評議員も引き受けていた関係で、天津総領事だった吉本と面識はあったものの、仕事や政治に関した話をすることもなかった。
東拓天津支店は白河沿い共同租界の一画にあり、全面タイル張りの二階建てビル、一階は支店事務所、二階が支店長宅になっていた。二階には会議室を兼ねた大広間があり、そこで宴会ができるようにコックが二人住み込んでいた。
その夜は妻節子主催の南京婦人会の会合が終わり一段落したところだった。
支店と自宅の共通出入り口である一階の鉄製シャッターが叩かれたのは家族だけの夕食を前にして、正一としては珍しく長男の東太を遊ばせていた時だった。

「領事館特製の鯖寿司だよ、支店長の好物だと聞いたので作らせたんだ、
 こっちではなかなか食べられんだろう、良かったら一緒にやろう」
吉本総領事は突然の訪問を詫びる様子もないし、お供なしの訪問に正一は少し身構えた。
それでも気さくな様子の総領事は東太を膝の上に乗せて頭をなでながら、単刀直入に話し出す。
「君は満州がお国のためになると信じているのかね」
「はい、国家の基盤は経済力だと思っております」
新任の総領事が東大の13年先輩であること、自分とは違い由緒正しい家柄だが、大学を28歳で卒業しているのは一緒だということは正一も後輩の端くれとして承知していた。

「いや違うね、その経済の基盤を築くのは技術であり科学でしょう、
 そのための資金を調達するのに満州の経済が必要なのです、弾丸列車とか原子力のことは
 聞いたことがありますか?」
「いいえ、自分はお金のやりくりが専門ですから」
「そのようだね、これからは東拓も日本も満州からの利益で潤うはずです」

そのあと総領事が告げたことに正一は驚く。

「しかし、このままでは日本は世界から孤立し、満州国の存在はとうてい認められない
 でしょう。私は英米との協調が急務だと思っています、まぁ、私の主張が旗色が悪いのは
 皆さんもご存知のことですが」

欧州ではドイツ、イタリアが独裁制に傾き、それに呼応するように日本でも強硬な国家主義が力を増しているなかで親英米派の吉本総領事は外務省でも異色の存在だった。

「そこで香川君にお願いがあります、
 これからいずれ戦争になり、我々は負けるでしょう。
 もう一度、そこから立ち直るには技術・科学の支えが一番です、
 そのためには資金が必要です」
正一は総領事の話を聞くうちに身の毛がよだち胸が苦しくなるのを感じた、それは先ほど総領事と一緒に食べた鯖寿司のせいでもないようだった。

「その資金を君に預けます、しっかりと守って日本に持ち帰ってください、
 ちなみにこれはS資金と呼んでください、
 Sは科学のSです。
 そうそう、僭越ながら君の実家の借金は返済しておきました、僕の気持ちです、
 お兄さんはまた田んぼ持ちです」
「なぜわたくしなのですか」
「君は政治に全く関心がないからです、君と同郷の南野助教授に訊いたら、彼もその点は
 保証していたよ、もっとも僕は彼とはそりが合わないけどね」
「何をどうすればいいのですか」
「東拓の財務を汚せと言っているわけではありません、あるものを見知らぬ人から預かって
 くれればいいのです、君の立場だと中国、朝鮮、ロシアの顧客といつどこで打ち合わせ
 してもおかしくない」
「わたしをそんなに信じていいのですか」
「信じてますよ。それと、同じ四国の血が流れているのも気に入ってる、
 いや、これが一番の理由かもしれないね、知らないだろうから教えてあげるが、
 僕の父親は高知の人間なのです」

総領事の膝では東太がすっかり眠りこけていた。

元山、奉天、哈爾賓そして再び天津・・・
その後正一が赴任した支店に、不定期に小さな荷物が届けられた、いつも外国人が使者だった、ロシア人、満人、鮮人、華人たち。
荷物にはダイヤモンドらしき宝石が無造作に包まれていた。
当時、白系ロシア人、ユダヤ系北欧人がたくさん満州北部に亡命してきてビザの発行を待っていたことを知っていたが、正一はダイヤモンドの持ち主のことを考えるのは敢えてしなかった。
それから後、
正一が満州のどこの地に行くにも、汚れた黒いネル地の信玄袋を身につけているのを他人は案外気づくことはなかった。

吉本総領事と会った翌年、昭和元年九月、
正一は妻節子の誕生日にサファイアの指輪をプレゼントした。
「無理なさったのではないですか?  わたくしは嬉しいですけど」
「これから毎年サファイアを買ってあげるからこの赤い信玄袋に大切に保管して
 おいてください」
正一のS(サファイア)資金も動き始めた。

東拓の業務以外にも極秘使命を抱えることになった正一、
毎日が張りのある日々になっていた。
でも、できることならば、
戦争にはなって欲しくない、S資金のことは忘れてしまいたい、と願っていた。

そして 太平洋戦争が始まった。
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