文字数 4,049文字

 あなたは、タイムマシンを信じますか。
 図書室の隅で埃を被った物理学の専門書に挟まれたメモには、流麗だが華奢な深窓の令嬢が書きそうな文字で一言、そう書かれていた。


「タイムマシン……。時間旅行のできる乗り物だっけ」

 昭和十五年九月、メモを発見した十六歳の私は、一人呟いた。五歳下の弟の読んでいる少年雑誌の空想未来特集で、『タイムマシン』という単語は目にしたことがあった。記事によれば、時空を超え、過去や未来に自由に旅行ができる便利な乗り物だったはずだ。
 思春期の青少年にありがちな、物事をはす目で見ている自分に酔っている時期であった私は、そんな代物、ある訳がないと思った。
 昭和十五年という年は、日中戦争は開戦していたし、遠いヨーロッパでは、既に世界大戦が勃発していた。日本国内も総力戦体制構築に向け、様々な規制や法整備が着々と行われていた時期であった。
 しかし、一女学生の日常生活には、まだ、銃後故の不自由さや不安、恐怖を実感するような出来事は少なかった。
 改めて思い返せば、華美な服装は控えるよう叫ばれたり、電力統制で繁華街のネオンが自粛を促されたりと、日々の生活の片隅に、戦争の暗い影や軍靴の足音は着実に近づいていた。年長の男兄弟のいる同級生は、兄が徴兵され、戦死する等の悲劇に見舞われていたようだった。
 が、おしゃれには興味がなく、繁華街での夜遊びなんて無縁、兄弟は弟のみで、親しい友人は皆無だった私には、対岸の火事でしかなかった。


 そう、言い忘れていた。あの頃、私はいつも一人だったのだ。
 別に、元から孤独が好きだったとか、友人を作らない主義を掲げて生きていた訳ではない。小学校時代や女学校に入学したばかりの頃は、他の子と変わらず、仲良しグループに所属し、彼女たちと行動を共にし、休み時間、他愛のない話に笑い転げたりもしていた。
 が、女学校三年の時に起こったある事件をきっかけに、私はグループからはじき出され、新たに別のグループに入れて貰うこともできず、学級内で孤立するようになってしまった。
 勿論、三年生が終わった後、クラス替えはあった。だが、三年の月日をかけ、毎年のクラス替えに加え、クラブ活動等を通じ、同学年の生徒間で網の目のように張り巡らされた仲良しのネットワークに、中途半端な時期に、所属グループから除名され、部活動もしていなかった者が割り込む余地は残されていなかった。
 結果、私は昼休みを教室で過ごす権利を失ったまま、四年生の秋を迎えていた。
 今振り返れば、別に独りぼっちであろうと、堂々と教室で過ごせば良かったのだ。別に悪いことをしている訳ではないし、あの教室に、私の座るべき席はきちんと確保されていた。
 けれども、思春期の少女にとって、みんながいくつかのグループに分かれ、おしゃべりに花を咲かせながら弁当を食べ、コロコロと楽しげに睦み合う空間に一人でいるのは耐えがたい苦行だった。
 仲の良い友達、百歩譲って、一緒に弁当を食べてくれる友達くらいは、誰もが持っているべきものだったのに、私はそれを持っていなかった。三年までは持っていたが、些細な行き違いで失ってしまい、その後、新たな友達を作れなかった。狭い教室の中では、友達のいない人は異質であり、一人でいることは罪だった。
 数日でも、一人で弁当を食べていれば、クラスの構成員の均質性を重視する生徒たちに目を付けられてしまう。異端者を見つけたら最後、彼女たちは、無邪気に、でも無自覚の軽蔑を孕んだ内緒話を始める。


『ねえねえ、櫻内さんって、いつもお昼休み一人よね。お友達、作らないのかしら』


『きっと、お一人がお好きなのよ』


『一人が好きなんて変わっているわね。無頼派でも気取ってらっしゃるのかも』


 悪口なのか、ただの噂話なのか微妙な会話は、決まって忍び笑いで締められる。控えめに発せられるクスクス笑いは、小鳥の囀りのように愛らしい響きだが、土に潜む芋虫の巣をつつく小鳥の嘴のように、容赦なく私の心を食い荒らす。
 強情なくせに、小心者でもあった私は、そんな光景を妄想するだけで、呼吸が苦しくなり、華やかな女学生たちの嬌声の響く教室から、一刻も早く脱出しなければいけない使命感に駆られた。

 仲良しグループから締め出され、私は一人で昼食を取れる場所を探し、校内を徘徊した。
 空き教室や特別教室を転々とし、時にその教室に用事があったらしい見知らぬ上級生や下級生と鉢合わせ、奇異の目で見られ、慌てて退散する等の事故を経験し、ついに見つけた安住の地が校舎裏の焼却炉の影と図書室であった。
 本当は、図書室で昼休み全部を過ごしたいのだが、図書室で飲食は厳禁だ。結局、誰かに発見される危険性は少ないものの、ゴミ臭く居心地が悪い焼却炉の裏で、弁当をかきこみ、残りの時間を図書室で過ごすというのが、私の昼休みのオーソドックスな行動パターンとなった。十年経った今でも、情けなさと惨めさで涙が出てくる。

 焼却炉の裏からは、できるだけ早く退散したかったので、私は、自然と図書室で過ごす時間が長くなった。
 女学校の図書室は、面積も大して広くはなく、蔵書も偏っていた。卒業後、良妻賢母になることを期待された、清く正しいお嬢様にふさわしいと教師陣が選んだ本しか、かび臭い書棚には収納されていなかった。流行の恋愛小説や少女雑誌、それに怪奇小説や探偵小説等、好奇心旺盛な年頃の少女が好む本は、どんなに入荷希望を出しても、司書教諭に『女学生には読ませたくない』と却下されるのが常だった。

 そして、特高警察も真っ青な検閲の結果もたらされたのは、生徒の図書室離れであった。
 裕福な家庭の子女が多い母校では、図書室で読みたい本を借りられないなら、図書室は利用せず、自分で買って読めばいいと考える生徒が多数派になるのは、火を見るよりも明らかだ。むしろ、そんな事態を予期できなかった教師陣の間抜けさ具合に呆れてしまう。そのおかげで、私は昼休みを心穏やかに過ごせる場所を見つけられたのだから、あまり辛辣に批判はできないが。

 面白い本のない図書室は、昼休みに無人のことが度々あったし、人がいたとしても、私と同じように教室に居場所のない同士が数人、お互いに干渉せず、図鑑のページをつまらなそうに捲っていたり、仮眠を取っていたりで、自由に気兼ねなく過ごせた。
 私も、最初は他の独りぼっち仲間に習い、興味もない昆虫図鑑を眺めたり、午後の授業に備えて昼寝をしたりして過ごしていた。

 だが、独りぼっち生活一周年を迎える頃には、その種の暇つぶしもやりつくしてしまい、別の暇つぶし方法を考えなければならなくなった。
 一か月の地味極まりない試行錯誤期間を経、生み出された新たな暇つぶし法が、入荷されてから一度も借りられていない本探しだった。
 蔵書一覧の冴えなさには定評のある図書室でも、自由研究等のため、利用する生徒は一定数存在する。彼女たちが借りる本は、学習上での必要性に駆られなければ、まず手に取らない類の小難しく、アカデミックな内容の専門書だ。しかし、残念なことに、それでも、入荷手続きがなされた後、本棚に収納され、誰の手にも触れられることなく、書棚の肥やしになっている本もある。そんな気の毒過ぎる本を探し、見つけたら書名や作者、ジャンルを記録し、傾向を探る作業を、私はくだらないと思いながらも、意外と楽しんでいた。
 タイムマシン云々の奇妙なメモを見つけたのも、そんな陰気で生産性皆無の暇つぶしの最中だった。


 メモが挟まっていた本は、『物理学概論』という女学生の琴線には一切触れなさそうな書名に加え、装丁は布張りで、黄ばんだ厚紙の箱入りと手に取られることを拒んでいるとしか思えないような逸品だった。
 うっすらと埃を被った箱から本を取り出すと、案の定、書名と著者名以外白紙の貸出票が裏表紙に貼られた封筒に収まっていた。折角なので、ページをパラパラと蛇腹のように捲っている途中、ちょうど真ん中あたりに、そのメモは唐突に現れたのだった。
 謎のメッセージの書かれたメモは、ありふれたノートの切れ端と思われた。本と異なり、白く染み一つない紙質から推測するに、ごく最近に書かれたものだろう。
 誰かのいたずらだろうか、と思い、私は独りぼっち仲間たちの顔を思い浮かべた。全員、漏れなく陰気そうで、こんな粋ないたずらなんてしそうにもなかったが、人は見た目に寄らないし、多分、私自身も他人から見れば、面白みのない陰気な女だろう。
 手のひら大の紙片を矯めつ眇めつしているうちに、誰だか分からないが、暇つぶしついでに、いたずらに乗ってやろう、という気分になった。メモの質問に返事を書こうと思い立ったのだ。


『あなたは、タイムマシンを信じますか』


 答えは『いいえ』だ。あれは、あくまで空想の産物に過ぎない。難しいことは分からないが、時間旅行なんてできるはずがない。時は常に流れゆくもので、人はその前では無力だ。
 でも、『いいえ』ではつまらない。興覚めも良いところだ。会話終了だ。どう答えるたら面白いだろう。
 久しぶりに、私は妙な高揚感に浮かれながら、メモの作者への絶妙な返しを考えた。しかし、午後の授業に間に合わなくなる時間ぎりぎり、走り書きで書いた返事は、面白味に欠けた平凡なものだった。


『初めまして、スカーレットと申します。タイムマシン、あつたらいいなと思ひます。ところで、あなたの名前を教えて貰へませんか』


 実名を書いてしまっては、つまらないので、何か良い筆名はないかと考えたが、思いつかず、結局、『朱』を単純に英語にしただけになってしまった。
 メモの主が、この返事を気に入ってくれると良いのだが、と祈りながら、私は元どおりにメモを『物理学概論』に挟み、書棚に返した。
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  • 第1章 序章

  • 1
  • 第2章 出会い

  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 第3章 つのる恋心

  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 第4章 あの日、あなたと見た星空を私は一生忘れない

  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 第5章 未来を変える

  • 1
  • 第6章 やっと会えたね

  • 1

登場人物紹介

櫻内朱。

昭和25年当時、大学の研究室に所属する女性物理学者の卵。

タイムマシンの開発に情熱を燃やしている。

女学校4年生だった昭和15年に、不可思議な初恋を経験している。

時任航。

朱の通っていた女学校の物理教師。

柔らかい物腰と王子様のような華奢で繊細な容姿で、学園の人気者だった。

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