第9話
文字数 1,960文字
このところ、永吾は眠れない。
子 の刻過ぎに、かならず目が醒める。
一人で寝ているはずの部屋なのに、ひたひたと近づく足音を感じる。すると突然胸のあたりが重くなり、身動きできなくなるのだ。
目を開こうにも開けない。閉じているはずの目の中に白い光が広がり、それが誰かの顔を形作るような気がする。
誰だろう。
必死で身体を動かそうとしながら考える。わからないのがもどかしい。そうしているうちに、息が苦しくなってくる。全身に力をこめて、やっとのことで息を吸い込む。あえぎながら、はっきりと目を醒ます。それからは目が冴え、床の中で遅い冬の夜明けを待つことになるのだ。
「金縛りにあったことはあるか? 壱助」
ある朝、何気なく訊いてみた。壱助は、薄い眉を上げた。
「若いときには何度かありましたな」
永吾をまじまじと見つめ、
「お顔の色が悪いのはそのせいですかな?」
「いいや」
永吾は、あいまいに顔をそむけた。
「訊いてみただけだ」
「どこぞで、女子でも泣かせているわけではないでしょうな」
いつもの心配顔で壱助は言った。
「生き霊というのも、怖ろしいものですぞ」
「壱助もそうだったのか?」
反対に訊いてやった。
「いやいや」
壱助は、あわてて首を振る。
「世間の話ですて」
永吾は声を上げて笑って見せた。
「世間のな」
むろん、心当たりがあるはずもない。
あるとすれば、いままで殺した化けものどもだ。
祟りというやつだろうか。どうも気持ちが悪い。ねちねちとしつこいやり方だ。化けものの幽霊など聞いたことはなかったが、いっそのこと姿を現してくれたほうがさっぱりするとさえ思う。
矢兵衛の方はどうなのだろう。
梅雲寺以来、ずっと会っていない。矢兵衛のおかげで、両肩の傷は驚くほどはやく治ったが、その礼も言えないままだ。
夜に歩いても、矢兵衛の姿は見かけなかった。あれほど騒いでいた魔性の虫が、今は収まっているのだろうか。永吾の生き血を少しばかり飲んだところで満足するとは思えなかったが。
とはいえ、それならそれで、喜んでやるべきかもしれない。矢兵衛の人間である部分は、女房との静かな暮らしを望んでいる。
自分にはそう言い聞かせたものの、足はふらりと東町に向いていた。
青みをおびた厚い雲が、低く空を覆っていた。山地の方は、すでに白い。城下にも、そろそろ雪が積もるころだった。
矢兵衛は店番をしていた。
永吾が暖簾をくぐると、はっとしたような顔をして、すぐに静かに頭を下げた。
「根付けが欲しくてな」
「では、ご覧になって」
矢兵衛は根付けの箱を持って来た。丸形、瓢箪型、十二支をはじめとする動物たち。材質も形も違う様々な意匠の根付けは見ていて飽きないものなのだが、永吾の頭は別のことで占められている。
「最近」
永吾は、ささやくように言った。
「外には出ないのか?」
矢兵衛は、さらに声を低くして答えた。
「ここしばらく、女房が床に伏しておりまして」
永吾は眉をひそめた。
「病か」
「もともと丈夫なほうではないのです。医者には診せているのですが、胸が悪いそうで」
「それは、心配だな」
「側についていてやらなければ」
矢兵衛は美しい顔を曇らせ、息を吐き出した。
元気づけてやりたかったが、自分に出来ることは何もない。永吾は、ただ深くうなずいた。
「大事にしてくれ」
永吾は、円盤に龍が彫られた根付けを買って店を出た。
冷たいものが鼻先に落ち、永吾は雪の舞い始めた暗い空を仰いだ。
金縛りのことなど言い出せなかった。それでなくとも、矢兵衛は眠れぬ夜をおくっていることだろう。考えてみれば、魔性のものが金縛りになどあうだろうか。
ここに来たのは、犬の矢兵衛に会いたいがための方便にすぎなかったのだ。
苦笑するしかない。人の矢兵衛を見て、いっそう犬の姿が懐かしくなってしまった。あの様子ではお夕のために、矢兵衛は当分犬にならないだろう。
家に帰って、ふと考えた。
化けものの祟りが矢兵衛ではなく、その身近な人間に向けられているとしたら?
お夕の病は、そのために重くなったのかもしれない。
何も知らないお夕が、気の毒になる。
僧か修験者に祈祷を頼んでみるか。
いや、そんなことをすれば、矢兵衛の正体も分かってしまう。自力でなんとかしなければ。
思いつき、永吾は一振りの刀を持ってきた。奥州 鷲杜住藤房国貞 の銘がある。先祖が藩主から拝領した業物 。唯一の家宝だ。
すらりと抜いた。手入れは怠りないので、波のような濤乱刃 の刀紋が美しい。
抜き身のまま枕元に置いた。邪気払いになってくれればありがたい。
もし効き目があるようならば、こっそりと矢兵衛に貸してやろう。
そう思いながら眠りについた。
一人で寝ているはずの部屋なのに、ひたひたと近づく足音を感じる。すると突然胸のあたりが重くなり、身動きできなくなるのだ。
目を開こうにも開けない。閉じているはずの目の中に白い光が広がり、それが誰かの顔を形作るような気がする。
誰だろう。
必死で身体を動かそうとしながら考える。わからないのがもどかしい。そうしているうちに、息が苦しくなってくる。全身に力をこめて、やっとのことで息を吸い込む。あえぎながら、はっきりと目を醒ます。それからは目が冴え、床の中で遅い冬の夜明けを待つことになるのだ。
「金縛りにあったことはあるか? 壱助」
ある朝、何気なく訊いてみた。壱助は、薄い眉を上げた。
「若いときには何度かありましたな」
永吾をまじまじと見つめ、
「お顔の色が悪いのはそのせいですかな?」
「いいや」
永吾は、あいまいに顔をそむけた。
「訊いてみただけだ」
「どこぞで、女子でも泣かせているわけではないでしょうな」
いつもの心配顔で壱助は言った。
「生き霊というのも、怖ろしいものですぞ」
「壱助もそうだったのか?」
反対に訊いてやった。
「いやいや」
壱助は、あわてて首を振る。
「世間の話ですて」
永吾は声を上げて笑って見せた。
「世間のな」
むろん、心当たりがあるはずもない。
あるとすれば、いままで殺した化けものどもだ。
祟りというやつだろうか。どうも気持ちが悪い。ねちねちとしつこいやり方だ。化けものの幽霊など聞いたことはなかったが、いっそのこと姿を現してくれたほうがさっぱりするとさえ思う。
矢兵衛の方はどうなのだろう。
梅雲寺以来、ずっと会っていない。矢兵衛のおかげで、両肩の傷は驚くほどはやく治ったが、その礼も言えないままだ。
夜に歩いても、矢兵衛の姿は見かけなかった。あれほど騒いでいた魔性の虫が、今は収まっているのだろうか。永吾の生き血を少しばかり飲んだところで満足するとは思えなかったが。
とはいえ、それならそれで、喜んでやるべきかもしれない。矢兵衛の人間である部分は、女房との静かな暮らしを望んでいる。
自分にはそう言い聞かせたものの、足はふらりと東町に向いていた。
青みをおびた厚い雲が、低く空を覆っていた。山地の方は、すでに白い。城下にも、そろそろ雪が積もるころだった。
矢兵衛は店番をしていた。
永吾が暖簾をくぐると、はっとしたような顔をして、すぐに静かに頭を下げた。
「根付けが欲しくてな」
「では、ご覧になって」
矢兵衛は根付けの箱を持って来た。丸形、瓢箪型、十二支をはじめとする動物たち。材質も形も違う様々な意匠の根付けは見ていて飽きないものなのだが、永吾の頭は別のことで占められている。
「最近」
永吾は、ささやくように言った。
「外には出ないのか?」
矢兵衛は、さらに声を低くして答えた。
「ここしばらく、女房が床に伏しておりまして」
永吾は眉をひそめた。
「病か」
「もともと丈夫なほうではないのです。医者には診せているのですが、胸が悪いそうで」
「それは、心配だな」
「側についていてやらなければ」
矢兵衛は美しい顔を曇らせ、息を吐き出した。
元気づけてやりたかったが、自分に出来ることは何もない。永吾は、ただ深くうなずいた。
「大事にしてくれ」
永吾は、円盤に龍が彫られた根付けを買って店を出た。
冷たいものが鼻先に落ち、永吾は雪の舞い始めた暗い空を仰いだ。
金縛りのことなど言い出せなかった。それでなくとも、矢兵衛は眠れぬ夜をおくっていることだろう。考えてみれば、魔性のものが金縛りになどあうだろうか。
ここに来たのは、犬の矢兵衛に会いたいがための方便にすぎなかったのだ。
苦笑するしかない。人の矢兵衛を見て、いっそう犬の姿が懐かしくなってしまった。あの様子ではお夕のために、矢兵衛は当分犬にならないだろう。
家に帰って、ふと考えた。
化けものの祟りが矢兵衛ではなく、その身近な人間に向けられているとしたら?
お夕の病は、そのために重くなったのかもしれない。
何も知らないお夕が、気の毒になる。
僧か修験者に祈祷を頼んでみるか。
いや、そんなことをすれば、矢兵衛の正体も分かってしまう。自力でなんとかしなければ。
思いつき、永吾は一振りの刀を持ってきた。
すらりと抜いた。手入れは怠りないので、波のような
抜き身のまま枕元に置いた。邪気払いになってくれればありがたい。
もし効き目があるようならば、こっそりと矢兵衛に貸してやろう。
そう思いながら眠りについた。