第6話

文字数 4,905文字

「彪林殿」
息を荒げている俺を、龍翠はただ静かな眼で見つめていた。その冷静さが、俺には無性に恐ろしく感じられた。ここに来て、なんと言えばいいのか急にわからなくなってくる。龍翠が、裁縫をしていた手を止めて、そっと俺に微笑みかけた。
「一度、お座りください」
ふらつく足で、俺は龍翠の前に腰を下ろす。まだ、心臓はばくばくと音を立てて鳴っていた。それが龍翠に聞こえてはいないか、なんてことを一瞬だけ気にして、どうでもいいと思い直す。
「……高延亮殿が」
言葉が、詰まる。そこから先が、どうしても出てこなかった。言うのが、ただなんとなく怖かった。が、構わずに龍翠の方が口を開いた。
「ええ。知っていますよ」
「……え?」
「高延亮殿のことなら、私は知っています」
わけがわからなくなった。この女の部屋に来たのが間違いだった、と俺は後悔する。ふと、高延亮のあのやつれた顔が思い出された。慌てて、頭からその影を追い払う。
「会ったのか、高延亮に」
「いえ。しかし、わかりますよ」
「何を、さっきからふわついたことばかり。もっとはっきり言え」
本当は、何も知らないくせに。その言葉は、なんとなく言ってはいけないような気がした。だから、あえて言わなかった。
「高延亮殿が、死にたがっておられるのでしょう」
「……」
知っている。どこまでかは、見当はつかない。
「張引殿も、嘆いておられました。殺してやるべきなのか、と」
「何故、張引殿が」
言ったが、龍翠はちょっと冷たい目でこちらを見つめただけだった。それからすぐに、裁縫の続きを始めた。新しい、着物のようだった。
「私には、何もできません。手を下すような資格もないのですし」
「じゃあ、俺にはあると言うのかよ。張引殿には?」
「いえ」
龍翠が、またちらりとこちらに目をくれる。
「誰が殺してやるのではなく、誰かが殺してやるのが、正しいのかどうか。問題はそれですよ」
「……は」
「紅隆様が、それこそ高延亮殿を殺した者を、罰するかもしれません。もしくは、人殺しとして役人に連行されるか」
「それは」
「まあ、実際のところはどうかわかりませんが」
「なら、高延亮殿はどうしろというのだ」
「どうにも」
きっぱりと、龍翠は言った。俺には、よく分からなくなってきた。自分が冷静であるのかも、そうでないのかも。
「どっちにしろ、皮膚を剥がすという行為自体が危険です。血を多く失ったり、傷口からよくないものが入って死ぬかもしれないのですし。高延亮殿が恐れているのは、そうやって苦しみながら死ぬことなのだろうと思います」
少なくとも、こいつは自分より冷静に物事を考えている。それがどことなく、癪に障った。
「……なぜ、わざわざそのようなことを、紅隆様は」
「……」
龍翠は、答えなかった。それきり、何も。結局なにもわからないまま、俺は立ち上がった。何か捨て台詞を吐こうとして、やめる。白藍の部屋に行こうか、と一瞬だけ考えたが、そんな気力すらも不思議と湧いてこなかった。





高延亮が、死んだ。ちょうど十日目の朝に、死んでいるのがわかったのだと言う。斬り傷も、首を絞められたあとも何もなかった。誰かに殺されるでもなく、そっと息を引き取るように死んだのだろうと、眼を赤く腫らした張引が言っていた。
これで、良かったのだろうか。何故死ねたのか、という疑問よりも、そっちの方が強く俺に付きまとってきた。稽古をする気も起きなかったので、俺は高延亮の亡骸のもとへ行こうと決心した。
「もうすぐ埋めさせる。早く済ませろよ」
言った扈珀の目を、俺はじっと睨んだ。高延亮は、あの時と同じ部屋にいた。やはり部屋は薄暗く、どんよりとした死の匂いが乾いたように宙を漂っているだけだった。
「……高延亮殿」
薄暗さのせいか、その顔は幸せそうにも苦しそうにも見えなかった。死体だ。ただ、そうとしか思えなかった。
記憶を巡らせる。ここに来たばかりの事を。厳格でこわい人ばかりだと思っていた先輩たちの中で、高延亮はただひとり明るく俺に接してくれた。興行の場に行く時も、だいたい話しかけてくれたのは高延亮だった。でも俺は、そんな高延亮のことをちょっと下に見ていた。顔は一座の中じゃ確かに一番の醜男だったし、軽業以外になんの取り柄もなかったからだと思う。あんなに陽気な性格で、よくも失敗して死なないものだなといつも思っていた。しかし、決して失敗しないだけの実力を高延亮は持っていたのだ。それがどうして、こんなことに。それを一番思っていたのは、きっと高延亮自身だろう。
結局、俺は高延亮のことが好きだったのか。
まともに考えられそうにはなかった。でも、せめて弔いとして、言っておこうと思った。
「俺は、あなたのことが、好きでしたよ」
踵を返す。これを生きているうちに言えば良かったのだ、と思っても、もう遅かった。



早速、紅隆様に集められた。高延亮のことだろう、となんとなく察しはついた。しかし、どこか異様な雰囲気が漂っている。
「高延亮が、死んだ。大事な芸人のひとりを失ってしまったのも、私に責任があると言える。その事については、私も深く詫びようと思う」
紅隆様の口調は、いつもと大して変わらなかった。それを非情と言っていいのか、俺には分からなかった。ちらり、と隣にいた張引の方を見る。張引の眼はまだ赤く腫れていて、握りしめた拳は少し震えていた。そこまで感情を表に出すような男だったのか、と若干驚く。やはり、賑やかな男がいなくなってしまうと、さすがの張引にもこたえるのだろう。
白藍も、沈んだ様な表情をしていた。
「だが、ひとつお前たちに聞きたいことがある」
紅隆様が言った。その一言で、暗かった空気が一瞬にして張りつめたようになった。次の言葉を待っているのに、紅隆様はしばらくの間喋ろうとはしなかった。

「高延亮を、殺めた者がいるだろう?」
ようやく、その口が開いた。きゅう、と心臓が縮んだような感覚をおぼえる。そんな。この期に及んで、何を言うのだ。全身の筋肉が、硬直したように動かなくなった。
「安楽死などと思っている者もいるだろうが、それはそれでいい。高延亮が誰の手も汚さずに死んでいったことに、内心ほっとしているのだからな」
まさか、と思う。……しかし、間違ってはいない。安心している。まさしく、自分ではないか。本当なら、張引のように自分も悲しむべきではないのか。そう思ったが、やはりなぜ、という思いがまだ強かった。
「紅隆様」
言って立ち上がったのは、張引だった。
「高延亮の死を、なんだと思っているのですか。弔いの言葉は、もっとあるはずです。にも関わらず、この場にいながら皮肉めいたことを」
「私は、事実を言っているだけだぞ」
張引の言葉を、いつもより厳しい声音で紅隆様が遮った。張引は臆せずに、怒りで更に顔を歪めている。
「そもそも、どこにそんな証拠があると……」
「そんなものは、ない。だから、安楽死と思っている者はそれでいい、と言っているのだ」
「先程から、雲をつかむようなことばかり!」
「張引!」
白藍が、怒鳴るようにして言った。使用人たちの肩が一斉に跳ね上がるのを、俺は遠目で見ていた。
「紅隆様の、話を聞け。大人しく」
「白藍、お前も薄情者なのか」
「違う。お前のように、あたしは取り乱していないだけだ」
「取り乱している、だと」
帰りたい、と思った。こんなところに、いつまでもいたくはない。耳を塞ぎたくなるのを、俺はただ必死に堪えていた。
「紅隆様。誰が手を下したにしろ、芸人が死んだのです。その話はあとにして、今はまず高延亮殿のご冥福をお祈りするべきかと」
「ほう。龍翠がそれを言うとはな」
わらった。紅隆様が、はっきりとわらった。
「生意気な口をきいて、申し訳ありません。しかし、混乱ごとは避けたいとは、この場にいる誰しもが思っておられるはず」
龍翠の口調は、この場にいる誰よりもずっと大人びたもののように感じられた。本当なら、自分が言うべきことだったのかもしれない。ふと、自分がものすごく臆病なのではないか、という気に駆られてきた。
「……そうこうしているうちに、犯人が逃げてしまったらな」
「逃げません。そもそも、他殺という確証もありません」
「そうか、そうか。龍翠がそれを言うのなら」
くつくつ、と不気味な笑い声を紅隆様があげる。紅隆様にとって、龍翠は何なのか。全くもって、見当がつかなかった。

「呪い師の力とやら、見せてもらおうではないか」
確かに、そう聞こえた。誰に言ったかもわからないような、小声だった。呪い師。……聞き慣れない、言葉だ。
扈珀が戻っていいと言っても、しばらくの間誰も動かなかった。空気は、凍ったように張り詰めている。その中に、ほんの僅かだが──高延亮の、死の匂いがしたような気がした。





「彪林殿。お客様に貰った菓子を、そこら辺にぽんと置いておかないでほしいのですが」
「はあ?」
「つい、食べてしまいました。中に髪の毛がたくさん入っていて、そりゃあもう驚きましたよ」
「ふん。いい気味だな」
「あんなことをする人間の、気が知れませんね。菓子が勿体ない」
菓子の心配をするのか、と言いそうになってやめる。菓子のこともそうだが、俺は何より龍翠の方が気味が悪かった。この間まで俺を避けていたくせに、急に元通りに接してくるようになったのだ。……急に、だったかな。いろいろなことがありすぎて、もうそんなことをいちいち覚えてはいられなかった。
「そこら辺に放っておいているものを何でも食おうとする、お前が悪いんじゃないのか。食い意地が張ってるのだな」
「太らなければいいのです」
「ばあか。病にかかって死んじまえ」
龍翠がちょっとばかりこっちを睨んでから、また踵を返した。紅成様のところへ行くのだろう、となんとなく察しはついた。手妻を習うわけでもないのに、龍翠と紅成様はしきりに二人で話している。話の内容はよく知らないが、ともかくその様子が気に入らなくて仕方がなかった。周りの人間は、気が合うのだろうとか仲が良いのはいい事だとか、何やらいろいろ言っていたが、まるで子どもみたいに言うではないか、と俺は思う。紅成様は、もうじき十六となるのだ。あの二人がいつ不埒を働いても、おかしくはないと充分に言える。

この話は、あまりしたくないからもうよそう。……そうだ。高延亮が死んでもうだいぶ経つが、紅隆様があの話を持ち出すようなことは二度となかった。そのせいで、俺の心に引っかかった何かは永遠に取れないままでいるし、それは他の芸人や使用人たちもおそらく同じだろうと思った。ただ、皆忘れたふりをしているだけで。皆、何かと紅隆様を畏怖しているのだ。正直、俺もこわかった。昔はこんなだったかな、と思い出そうとしてみても、なかなか記憶は甦ってこない。
張引も白藍も、その弟子たちも皆元気そうだった。悲しみも、いつか時が癒してくれるのだ。そう言っていた張引の顔は、笑っていたが少し寂しそうだった。顔に刻まれた皺が、いっそう深くなっているようにも見えた。
それにしても。紅隆様の言っていたことは、なんだったのだろうか。気が触れてしまったのではないか、と一瞬だけ紅隆様を疑ったことはある。しかし、それでもやはり納得はいかない。『呪い師』という言葉も、微妙に心に引っかかっているのだ。白藍は何かの比喩だろうと言っていたが、何の比喩だと聞くと白藍も答えられなかった。
こんなにもやもやした状態が続くのならば、いっそのこと何か大きな事件でも起こってしまえばいい。しばらくして、不謹慎なことを考えたものだとすぐに思い直す。気を紛らわせるために、稽古の時間をちょっと増やした。べつに、これ以上芸の腕をあげようと思うこともなかった。

犬だけは、いつも変わらずに尻尾を振って走り回っている。
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登場人物紹介

彪林《ひゅうりん》…… 一人称、『俺』。初登場時、22歳。犬芸人。

龍翠《りゅうすい》…… 一人称、『私』。初登場時、15歳。歌うたい。

白藍《はくらん》…… 一人称、『あたし』。初登場時、38歳。だるま女。

高延亮《こうえんりょう》…… 一人称、『俺』。初登場時、30歳。軽業師。

張引《ちょういん》…… 一人称、『俺』。初登場時、66歳。手妻師。

紅隆《こうりゅう》…… 一人称、『俺』。初登場時、48歳。一座のお頭。

扈珀《こはく》…… 一人称、『私』。初登場時、43歳。紅隆の補佐。

紅成《こうせい》…… 一人称、『俺』。初登場時、14歳。紅隆の息子であり、張引の弟子。

鄭義《ていぎ》…… 一人称、『俺』。初登場時、35歳。紅隆の側近。

赫連定《かくれんてい》…… 一人称、『僕』。年齢不詳。

喬《きょう》…… 年齢不詳。

田旭《でんきょく》…… 一人称、『俺』。初登場時、18歳。宮中の文官。

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