第8話

文字数 2,328文字

 昼すぎに永吾が九軒町を抜けると、約束通り犬の矢兵衛がかたわらに現れた。
 町の向こうは広々とした田園地帯だ。とうに刈り入れの終わった田圃が、土色をむき出しにしてどこまでも続いていた。冬間近の冷たく冴えた空の下、青白い鳳連峰が地平いっぱいに長々と横たわっている。その連なりが領内に突き出たところが稲綱山だ。
 昼間だというのに、点在する茅葺きの農家のまわりには二三の人影しかなかった。もちろん子供の姿もない。子喰い猿を怖れて、家の中に閉じこもっているのか。
 永吾と矢兵衛は歩み続けた。まだらに紅葉を残した稲綱山は懐をひろげて目の前にある。 
 農地は切れて竹藪混じりの雑木林へと変わり、坂道の先に古びた石段が見えた。登りきれば梅雲寺の境内。
 急な石段は、繁る熊笹に狭められていた。先に登った矢兵衛が足を止めた。熊笹にひっかかっていた何かをくわえ上げる。永吾は手に取り、眉をひそめた。
 産着の切れ端。しかも血がついていた。
 風に飛んできたのだろう。ここが子喰い猿の塒なのは確かなようだ。
 二人は用心しながら傾きかけた山門をくぐった。境内には太い銀杏の樹があり、吹き下ろす山風が黄色い落ち葉を舞い散らしていた。僧坊はすでに崩れていたが、本堂はまだ原形を残し、後方の山陰に沈んでいる。
 本堂の階段も枯葉に覆われていた。広縁の奥の扉はぴったり閉ざされ、内はしんと静まり返っている。
 しかし、子喰い猿がいるとすればこの中だ。
 永吾は刀に手をかけ、一歩踏み出した。
 扉が音をたてて開いた。
 矢兵衛が吠えると同時に、永吾は本能的に身をかわした。
 かわしたものの、左肩に鋭い痛みを覚えた。血が吹き出ている。かまわず刀を抜き、身構えた。
 子喰い猿はすぐ前に、忽然と立っていた。
 永吾より一回り大きい。赤みを帯びた金色の巻き毛がびっしりと身体を覆い、そこだけむき出しの顔と手足の先は褐色で、てらてらと光っていた。
 人間の造作にいやに似ている猿の顔は、形相凄まじかった。目は血走り、鋭い歯をむきだし、永吾を威嚇する。縄張りが侵されたことを怒っているのだ。
 子喰い猿は俊敏だ。身をかわすのが一瞬でも遅かったら、永吾は首を喰いちぎられていただろう。
 刀を身体の前に引きつけて身を守ろうとした刹那、猿は消えた。一瞬で永吾の後ろに回り込み、太い腕で永吾の頭を打ち据えようとした。矢兵衛が飛びかかったので、猿の腕は空にとどまった。振り向きざま永吾は刀を振るったが、矢兵衛をはねのけた猿はするりとかわし、本堂の広縁に上った。
 なんて素早いやつなんだ。永吾は舌をまいた。俊足、俊敏──そんな言葉を超えている。動きがあまりにも速すぎる。
 永吾と矢兵衛は背中合わせになって攻撃にそなえた。間を置かず、子喰い猿は矢兵衛の横に立ち、がっしりとその胴を掴んで上に持ち上げた。鋭い牙で、腹を噛み裂こうとする。永吾は猿を切りつけた。猿が身をかばう隙に矢兵衛は身をよじって地面に落ちた。永吾の刀は金色の毛をなぎ払っただけだった。
 子喰い猿の武器は鋭い牙と怪力、瞬時に移動できる足の速さだ。 
 考える間もなく、子喰い猿は永吾を押さえつけた。羽交い締めのように両腕を掴み、永吾の喉元に向かって大きく口を開けた。永吾が必死で身をよじったので、子喰い猿の牙は首ではなく右肩に突き刺さった。
 あまりの痛みに、永吾は一声叫んで刀を取り落とした。子喰い猿は勝ち誇ったように永吾の身体を左右に振りまわした。永吾の首に手をかけ、へし折ろうとする。
 矢兵衛が子喰い猿に負けぬ素早さで、永吾の刀をしっかりと咥えた。そのまま地を蹴り、子喰い猿の脛のあたりを切りつけた。
 子喰い猿は高く吼えて、足を抱えた。猿の腕から逃れた永吾は、ふらつきながらも立ち上がった。
 右手は使えそうにない。左も傷を負っているが、脇差しを抜くことはできる。
 子喰い猿は怒りで我を忘れ、矢兵衛に襲いかかっていた。矢兵衛は巧みにそれをかわし、逆襲の機を狙う。
 足の傷のためか、子喰い猿は前のような敏捷さを失っていた。矢兵衛をぐるぐると追いかけ回しているうちに、血に濡れた銀杏の落ち葉に滑り、仰向けにどっと倒れた。
 機を逃さず、永吾は脇差しを握りなおした。全身の力をこめ、子喰い猿の胸を突き刺した。
 子喰い猿は苦悶の声を上げて永吾を払いのけた。凄まじい力で地面に叩きつけられた永吾は一瞬息ができなくなった。
 子喰い猿は、自分で脇差しを引き抜いた。傷口から血がどくどくと流れるのもかまわず、ゆらりと立ち上がった。永吾を見下ろし、お返しとばかり永吾に脇差しを振り下ろそうとする。
 だが、そこまでだった。
 脇差しは、子喰い猿の手からこぼれ落ちた。
 子喰い猿は力尽きた。
 崩れるようにその場に倒れ、動かなくなった。
 永吾は、天を仰いでぐったりと横たわった。
 身体中の力が抜けていくようだ。
「隅倉さま」
 矢兵衛が、犬の心配げな顔で永吾をのぞき込んだ。
 永吾は微笑んだ。
「手強かったな。大丈夫か、矢兵衛」
「あなたこそ」
 矢兵衛は、子喰い猿に噛まれた永吾の右肩を舐めはじめた。不思議なことに、痛みがしだいに和らいでくる。矢兵衛の舌は、傷を治す力を持っているらしい。
「矢兵衛」
 永吾はささやいた。
「おれの血を呑んでもいいぞ」
 矢兵衛はぴくりと身を震わせた。
「死なない程度ならな。そのかわり」
 永吾は矢兵衛の首に左手を伸ばし、豊かな毛並みに指を埋めた。抱き寄せ、顔を押しつけた。
「しばらくこうさせてくれ」
 矢兵衛はとまどったように短く唸った。
 やがてゆったりと永吾に身をあずけ、永吾の肩を舐めつづけた。
 風が山の木々をどよもしていた。
 銀杏の葉はさらに落ち、永吾たちの上に降りそそいだ。
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