4-1 羊の背中がもっふもふ

文字数 2,050文字

 もふっ……
 もふっ……
 翌日、俺は近所の公園で、羊の背中をなでていた。この公園には小さな動物園が併設されているのだ。
 執筆に行き詰まると、俺はよくここに来る。羊毛に手を突っ込むといろいろなことがどうでもよくなってくる。
 案外、ふわふわではない。結構しっかりとしている。「乗れる雲」みたいな感触だ。雲に乗ったことはないけれど。
 羊は首に「そらお(オス)」と書かれたプレートを下げている。俺にとっては馴染みの羊だが、別に懐かれているわけではない。きっと「また来たよこいつ」とか思われているのだろう。そらおの小さな瞳は俺でなくどこか遠くを見ている。
 もふっ。

「……」

 ああ、あたたかい。
 本日は10月7日。数日前まで長々と続いていた残暑がウソのように涼しい。
 秋という季節は年々短くなっている気がする。今年もあっという間に冬が来るのだろう。
 もふっ。

「……」

 はー、やれやれ。
 あたりは子供たちの声で賑わっている。ディズニーランドに常に修学旅行生がいるように、この公園にはほぼ毎日、保育士さんに連れられた子供たちの一団がいる。お子様はポニーに乗ることもできる。
 この「ふれあいコーナー」はたぶん、いやたぶんでなく、お子様向けだ。大の大人お一人様はいささか目立つ。しかし俺はもう飼育員さんたちに覚えられていて、不審がられることはない。とは言え大歓迎されているわけでもなく、「また来たよあいつ」とでも思われているのだけれど。
 もっふううう。

「……」

そらお(ほんま何やねんこいつ)

 ひとしきり羊毛を堪能した俺は、「動物を触ったあとは手を洗いましょう」の貼り紙がある流しで手を洗い、自販機で缶コーヒーを買ってベンチに腰を下ろした。

 ◆ ◆ ◆

 一昨日から昨日にかけて、ストックを軽く読み返し、異世界転生モノとしてリメイクできないか検討したみた。
 できるかできないかで言えば、できると思う。何とでもなる。山田さんの言う通り、要は現実パートを足すだけなのだから。
 俺が今「行き詰まっている」と感じているのは、どうしても抵抗感が消えないからだ。

「……」

 いかん。せっかくそらおの力を借りてリセットしたのに、こうしてまた考え込んでしまっている。
 本でも読もう。と、俺はカバンからスティーヴン・キングの『ダーク・タワー』を取り出す。

「……」

 俺はなぜ本を読むのだろう。
 日常を忘れられるから?
 空想の世界へ行けるから?
 それなら、読書という行為はやはり「逃げ」に属するものなのだろうか。
 中学の頃、「進路指導」といううんざりするほど現実的なイベントが迫ってきた時、俺はゲーム好きのクラスメイトと、

「スライム倒して生活したいよな」
「スライムなら倒せるよな」

 というアホな会話をしていた。たぶん、全国の中学で同じような会話が行われていたはずだ。
 働かなければならない未来から、恥ずかしげもなく、逃げたがっていた。
 雑魚モンスターを倒して賃金が得られる世界。あるいは、女性は美女と美少女と美幼女しかいない世界。そんな世界は「都合がよすぎる」というのなら、俺はどんな世界へ行きたいのだろう。
 このまま2作目が出せず、出版社から見限られて、ただのフリーターになったとする。その時俺はどんなところへ逃げたいと思うだろう。

「……?」

 あれ?
 今、俺、「そうなってからココナの世界へ行けばいいや」って考えたのか?
 まさか、ウソだろ?
 いや、確かに思った。
 下の下とはこのことだ。
 それって今すぐ逃げ出すよりよっぽど卑劣じゃないか。

(あかん)

『ダークタワー』の内容が全然頭に入ってこない。
 本を閉じ、ポケットからスマホを取り出して、ツイッターを開く。この行動に深い意味はない。
 今朝のニュースは大分県の中学でいじめ自殺があったと報じていた。それを受けてだろう。ツイッターでは「死ぬぐらいなら逃げろ」というメッセージが何千何万とリツイートされている。
 まぁ、死ぬよりは、逃げたほうがいいかもしれない。でも、学生にとって「逃げる」って何だ? 俺が覚えている限り、高校ぐらいまでの生活は、ほとんど選択の余地がない。社会人の自由さは想像すらできない。
 自殺を肯定するつもりはないけれど、死ぬと逃げるって、何が違うんだろう。死ぬという逃げ方だけが禁じ手なのは何故だろう。
 当人のためなんかじゃなくて、残された者がつらいからそう言ってるだけなんじゃないか?
 とりとめもないことを考えながら、何の意味もなく視線を高くした。馬が肥えそうな高い空の一角、10階建てぐらいのアパートの屋上に、ちょうどフェンスを乗り越えようとしている人の姿があった。
 反射的に、

「よせ!」

 と叫んで、俺は走り出した。
 子供たちは遊びの手を止め、ぽかんと俺を見た。その中でそらおは我関せずであるのを、俺は視界の端で見ていた。
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