第4話

文字数 4,555文字

開封府に滞在して、かれこれ一ヶ月は経った。が、あと二ヶ月はここで興行をすることになりそうだ。相変わらず俺の気分は晴れないままで、龍翠の顔を見ると何故か苛苛するようにもなった。行き場のない感情は、すべて龍翠本人に吐き出した。
「おい、ウスノロ」
「……私のことでしょうか?」
龍翠が、紅成様に手妻(手品)を習っていた。戯れの一種だろうが、二人が楽しそうにそれをやっていたのが、とにかく気にくわなかった。まず、この二人はちょっと前まで不仲だったはずだ。いつの間に、仲良くなったのか。
「貴様以外に誰がいる。ウスノロ、呼ばれたらはいと返事をしていればいいんだよ」
「……次から気を付けます」
「面白くないやつだな。それより、どうして手妻など習う?お前がそれを覚えたところで、無駄な稽古にしかならんと思うが」
「彪林殿、これは」
「曲芸の一種なんだよ。俺が考えた」
紅成様が、張りのある声でそう言った。眼の光が、強すぎるほどに強い。相変わらず無礼な口調だが、どれだけ注意されても直す気はないらしい。
「曲芸?」
「龍翠が、俺の真似をして簡単な手妻をする。そこでわざと失敗して、客の笑いを取る。そういうもんなんだ」
「……」
言い返す言葉がなかった。二人を順番に睨んでから、俺は部屋から離れた。二人の弾んだ話し声を、背中で聞きながら。いまいましい気持ちは、更に度を増していくばかりだった。

「やはり、紅成様に教わった方が上達するものなのかな」
ぼうっと壁にもたれかかっていると、通りすがった張引にそう話しかけられた。なんの話だ、と俺は顔をしかめてみせる。
「龍翠のことだよ。たしかにあれを考えついたのは紅成様だが、簡単な手妻は俺が教えることになっていた。でもな、俺がここはこうしろと指示を出すと、龍翠はいっこうに手が動かせなくなるんだ。動いたとしても、下手なやつが動かすあやつり人形みたいにな、ぎぎぎぎっと動く」
「龍翠の手が、ですか?」
「ああ。細かい手の動作が苦手なのか、それとも単に俺が怖いだけなのか」
「どっちも有り得そうな話ですがね」
「それがどうだ。見ただろ?紅成様が教えたとなると、あんなに手が滑らかに動いている。なあ、彪林。俺の顔が、そんなに怖いか?」
「顔だけの問題ではないと思います」
言いながら、ますます嫌な気持ちになる。紅成様だから、どうした。歳が近いから、気が緩んでいるだけだろう。張引、お前はもうじいさんだ。お前の堅苦しい稽古など、紅成様以外にまともに受けられる人間はいないんだよ。そう言ってやりたかったが、さすがに黙っていた。
「だが、彪林の厳しい稽古にも龍翠は耐えた。何故俺は駄目なのだ?」
「張引殿。俺があいつを叩きのめすと、あいつはそれこそ下手なやつが動かすあやつり人形みたいに、ぎこちなく歌ったものですよ」
「厳しいだけの稽古じゃ、もう駄目なのか。時代遅れか?俺は」
「あなたはあなたで、いいと思いますけど」
こいつもよく、喋るようになったものだな。前までは、ただの無口な厳格じじいだと思っていたのに。なんだか、いろんな人間が変わっていっているような気がする。いや、もしかすると変わっているのは当たり前で、それに違和感を覚える俺がおかしいのかもしれない。──そう言いながら、いちばん変わったのはそれこそ俺かもしれないのだ。

張引は、龍翠と紅成様のいる部屋に入っていった。



「皆様、見てください!わたしも手妻を、出来るようになったのですよ」
甲高い声で、化け物が喋る。俺はじっと座って、目の前の空気だけを見つめていた。
「まず、ここにある手ぬぐいを、こうして……ほら、お花が、消えてなくなった……ってあれ!」
消えたはずの花が、ぽとりと地面に落ちる。しばらくして、一斉に湧き上がる笑い声。龍翠の隣にいた紅成様が、苦笑いをしてその花を拾った。
「消えてないぞ、龍翠。お前もまだまだだな」
「ひどい!私、練習したんですよ。張引殿とまではいかないけど……紅成様になら、負ける気はしません!」
「なら、俺が手本を見せてやる。見ておけよ」
紅成様の腕がすらりと伸び、龍翠から手ぬぐいを取った。左手に握られた花に手ぬぐいがかけられ、また解かれた瞬間、すでに花はなくなっていた。一瞬の出来事だった。歓声と拍手が起こる。紅成様が龍翠に向かってそっと微笑みかけると、龍翠の顔の化粧がぐにゃりと歪んだ。
ふと、目を客の方に向けた。しばらく探して、やっと見つける。あの男だ。確か、田旭と言ったか。抜けるように白い肌、整った目鼻立ち。こちらの視線に気付いたのか、奴はこちらをちょっとばかり睨んだ。そしてまた、颯爽と立ち去って行った。睨まれたはずなのに、何故か嫌な気はしなかった。むしろ、ぞくぞくしたものが背中を這い上がっていったくらいだ。そんな自分を少しだけ嫌悪して、また俺は視線を元の位置に戻した。いつの間にか龍翠と紅成様の演戯は終わっていて、白藍が筆を口にくわえ、書をしたためているところだった。白藍の芸は、見ている人によっては耐え難い何かを感じさせる、実に不気味なものだった。俺も最初の頃は慣れずに、白藍の時だけ顔を下に向けていたことがある。手足がないというだけで、気持ち悪いと思う人間も少なくはないのだ。
興行が終わった。何人かの女が集って何かを手渡そうとしてきたのを、内心渋々受け取った。この間、貰った菓子の中に蝶の死骸が入っていたのだ。あとは髪の毛が入っていたり、食べると血の味がしたものもあった。誰の仕業かは知らないが、気味が悪すぎるので、ここ最近は受け取っても食べずに捨てるということが多くなっている。そんなものより、銭をくれた方が何倍もいい。口には出さなかったものの、本気で悩んでいるので、どうにかして分かってくれる方法はないかと最近考えはじめた。

「結構好評だったじゃないか、龍翠」
「そうですね」
「それにしても理不尽だよな、お前ほんとはすごい賢いのにさ」
「馬鹿を演じられるのも、賢さのうちのひとつです」
「よく言うぜ」
拠点に帰る途中。また、紅成様と龍翠が話している。耳を塞ぎたくなった。蝶入りの菓子も、髪の毛入りの菓子も、血が練り込まれた生地の菓子も、全部紅成様に食わせてやりたい。こんなこと紅隆様に聞かれたら、クビになるかもしれないが。どっちにしろ、俺と龍翠の間の距離は遠くなるばかりなのだ。自分の気持ちの中に、諦めの感情がある。それに最近、気付きはじめてきた。



「彪林!全員、紅隆様の部屋に集まれだってよ」
「全員?」
高延亮が、俺にだってよくわかんねぇよとでも言いたげな表情をしてみせる。今日は何も特別な日ではなかったはずだ。説教、というのもありえない話である。
若干不審に思いながら、部屋に向かった。白藍が、数人の使用人に抱えられて運ばれていた。落ちたら大変だろうな、とそれを見ていつも思う。顔が潰れてしまったら、それこそただの化け物だ、白藍は。想像したくもないことだが。

扈珀(こはく)がいた。長年、紅隆様の補佐をしている執事のような男である。言葉を交わしたことがまず無いので、どんなやつかは知らないが、あまりいい印象を持っていない。 その扈珀が、何やら厳しい目をしている。
「……全員揃いました」
「使用人もか?」
「はい」
この緊迫した雰囲気は、紅隆様と扈珀が生み出しているものだろうと思った。これは、説教かもしれないと若干びくつく。中央の椅子に座った紅隆様が、口を重々しく開いた。
「……この中に、一座の蓄えを盗んだ者は正直に名乗り出ろ」
沈黙。皆呆気に取られたような表情で、互いに顔を見合わせた。白藍だけは、澄んだ眼差しで紅隆様を見つめていた。それから、
「どういうことか、しっかり説明してくださいませ。紅隆様」
と言った。
「白藍」
「いきなりそんなことを言われたところで、何も知らぬ者は混乱するだけでしょう」
「確かにそうだな」
「蓄えって、銀の事だろ?そんなに金に困ってるやつがいるのか?」
「高延亮、静かにしろ」
ざわつきはじめた空気を、紅隆様が咳払いで静めた。また、重々しく口が開く。
「扈珀が、近頃徐々に蓄えが減ってきている事に気付いた。様子を見る為、しばらく黙っていたが、減る量はじわじわと増えていくばかりだ。いくら見張りを付けても、犯人は見つからない。それなのに、蓄えた銀は減っている。巧みな技を使う、小賢しい泥棒だな。まあ、ここで呼びかけたところで犯人は自ずと出てきやしないだろうが」
紅隆様が、皮肉な笑みを浮かべた。
「念の為。まさかこの中にいるのではないだろうな、と思って」
ざわつきが、また広がる。やはり白藍は冷静で、紅隆様の目をただじっと見つめているだけだった。
「芸人達は、十分な給料を貰っています。特別な理由がない限り、それ以上の銀を欲しがろうとはしないと思います」
「まあそうだよな。俺もそう思う」
「高延亮、お前が一番信用し難いぞ」
「俺は白藍の言ったことに同意しただけだ、張引!」
「では、使用人の可能性が高いということですか、白藍殿?」
「なんであたしに聞くんだよ。彪林もそれくらい考えられる脳は持ってるだろう」
「銀ねえ。同僚のならまだしも、よりによって紅隆様のもとから盗むなんて、大した度胸のやつだなぁ」
「そこよ、高延亮」
「そうだよ。銀が欲しいってだけなら、なんでわざわざ紅隆様のもとから盗むんだよ」
「何か別の、目的があったりして。なあ、龍翠はどう思う?」
高延亮に言われて、龍翠が驚いたような表情をする。どうしていきなり自分に振るのだ、と思っているのだろう。
「……ここは一座の者ではなく、盗っ人の仕業だとも考えられるのでは?」
「いや」
それまでずっと黙っていた扈珀が、龍翠の言葉を遮った。
「芸人達ですら分からぬ場所に、蓄えは隠しているのだ。それが盗っ人ごときに見つかるなど論外」
「なら犯人はお前だったりするんじゃねえのかよ、扈珀」
「高延亮、言葉が過ぎるぞ」
「ああ。あんたは知らないだろうが、扈珀はずっと昔から紅隆様のお傍にいたんだ。あんたよりもよっぽど信用できる男なんだよ」
「自信たっぷりに言うな、白藍。手足がないからって、自分が疑われることはまず無いと思っているだろう」
「こら、やめにしろ……」
「チッ、こういう時にお調子者は困るんだ」
「静かに」
紅隆様が、張りのある声でそう言った。高延亮がいかにも不機嫌そうな顔で、姿勢を正す。
「もうよい。名乗り出る者を最初から期待していたわけではない。散れ」
「……よろしいのですか?」
「犯人探しの術は、これからいくらでも──扈珀、お前が考える。そうだろう?」
「……はい」
また、紅隆様が笑う。不気味な笑い方だ、と俺は思った。もし犯人が捕まったら、どうなるのだろう。ただクビになるだけじゃ、済まないような気がする。そんな気を感じさせるほど、この人は恐ろしい人だったか。思い出しても、思い出せそうにはなかった。いくらか沈んだ心持ちで、それぞれが部屋から出て行った。
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登場人物紹介

彪林《ひゅうりん》…… 一人称、『俺』。初登場時、22歳。犬芸人。

龍翠《りゅうすい》…… 一人称、『私』。初登場時、15歳。歌うたい。

白藍《はくらん》…… 一人称、『あたし』。初登場時、38歳。だるま女。

高延亮《こうえんりょう》…… 一人称、『俺』。初登場時、30歳。軽業師。

張引《ちょういん》…… 一人称、『俺』。初登場時、66歳。手妻師。

紅隆《こうりゅう》…… 一人称、『俺』。初登場時、48歳。一座のお頭。

扈珀《こはく》…… 一人称、『私』。初登場時、43歳。紅隆の補佐。

紅成《こうせい》…… 一人称、『俺』。初登場時、14歳。紅隆の息子であり、張引の弟子。

鄭義《ていぎ》…… 一人称、『俺』。初登場時、35歳。紅隆の側近。

赫連定《かくれんてい》…… 一人称、『僕』。年齢不詳。

喬《きょう》…… 年齢不詳。

田旭《でんきょく》…… 一人称、『俺』。初登場時、18歳。宮中の文官。

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