文字数 2,277文字

 翌日は土曜日だったので、授業は半ドン、憂鬱な昼休みもなかった。いつもなら、授業後の担任による事務連絡が終了し次第、私は、逃げるように校門を後にするのだが、この日は違った。
 ジョージがいつ私の返事を目にし、返事をしたためているのかは謎だが、仮に午前の授業終了直後、昼休みの初めの時間帯にメモを仕込んでいるなら、今図書室に寄れば、もしかしたらジョージ本人に会えるかもしれないという淡い期待があった。

 だが、空腹で妙な音を立てる腹をさすりつつ、希望に胸膨らませ、図書室に続く廊下を歩いていた私は、びくりと足を止めた。
 図書室とは同じ並びにあり、進行方向手前二軒目にあたる講師室の前に、目もくらむような華やかな集団が溜まって、雑談に興じていたからだ。

 私の通っていた女学校の教師は、担任学級を持ったり、教頭等の役職に就いたりし、週六日、朝から晩まで学校に勤務している専任教師と、自分の受け持つ授業のある日のみ出勤し、それ以外の日は別の学校で教鞭を取っていたり、大学院で研究をしたりと本業に励んでいる講師の二種類に分けられていた。
 両者は、所謂職員室も分けられており、前者は正面玄関から入ってすぐの職員室、後者は特別教室棟に追いやられた講師室で執務していた。

 とっさに柱の影に隠れ、狭い廊下に陣取る一団の顔ぶれを再確認する。
 他の生徒の通行の邪魔になっていることも顧みず、輪を作っているのは、去年同じクラスだった生徒五人だった。一年間、同じ教室にいたものの、友人を失う前から、彼女たちと私はあまり関わりがなかった。彼女たちは、明るく社交的で、でも、お嬢様らしく少しませてわがままなところのある、典型的な名門女学校の中間層グループだった。陰気で根性がひねていて、小金はあるが平民出身の私とは住む世界の違う少女たちだ。一方的な感情だったが、私は彼女たちが苦手だった。

 彼女たちは、一見、物理の教科書を片手に、熱心に講師に質問をしているように見えた。が、よく観察すると、視線の先にあるのは教科書ではなく、柔らかに微笑む優男の横顔で、物理学の解説なんぞ、全く頭に入らず、爽やかで耳障りの良い男の声に頬を染めていた。
 そんな状況を、果たして、どう感じているのかと気になり、輪の中心にいる優男の講師を盗み見る。穢れなき乙女たちの恋慕の視線を、理科講師、時任航(ときとうわたる)は、余裕の表情で受け流し、教科書の解説を続けていた。大人の男の余裕とでも呼ぶべきなのかもしれない。
 窓から入る日差しは、彼の色素が薄く柔らかそうな髪をキャラメル色に輝かせていた。色白で優しげな印象の顔に、人の良さそうなたれ目気味の瞳。笑うとくしゃっとなる表情は、愛嬌がある。上背はあるけど、どこか少年を彷彿させる華奢な体つきは、ワイシャツの上に羽織った白衣が良く似合う。人当たりもよく、博学で、年齢も二十代後半くらい。
 生徒の大半が肉親以外の若い男子とは、接する機会もなく、申し訳程度にいる男性教師は、揃ってくたびれた中年ばかりの女学校で、人気が出ない訳がなかった。

 共学の大学、大学院に進学した今だから言うが、時任先生は、一般的な同世代の男性と比べれば、そこそこ男前だった。そう、あくまで『そこそこ』だった。映画俳優のようだとか、彫刻のようだとか、そういった形容は、過大評価となってしまうレベルの男前だ。例えるなら、どこの会社や学校にも、一人、二人はいるくらいの美男子だった。
 現在、私の面前に座る中年のオカルト記者の方が、断トツで男前だと断言できる。もし、若き日の彼と時任先生が並んだら、その差は歴然としたであろう。
 けれども、若い男性のいない女学校では、彼は学生は勿論、教師陣にさえも、おとぎ話に出てくる王子様さながらの美青年として扱われていた。昭和十五年の春に赴任してから、数か月で、彼に恋い焦がれた女学生は数知れず。実際に告白し、やんわりと断られた者も数人いると聞いていた。

 不意に、時任先生がこちらを見た気がして、私は硬直した。彼は、柱の影に隠れ、覗き見をしている不審な生徒に、一瞬眉を寄せたが、すぐに元の柔和な顔つきに戻った。そして、自分を取り囲んでいる女学生たちに何か小声で囁いた。廊下一杯に広がっていた輪が縮小されたところから察するに、通行の邪魔になっていると注意を促したのだろう。
 だが私は、先生が開けてくれた通路を突っ切り、図書室に入ることはせずに、踵を返し、駆け足でその場から走り去った。あんなきらきらした人たちの横をすり抜けるなんてできない。きっと、無事に通り抜ける前に、彼等の放つ輝きに焼かれ、私の体は灰になり、空気中に離散してしまう。

 昇降口まで逃げ切ったところで、廊下に掛けられた大鏡に映る自分と目があった。嗚呼、なんて地味でブスなんだろう、と自分の容姿に今更ながら落ち込む。美男子の時任先生は言わずもがな、取り巻きの彼女たちにすら、到底及ばない。彼等が王子と女官なら、私はお城の堀に生息するヒキガエルだ。毎晩オロナインを塗っても、額に出来たにきびは治らないし、白い靴下を履いた足は大根みたいで不格好だ。こんな見た目でスカーレットとか、よくもまあ、恥ずかしげなく言えたものだ。
 目を背けていた現実を直視させられ、ジョージとのやりとりで浮かれていた気持ちが一気に冷めていった。ジョージ? 未来人? 誰なのよ、それ。もう女学校四年よ。子供じゃないのに、馬鹿みたい。
 ずるずると引きずるような足取りで、私は家路についた。
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  • 第1章 序章

  • 1
  • 第2章 出会い

  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 第3章 つのる恋心

  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 第4章 あの日、あなたと見た星空を私は一生忘れない

  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 第5章 未来を変える

  • 1
  • 第6章 やっと会えたね

  • 1

登場人物紹介

櫻内朱。

昭和25年当時、大学の研究室に所属する女性物理学者の卵。

タイムマシンの開発に情熱を燃やしている。

女学校4年生だった昭和15年に、不可思議な初恋を経験している。

時任航。

朱の通っていた女学校の物理教師。

柔らかい物腰と王子様のような華奢で繊細な容姿で、学園の人気者だった。

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