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活動報告

ある悪人の話

『裁きの日が来たならば、どこへ逃げようかと迷うな』
『どこも同じなのだから』


(〈アースフィアの戦記〉月ニ憑カレタ歌語リ/二十五章 終ワリガ始マル歌)


悪人の話をしよう。
私?
私の名などどうでもいい。

ソラートの片田舎。
ある女が回心する。
ついこの間まで、神をも恐れぬ放埒ぶりで知られていた若者だ。
窮地に陥るか、自分の限界を見たか、とにかく痛い目にあったのだろう。

彼女には、明日からの自分を支える柱が必要だった。
善い人間になろう。
少しはマシな人生を送ろう。

神に頼って神殿の扉を叩いた彼女は、むしろそこで人から頼られる。
彼女は隣人愛を実践する。
愚痴や悩みを聴き、相談相手になり、子供をあやし、息するように若者にダメ出しをする老人から懇々と説教をくらい、雑用をこなし、次から次へと来る行事をさばく。

そのうちに、どういうわけだか心の底が金床のように冷たく固くなっていく。

もともと神殿に熱心に通う人々だ。
敬虔そうな言葉を使えば対応が楽になる、と彼女が気付くのに、それほど時間はかからない。

聖典にはこう書いてある。
神はこう仰った。
使徒は。天使は。聖人は。
だからあなたも……。

口が楽になれば、手はよく動く。
信用を得て、神殿の運営に関わる重要な仕事を任され、若さを失い、信仰こそ生涯、信仰なくして生きられない、そうなってから彼女はある少女から言われる。

「あなたは口先だけの人間だ」

言ったのは私だ。
以来、神殿でその人を見なくなった。

ときに言葉は人を呆気なく打ち砕く。

私は努力し、報われた。高位聖職者への道が開け、村を挙げて祝われ、喝采を浴び、二位神官将補の地位まで出世し、ソラートから出征し、今。

世界が終わろうとしているのに、私はまだあの人に謝っていない。

『〈アースフィアの戦記〉月ニ憑カレタ歌語リ』は平日昼更新だ。11月30日(月)より二十六章が始まる。

足掻こう。滅びゆく世界で。

2020年 11月28日 (土) 20:03|コメント(0)

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