第15話 みっつめの自己

文字数 1,306文字

「分裂病少女の手記」(みすゞ書房)という本を、10代の頃買って、読まなかった。
 これは違う、と感じたからだった。
 つまり、ホントウの精神病というのは、実際の現実に、あらわれるらしいのである。それは全く、「病」として、扱われるべく、ある病なのだった。そのような内容だった感触がある。

 ぼくが当時もんだいとしていたのは、社会的な薬害の問題でもなく、病院からもらった病名でもなく、「矛盾する自我」ということについてだった。

 矛盾。
 それは、自殺したいとする人間が、健康食を食べたりすることだ、端的にいえば。
 これは、あからさまな矛盾である。

 具体を書けば、ぼくは今朝、9時頃、起床した。だが、7時前から、一緒に住んでいるひとが洗濯をしていることを知っていた。
 ああ、洗濯してるな、おれがやればいいのに、やらせてしまってるな、と、くるしんで(いたのだ)、そのまま毛布にくるまっていたのだ。
 これは、自分としては、「こうするべきなのに」という自分と、「そうしない」自分、ふたつの自分がいたつもりなのだ。
 で、もうダメだ、起きて着替えて、どこかへ出て行かなければ、とさえも考えていた。

 だが、「おはよう」「おはよう」、この挨拶を交わして、まるで平穏にこの日が始まったのだった。
 ぼくは、よく、このように、いわばふたつの自分に「分裂」し、そこからねじれる矛盾の谷間へ落とされる(自分から落ちていく)。
 だが、それは、何もぼくに限ったことではないのだ、と思えるフテブテしささえ、この頃、見身につけたようである。
 家人だって、内心では「こいつ、いつまで寝てんだ、ケッ飛ばしてやろうか」と思っていたかもしれず、しかし、それが笑顔で許されたのかもしれないのだからだ。

 会社でも、こういう場面は多かった。
 会社の方針はこうでも、実情はこうだ、というふうに。
 ホントはこうなんだけどね、という裏/表の世界のような具合にだ。
 あるいは、離婚を決意した妻が、いつもの習慣で美味しい料理を夫につくろうとしてしまうように?
 あらゆる場面に、きっとあるのだと思う、矛盾というのは、とにかく。
 で、「分裂する自己」である。

 自己は、ひとつでは成り立たない。自分が居、それを見る自分が居、さらにその自分らを見る自分がある。
「分裂」というイメージは、ひとつのものが、ふたつに裂かれるイメージがある。が、そのふたつを、もうひとつ見る自己というものが、あるのだ。
 これは確言していいと思う。
 こいつがどうも、ホントウらしいのだ。

 少なくとも、そいつが、ぼくがぼくであらしめるところの、ホントウの自分なのだ。
 全く、自分がふたつになることは、堪えられない。だが、そのふたつの自分を、ふたつの自分とするには、もうひとつ、自分がないと、ふたつにはなれないのである。

 この、順番でいえば、みっつめの自分が、自己を、自己としている、と、感じられてならない。
 で、どうなるかといえば、どうにもならないのだ。
 だが、このみっつめの自分が、自己を自己として生かしてきた、自己の本体、ゲーム風にいえば「ラスボス」(はじまりのボスでもあるが)のように感じられてならないのだった。
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