一・富士

文字数 1,030文字

 初夢は一富士二鷹三茄子だったが、それは淫夢で、悪夢だった。

 順番通り、初めに登場したのは富士山だった。

「今日もお出かけ?」

 台所からそう聞いて来る声の主が、富士山だ。システムキッチン越しに俺に聞いているが、視線は鍋に向いたままだ。俺はリビングで軽いリュックを背負ったところだった。

「お休みなのに大変ね」

 富士山は俺の妻で、結婚してもう20年にもなる。

「まあね、取引先の人とゴルフにいかなくちゃいけなくてさ、嫌になるよ、毎回、毎回」

 俺はアンティークの小物置きから比較的目立たなそうなタイプの車の鍵を選んで取りながらそう言った。

「大変ね~」

 他人事のように(事実他人事なのだが)そう言うと、富士山は鼻歌混じりに調理を続ける。

「今日は何?」

 台所に入り富士山の後ろから鍋を覗き込むと、振り返ることなく、「シチュー」と妻が答えた。しかしその答えはどうでもよかった。俺は富士山の様子を観察したくて近付いたのだ。

 今日の妻の頭上は快晴で、全身がよく見えた。自分の妻ながら、俺はその標高3776メートルの雄大な美しさに、思わず息を呑んだ。雲に突き刺さる白い頭部から、肩、胴体、足に向かってハの字に伸びる二本の線はうっとりする程滑らかで、その傾斜の滑らかさは、頭部に自然の大きさを感じさせながら、足元に身近さを覚えさせる。

 その親しみやすさもあってか、目を凝らすと、妻の皮膚の表面を今日も多くの登山客が歩いている。休日だからか人数は多く、本格的な登山のプロから物見遊山でやって来たカップルまで様々な人が妻の頭部を目指し登っている。

 その中に道端にゴミを捨てている者が見えて俺は心苦しくなった。

「どうしたの?」

 背後からじっと見つめているのが気になったのか、富士山が振り返った。

「いや、そっちも大変だなと思って」

 声を掛けると、富士山は、

「そうね」

 とまた鍋の方を見ながら、ぼんやりと言った。本人にとってはこの忙しさが当たり前過ぎて、考えたこともないのかも知れない。本当に尊敬する。

 とりあえず俺は妻の様子に対し安心した。支度を済まし、

「夕飯までには帰って来るから」

 と大理石を革靴の先で叩きながら富士山にそう言った。

「いってらっしゃい」

 とまたのんびりした調子で返って来る。

 そうして俺は家を出発した。行き先はゴルフ場ではなく、浮気相手の鷹との待ち合わせ場所だった。
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