第3話 黒髪の追分

文字数 13,860文字

 妖かし玖遠*九十九奇譚

 作:玖遠@第六文芸

 第三話  黒髪の追分


 家々が両側に立ち並ぶ道を、玖遠と那魅は歩いていた。いつもの通り、玖遠が先を、一歩遅れて那魅が歩いている。那魅はぼんやりあるいていて、玖遠はとぼとぼと歩いていた。
 今、歩いているこの道は、まっすぐなところがなく、行く先が少しも見通せなかった。

 一ヶ月前、ふたりは、神使として仕えていた神社を失ってしまった。仕えていた神、お稲荷様は、もうこの世にはいないし、そのとき、玖遠が人を喰らってしまったせいで、追っ手がついてしまった。
 追っ手のことを考えると、少なからず不安がよぎった。稲荷社に別れをしたあの日、その追っ手は前触れもなく現れたのだ。
 白い紐で髪を束ね、頭の後ろに馬の尻尾を作った、若い女性だった。彼女には、玖遠たちの姿がはっきりと見えていた。神官や巫女がそうだったように、きっと霊的な能力を持っているのだ。そして、危険なお札を放ってきた。妖力を持った茶トラの猫も引き連れていた。
 彼女を前にして、玖遠の血は火を注がれた油のようにたぎった。もちろん、那魅を守るためだ。そして妖狐の姿になった。燃え上がる九本の尻尾、口から滴る炎、玖遠はもう以前の玖遠ではなかったし、消えかけていたときのような弱々しさも皆無だった。けれど、その女とトラ猫にはまるで歯が立たなかった。
 玖遠は歯噛みした。
 自分は所詮、悪党をひとり、喰らっただけの、その程度の力しかない者だったのか、と。それを思うたび、ため息が出そうだった。
 とぼとぼと、玖遠は足元を見ながら歩き、気づくと背筋を丸めていた。その背中に、ぼんやりと那魅の声がかかった。
「玖遠……」
 相変わらず抑揚のない、魂の抜けた声だった。自我を失う前とは正反対の声の調子に、玖遠は、今度こそため息をしそうだった。けれど、それはだめだ。ため息をつく資格はない。玖遠は飲み込んで振り返った。
「……分かれ道」
「え?」
 那魅は、道の先を指さした。はっとして前に向き直ると、ゆったりとくねった街路の先に、Yの字に分かれるところが見えていた。右と左、それぞれ分かれた先がどこに向かっているのか、それはまた、道がくねっていて見通せない。ただ、その道の分かれるところ、二又になったところには、人の腰の高さほどの、黒々とした大きな石が、しめ縄をされて鎮座していた。そして、その石の上に、二歳か三歳か、童が、藍染の着物を着てちょこんと座っていた。
「………」
「………」
 つぶらな瞳が、黙ったまま玖遠を見て、那魅を見た。那魅も、淡々とその視線に応えた。流れる沈黙が聞こえるようで、玖遠は戸惑った。すると、岩の向こうで誰かが、むくりと背中を見せて起き上がった。
 童とおなじ藍染の着物着た女だった。長い髪を頭の後ろで結び、どうやら岩陰にもたれて足を伸ばしていたらしい。
 彼女は、束ねた髪をしなやかに揺らして振り返ると、切れ長の目で那魅を見て、小首をかしげてから玖遠を見た。どこか人を食った視線。そして、童にきいた。
「迷い人?」
 童が振り返る。童の髪も、女と同じように頭の後ろで束ねられていた。そしてそれは年端の割に、いや、その見た目の年齢にはそぐわないほど長かった。腰よりも長く、石に垂れかかり、立てば足元まで届くほどだ。
「………」
 髪の黒々とした様子、ツヤもコシも同じだった。親子だろうか。それにしても、なぜ、道ばたにいるのだろう。
 玖遠は不思議に思いながらも、女の目を警戒してその場を動かなかった。
 ところが那魅は、玖遠の脇を抜けてスタスタとふたりに向かっていってしまった。
「な、那魅!」
 呼び止めても足を止めない。
 玖遠は仕方なく追いかけた。
 追いついたとき、那魅は岩の上の童のことを淡々と見下ろしていた。童も、そんな那魅のことを淡々と見上げた。
「………」
「………」
 沈黙で交わされる視線。
 那魅は、唇を動かした。
「かわいい」
「………」
 決して感情のある声ではなかった。けれど童は、わずかに目を見開く。玖遠も息をのんだ。那魅がちょっとした感情を見せるとき、玖遠はいつも、壊れた自我のかけらを感じ取ろうとした。
 息の詰まるような沈黙。
 玖遠は、じっと言葉を待った。
 けれど那魅は、それ以上の言葉を口にすることはなく、沈黙を破ったのは、岩の向こうの女だった。
「ごめんね、この子、しゃべれないのよ」
 カラッと言った女は立ち上がると、童の頭を撫で、那魅に微笑みを送ってから、にこやかに玖遠を見た。
「道に迷ってるみたいね、血なまぐさい少年」
 玖遠は、女の目をにらみ返した。
 女は、ちょっとばかり肩をそびやかしてやり過ごすと言った。
「機嫌を損ねたのなら、ごめんなさいね。ただ、今時の狐が、人間の血のにおいをぷんぷんさせてるなんて…って思って。それに、あたし、そういう匂い、嫌いじゃないし」
「嫌いじゃない……だって?」
 玖遠は燃え上がった自分の姿を思いながら、低い声で聞き返した。すると女は、わざとらしく視線をそらせて言った。
「まあね」
「………」
 謎めいたことを言われて、ますます何者だろうと思いながら、玖遠は睨み上げた。
 すると、答えるように女は言った。
「あたしはオグロ。この子はコアオ」
「オグロ?」
「オグロっていうのは【黒馬】のこと。あたしら、馬の憑き物だから」
「馬の?」
「馬よ」
 オグロと名乗った女は、玖遠のことをどこかしら冷ややかに見た。目の前の相手の正体すら見抜けない玖遠を笑ったのかもしれなかった。
 玖遠は察して口を尖らせた。それを見て、オグロと名乗った女性は呆れたように鼻を鳴らし、それからじれったそうに言った。
「ところで、あなたの名前は? 狐の妖怪さん」
「妖怪のつもりはないです。僕は稲荷の神使でした」
「あら、そう。ずいぶん立派なことで。…で? お・な・ま・え・は?」
「………」
 オグロは礼儀を求めるようにきいた。少しばかり相手のことを喰った言い方だったが、嫌味には聞こえなかった。玖遠は反感を抱えながらも答えるしかなかった。
「僕は、玖遠。それと、妹の那魅です」
 那魅は何かを語り合うように童と視線を交わしている。無言で、挨拶をするどころか、こちらを振り向きもしない。玖遠は、そのことを恥じるような気持ちになりながらも、一方では、那魅の自我を壊されてしまったことは、この女には語るまいと思って黙っていた。
「どうやら旅には慣れてないようだね。落ち武者かい?」
「落ち武者?」
「生血の匂い。人肉が燃えた匂いもする。戦の末に城を失った落人なんだろう?」
「え?」
「ま、それは冗談さ。でも、まるで心を読んだみたいなことを言うと思っただろう?」
 玖遠はびっくりしながら頷く。オグロは自慢げな顔をした。
「長生きしてると、相手の気持ちが、少なからずわかるようになるのさ。ついでに、こんなのはどうだい?」
 そう言って彼女は体をそらし、束ねた黒髪をゆらぁと揺らして見せた。一方、着物の胸では、白く透けるような乳房がこぼれそうになった。玖遠はドキリとさせられながらも、同時に、その髪と胸元に、彼女の生きた姿、そのものを見た気がした。
「なんだい、血なまぐさいだけじゃなくて、なかなかフトコロ深い顔も持ってるじゃないさ」
「え?」
「あんた今、あたしのことに興味持ったね?」
 そう言ってオグロは眼を細めた。口元には笑みがある。玖遠は挑発するような気配に顎を引いた。
「別に、興味を持ったわけじゃ……」
「ふーん」
 オグロは着物の下の胸を寄せてみせる。玖遠は眉をしかめた。
「なんなんですか?」
「……おやおや」
 オグロは期待外れの顔をしてにやけ顔になるをと、横目になって玖遠を見た。
「子どもを誑かすのは趣味じゃないから、別にいいんだけどね」
「子どもじゃないですよ。もうだいぶ生きてます」
「あたしは千年だけどね」
「………」
 玖遠は黙らされた。
 オグロは口上を宣うように言った。
「さあ、ここは追分。道は二つの分かれ道。右へ行こうか左へ行こうか。
 けど、あんたには道を選ぶための目的もない。違うかい?」
「………」
 図星をされて玖遠は答えられない。
 いや、道のことなどより、那魅のことのほうが、よっぽど迷いがあるのだが……。そう思っていると、オグロが言った。
「進む道がわからないなら、あたしの話を聞いていきな」
「え?」
「決められないものも決まるかもしれないよ。少なくとも今、目の前の、分かれ道は決められるはずさ」
 そう言って玖遠を見るオグロの目には、なにか、やさしさが感じられた。彼女が自分を馬だと言ったように、細めたまぶたの向こうには、玖遠の不快感を黙らせる、この世に共通する何かが隠されていた。それはなんだろう? 今から語られる話に、答えがあるのだろうか? 玖遠は黙って耳を傾けた。

 オグロは、千年の昔、戦国時代を生きた馬だった。
「だめだ、もう、この城はもたない……」
 田や畑を見渡す小高い山に、山城が構えられていた。そして今、二千の軍兵に囲まれていた。城と言っても、土塁の上に木の杭で壁を巡らし、城主の住処と兵を収容する広場あるだけのものだ。兵は三百、刀を持つ家臣は一割にも満たず、ほとんどが近隣の農民に槍を持たせただけの者達だった。
 今、城がもたないと言ったのは城主だ。家臣の居並ぶ陣から奥の座敷に戻ったところだった。彼は、口ひげを蓄えてはいたが、まだ若い。そして、その深刻な顔を見上げるのは、乳飲み子を抱えた奥の方、彼の妻だった。
「日暮れの刻、城を開き、民を里へ帰す。それが我の、最期の務めになろう」
「そんな……」
 民の犠牲を嫌い、開城するということだ。けれど……と、妻の顔がこわばる。彼女はおもわず、赤いくるみの乳飲み子を強く抱いてしまい、その子は泣き出してしまった。その泣き声は、さして広くもない山城に、悲しみとともに聞こえ、彼女は守るように抱きながら、無言で夫の眼を見上げていた。
 そして。
 夕陽が山に射す時刻、城門が開かれ、武器を放棄した兵がゾロゾロと外へ出てきた。いや、彼らは最早、兵ではなく、この地の田畑を耕す民に戻っていた。農民は、敵にとっても大切な存在だ。投降した者の多くは、無事に家路につくことだろう。
 しかし、この地を治めていた者は血筋を断たれる。それがこの世の常と言わんばかり、非情なしきたりだ。だから、もしかしたら、兵が全員、城を後にしたとき、館には、自害した者の骸がいくつも横たわっているかもしれなかった。
 兵の中には、悲壮な面持ちで振り返る者もいる。……と、その視線の先で、激しく馬の嘶きが上がった。同時にダッと激しく土を蹴る蹄の音!
 アッと振り返る者達の頭上を飛び越える勢いで、大きな黒い影が飛び出してきた。誰もが知る城主の愛馬、オグロだった。

「あたしは、槍に突かれても矢が刺さっても走り続けたよ。背中に奥方様と、大将の愛娘を乗せて、ね」
 オグロは、玖遠を石のそばに座らせて、自分もそのそばに脚を伸ばし、のんびりと空を見上げて語った。
「城山を駆け下って、敵の陣地とは逆の方向に走った。追っ手はついたけど、あたしの脚に追いつける奴なんていない。日が暮れて、月が昇っても、あたしは夜の風になって走ったよ。そして血が全部、傷から流れ出るまで走って、ここで倒れたのさ」
 空を見上げるオグロは、胸を張り、大義を果たしたような誇らしい顔をしていた。しかし玖遠には、それが気に入らなかった。
「人間のために命まで落として、あなたは自分が憐れだとは思いませんか?」
「憐れ?」
「あなたが自分の脚を誇れるほどの名馬だったなら、城に残っていれば殺さることはなかった。それを逃亡の足にされて、攻撃されて、傷を負って、命を落とした。それって、人間の都合で殺されたってことですよ?」
 少し見開かれたオグロの目と、玖遠の不愉快そのものの目が向き合った。
 そのとき。
 カシャッ!
 シャッターを切る音がして、振り返ると、那魅がスマホを高くかざして、石の上の幼子と一緒に自撮りをしていた。幼子は目を丸くして、那魅は淡々と笑みもなく……。
 その様子を見てか、オグロが言った。
「あたしの背には、乳飲み子を抱いた奥方様がいた。彼女は背に矢を受けながら、最後の最後まで我が子を抱きしめていた。ここであたしが倒れてしまっても…ね。
 彼女はね、地面に転がっても、びっくりして泣きじゃくる乳飲み子を離さなかったよ。最後の顔は、満足そうだった。刺さった矢はずっと痛かっただろうに、立派な人だった。あたしはね、そんな彼女を乗せて走ったことを、今でも誇りに思ってる。命をかけた意味があったと思ってるのさ。だからね、旅をはじめたばかりみたいな坊やに、とやかく言われたくないのが本音だよ」
「………」
 そう言いながらも、石の上の幼子を見るオグロの瞳には、なぜか憐れみがあった。口では玖遠の言動に不快感を表しながら、一方では玖遠の言葉に頷くところがあるのかもしれなかった。ならばなおさらと、玖遠は言った。
「だけど、あなたは死んだ。そういうことですよね? つまり、結局、あなたは人間に利用されただけだ」
 オグロの横顔は微塵も変わらなかった。
 玖遠を、横目でも見ようとしない。
 ただ、那魅と一緒になってスマホの画面をのぞき込む幼子を、見守っていた。そのうち、小さくため息をつくと、玖遠の目を見てニコリと笑った。
「あんたは人間を恨んでいるようだね。でも、ここは追分。右の道も左の道も人間の世界。だから、結局、あんたの好きな方へ行くといいさ」


 なんの手助けになどならない話だった。
 玖遠はオグロに横顔をむけると腰を上げ、左の道と右の道を見やった。
 どちらの道も、両脇を住宅に囲われ、ゆっくりとくねり、先が見落とせないままだった。
「行こう、那魅」
 それでも玖遠は道を決め、座り込んだ那魅に手を差しのべた。
 那魅は、兄の手を何の疑いもなく握り、立ち上がると、チラリと幼子に目を振ってから歩き出した。幼子はニッコリとしていたが、那魅はさよならでもない、またね、でもない、淡々とした目をしていた。それを見て、玖遠はオグロの視線を気にし、頑なになり、ただまっすぐに目を向けて、オグロの視線を無視して歩き出した。

 それから一刻ほど。
 日が沈み、夜のとばりが降りはじめたところに、パアアアン!と甲高いエンジンの音を響かせて、一台の暴走車が駆けつけた。獣の目のようにライトを光らせて追分の石に迫り、キキィッ!と横付けになったのは、ジープタイプの四輪駆動車、年代物の初代ジムニーだった。
「こんばんは! 私は刹羅、猫神の神職よ!」
 ドアのない運転席から身を乗り出したのは、Tシャツにカーゴパンツの少女だ。ダッシュボードに前足をついて、トラ猫の姿もある。
 ポニーテールにした長い髪が印象的に揺れていた。そして、勝ち気で好奇心旺盛な瞳が、追分の石に座る幼子と、顔を上げたオグロに向いた。
「こんばんは…ね」
 オグロはどことなく機嫌悪く言うと、悠然と立ち上がり、顎を横にしゃくって束ねた髪を揺らした。黒々としなやかな、そしてつややかな髪は、刹羅のポニーテールとは比較にならないほど美しく、そして妖艶だった。それを刹羅は挑発と受け取って、口の端をピクリとさせた。
「石の憑き物さん、お聞きしたいのだけど」
 そう言って自分もポニーテールを揺らす。刹羅の髪は、長さが不揃いで、所々跳ねていて、あまり手入れがなっていない。それを見て今度は、石の上の童、コアオが黒々としたポニーテールを揺らして返した。それが、子どもっぽくも様になっていて、刹羅はポカンとなり、カチンときて、同時にプライドを傷つけられていた。
 オグロが口を開いた。
「このあたしを憑き物呼ばわりして、一体全体何のご用?」
 冷ややかな声だ。刹羅は我に返った。
「さっき、ここに、この子が来たでしょ?」
 そう言って刹羅は、助手席に放り出していたスマホを手にすると画面を見せた。そこにはSNSの画像が開いていて、白狐のお面を頭にのせた少女が、石の上の童と一緒に写っていた。
 オグロは、画面と石の上の童を見比べ、それから刹羅を見ると答えた。
「来たよ」
「どっちへ行った?」
「左」
 刹羅は前を向いたまま、視線を寸分も動かさずに言った。
 刹羅は、当然のように左手の道を見た。自分から見て左手だ。ダッシュボードの黒猫もそちらを見た。車のライトも、心なしか、そちらを向いた。
「………」
 刹羅は暗がりを見つめた後、オグロに目を戻すと、ニコリとして言った。
「う・そ・つ・き」
「は?」
「ふたりが行ったのは反対の道、右の道でしょ?」
 人を食ったような目をしてオグロを見る。
 そしてギアを放り込み、急ハンドルを切ってターンした。若さを見せつけるようにポニーテールを振り回し、パアアアン!と甲高いエキゾーストを上げて右手の道に飛び込んでいく。
 辺りには、不躾にも、盛大に排気ガスがまき散らされた。
 オグロは眉間のシワを右手の人差し指でなだめつつ言った。
「最近の若い子は礼儀がなってないね。……ん?」
 不意に、着物の袖を引かれた。
 視線を落とすと、石の上のコアオが、誰かを心配する目をしてオグロのことを見ていた。
「まあ、袖ふれ合うも他生の縁っていうし」
 オグロは、後ろ腰に手をやって体を伸ばすと、俄に対抗心を燃やして、暗がりに遠ざかるテールランプを睨んだ。

 宵闇迫る中、疾駆する車内で……。
「何か言いたそうな目ね」
 アクセルを踏み込んだ刹羅は、助手席に鎮座したトラ猫をチラッと見た。猫の名は琥珀、刹羅が育った猫神神社に古くからいる神使だった。彼は、苦々しく言った。
「俺らから見たら、おまえはまだ赤ん坊みたいなもんだ。偉そうな態度をとるのは百年早い」
「百年? そうなのね。だったらなおさらハッタリもきかさないと。人間だもん、死んじゃうわ」
「だからって粋がってばかりでは敵を増やすばかりだぞ。そして、いつか痛い目に……」
「追いついた!」
 言葉を半分聞き流したところで、刹羅はライトの照らす道の先に黒と白の人影を見つけた。ギアを落としてアクセルを踏み込み、二つの影を追い抜くと、バアアッ!と四輪スライドして急停止、行く手を塞いだ。

「今度は逃がさないわよ!」
 挑発的な笑みをして刹羅は言う。その足下から茶トラの琥珀が道へ飛び出した。
 玖遠は戦慄し、背中で那魅を守る。脳裏に、手から放たれる無数の札と、恐ろしい瞳を持つ猫妖怪の姿がフラッシュバックした。一方、那魅はぼんやりとした顔をして、飛び出してきた刹羅を見た。
「人に害為す者どもを、私は決して許さない!」
 叫ぶ刹羅の手が腰のポケットに伸びる。玖遠はとっさに身構えた。
 そのときだった。
 ビュオオウ!
 突然、一陣の風が両者の間を吹き抜けたかと思うと、直後、黒い影が立ち現れて刹羅の視界を遮った。
「あたしは左だと言ったよね。年上の言うことは聞くモンさ。でないといつか、痛い目に遭うよ」
 黒々とした毛並みの馬が、前足で腹立たしげに地面を蹴りながら刹羅のことを睨んでいた。りりしい顔立ちと瞼半分に目を据えた様子と、その声から、追分にいた女、オグロだと知れた。彼女は今、馬である正体を現して、刹羅の後を追ってきたのだ。
 しかし刹羅は動じなかった。
「そんな大きな図体じゃ、私のお札のいい的だわ。邪魔をするなら排除するけど、それでもいい?」
「刹羅」横から琥珀が口を挟んだ。「無闇に敵を作るもんじゃない」
「私は私のやりたいようにやる。花の命は短いんだから」
 その言葉をオグロが鼻で笑う。
「花…ね」
 刹羅はムッとして、それから目を据えるとオグロに通告した。
「その妖怪は人間を喰らった。放っておいたら次の犠牲者が出る。その前に封じさせてもらう。邪魔立てするなら、あなたに手綱を回して石にでもくくりつける。それでもいい?」
「おやまあ、威勢のいいことで」
 オグロは鼻で笑うと、何を思ったか長い首で振り向き、玖遠の後ろで突っ立っていた那魅を見た。そして首を伸ばし、パーカーの首根っこを咥えると、慌てる玖遠を尻目に那魅を振り上げ、そのまま自分の背にストンと座らせてしまった。オグロはそのとき、玖遠にアイコンタクトして、それから刹羅に妖艶な気の視線を送った。
「こっちの白い子は妖怪じゃない。気に入ったからもらっていくわ」
 その視線と重なって、人の姿のオグロが見えた。しなやかな黒髪に豊かな胸元……。刹羅はまた挑発された気がして再び眉をそびやかした。それをオグロは、またしても鼻で笑った。
「じゃあね、お嬢ちゃん!」
 オグロは言い、高らかにいななくと、玖遠にアイコンタクトした。
 そして。
 カカッ!
「あっ!」
 蹄がアスファルトを蹴ったと同時に、玖遠は身をはじかせてオグロの背に飛び乗った。
「玖遠、掴まってな!」
 オグロが叫び、玖遠は那魅のことを両腕で胸に囲みつつ、その手でオグロのたてがみを握った。
 オグロは数歩の助走でジムニーのボンネットを飛び越えた! 沸き起こった風が砂埃を舞い上げ、刹羅は腕で目を守るしかなかった。そして風が収まったとき、すでに蹄の音はリズミカルに遠ざかっていくところだった。
「くそったれ! 待て!」
「刹羅! 汚い言葉を使うんじゃない!」
 黒い影を振り向いて刹羅は罵る。それを琥珀が親のように叱る。刹羅はそれを無視して運転席に乗り込むと、琥珀が飛び乗ってくるなりわめいた!
「追うわよ、ジイ!」
 ジイというのはジムニーのことだ。刹羅は子供の頃から、その車の付喪神を、親しみを込めてそう呼んでいた。
 けれど運転は乱暴だ。ハンドルを右手でグッと握り、シフトをガッと放り込み、アクセルを吹かすと同時にクラッチを繋いだ。後輪がキキィィと泣き、車体が回る。そして刹羅は、狙いを定めるように、遠ざかる黒い影にハイビームを当てた!
「飛ばしてッ!」
 その言葉に、バアア!とエンジンが吹け上がり、ジムニーは白煙をまき散らして加速した。

「追ってきた!」
 カカッ、カカッ!と蹄が鳴る。
 だが、全力疾走とは思えない。
 追っ手のヘッドランプがぐんぐん近づいてくる。
「もっと速く!」
 玖遠は腕の中の那魅を気にかけながらオグロの耳に向かって叫ぶ。
 しかしオグロは、チラッとも振り向かない。
 そして加速もしない。
 アッと思ったときにはエンジン音が横に並んでいた。
「ジイはまだまだ現役よ!」
 刹羅が片手ハンドルで勝ち誇っている。
 オグロはチラッと目を向けると、白い歯を見せて笑った。
「あたしだって現役だったら、そんな鉄の馬車に追いつかれるけわけは、絶対になかったけどね」
 早々と負けを認めるようなことを言う。玖遠が腹立たしく「オグロ!」と叱る。だが、オグロの目は状況を楽しんでいるように笑っている。そして誰も、その笑みがちょっとした罠であることに、気づけていなかった。
「よーし、前に回り込むよ!」
 刹羅はアクセルを踏み込み、たなびくポニーテールを見せつけるようにしてオグロを追い抜きに掛かった。
 それを横目で見送るオグロの目が、ほんの一瞬、琥珀の視線と絡まり合った。その瞬間、琥珀は相手の謀を見て取った。
「刹羅! 気をつけろ!」
 怒鳴る!……が、一歩、遅かった!
 カカッカッ!
 突然、ジムニーの背後に軽いステップの蹄の音が接近し、それが地面を蹴ったかと思うと、直後!
 ガゴンッ!
 荷台に何がが跳び乗った! 後ろが極端に重くなってボンネットが跳ね上がる!
「な、なに?」
 刹羅が慌てて振り返ると、
「う、馬?」
 一体どこから現れたのか、黒毛の子馬が荷台に跳び乗り、前足でロールバーに上体を預けてきた。
 つぶらな黒い瞳が間近から刹羅の目を見つめる。そして、しげしげと言った。
「コ・ア・オ」
「こ…あお?」
 そう、その子馬は、追分の石に座るコアオだった。だが、刹羅はその名を知らない。焦りの中で首をかしげる刹羅の横から、オグロがコアオに明るく声をかけた。
「えらいわ、コアオ。挨拶をするときは、こちらから先に名前を言わないと…ね!」
 刹羅は、オグロのいたずらな声を振り向く。
 オグロは、冷ややかな流し目をして返した。
「その鉄の馬車がどれだけものか、このあたしに見せてごらん!」
 そう言ってカカカッ!と蹄の音を高くした。
 そしてあっという間に抜き返し、しなやかな黒い尻尾を見せつけるようにしてジムニーの前に躍り出た。
「くそっ!」
「刹羅ッ!」
 刹羅は琥珀に叱られながらアクセルを踏み込む。後付けのタコメーターが跳ね上がり、エンジンが甲高く唸りを上げた!……が!
 パカン!
「ワッ!」
 突然、刹羅の脳天に固いものが落ちてきた!
 パカン!
 パカンパカン!
「いっ、痛っ! やめろ、馬鹿ッ!」
 荷台の子馬が、前足の蹄で刹羅の頭を叩いていた。それもなかなか強烈に!
 パカン!パカン!パカン!パカン!
「いたっ! 馬鹿っ! 頭! 割れるッ!」
「せ、刹羅! 前見ろッ!」
 言われて片目で前を見ると、前方すぐ先に赤信号と、車のライトがひっきりなしに横切るバイパスが見えた!
「ヤバ!」
 慌ててブレーキをかける!
 同時に、目の前でオグロの尻尾が天に遊ぶように跳ね、前につんのめるジムニーを尻目に、バイパスを走るヘッドライトの列を軽々と跳びこえていった。

 ギギィィイ!
 タイヤが白煙を吹き、車体が横滑りしてギリギリのところで止まった。
 ハンドルを握りしめてなんとか転覆をこらえた刹羅は、フウ…と息をついて目を上げた。
 四車線のバイパス、その向こうの暗がりに、悠々と着地するオグロが見えた。彼女は悠然と刹羅の方をふり返り、一つ嘶いて見せた。その背中には、白い影と、それを支える黒い影がある。
「………」
 この交通量だと、信号が変わるまでは車を前に出せそうにない。それまで、あの馬は待っていないだろう。たとえ待っていたとしても、おそらくは追いつけない。
 刹羅はハンドルから手を放すと、困ったように眉間を掻いた。
 ……と。
 パカンッ!
「痛っ!」
 荷台の子馬が、ダメ押しするように蹄を刹羅の頭に落とした。そして、刹羅が恨めしそうに振り向くと、まるで羽が生えたようにフンワリとその場に浮いてみせ、ジムニーの前に軽い足取りで降りた。そして、悪気のかけらもない目で一同を振り返ると、ぴょこんと頭を下げ、それからスキップをするような軽い足取りで、車がひっきりなしに行き交うバイパスを渡っていった。
 その間、不思議なことに、進む仔馬の邪魔をする車は、一台としてなかった。そして、誰の目にも見えていないのだろう、クラクションを鳴らす車も、ブレーキを踏む車も、一台としてなかった。まるでコアオは、見えない何かに、深く守られているかのようだった。
 オグロは、バイパスの向こうでコアオを迎えると、まるで「いい子」をするように頬を擦り付け、それからもう、刹羅たちを振り返ることはなく、連れ立って向こうの暗がりへと駆けていった。行き交うエンジン音、排気音、タイヤとアスファルトの音が無機質に渦巻く中、遠ざかっていく二つの蹄の音は、刹羅の耳に、響き合う魂の鼓動に聞こえていた。


 いつしか月が昇った野の道を、オグロは玖遠と那魅を背に乗せて走っていた。夜の風のように色もなく、闇に紛れるように、けれど月影には漆黒の毛並みを輝かせ、走っていた。
 オグロは、さっきから急に押し黙っていた。
 玖遠は、そこはかとなく沈黙に緊張を覚えながら、那魅を両腕の間に守り、口を開けずにいた。
 やがて、オグロは向かい風を感じて眼を細め、そのきっかけで口を開いた。
「玖遠。追われる事情は聞かないよ。だけど、あんたは、もう少し強くならないとね」
 玖遠には、何を言われているのかがわかった。さっき、追っ手が現れたとき、身構えながらも、相手の繰り出す技を鮮烈に思い出していた。戦慄したと言えば格好もつくが、実際は、震え上がっただけだった。けれど、それを素直には認められない。自分は、自我を失った那魅を抱え、精一杯やっているという気持ちがあった。
 黙っていると、オグロがため息をついた。
「あたしも、人のことは、言えないか」
 深いため息だった。
 玖遠は思わず目を上げた。
 オグロは走り行く先の闇を見つめた。
「行く先も見えない、こんな夜に走っていると、思い出すんだよ」
 重たい口調だった。そして、威圧感があった。玖遠は頷くことも出来ず、本能的に息をひそめた。
「玖遠。あんたはさっき、あたしが人間に利用されただけだって言ったよね。人間に利用されて殺されたんだって、言ったよね。
 けどね、そんな想像は、一つとして合っていないよ」
 オグロは強まる向かい風に目をしかめつつ、決然と言った。
「あの日、奥方様と乳飲み子を乗せて、あたしは走ったよ。せめて愛おしいものを救いたいっていう、あの人の思いを汲みとったからさ。
 敵に囲まれて、拒む理由なんてなかった。あたしは女だけど、男気を出して走ったさ。でも、理由はそれだけじゃなかった。わかるかい?」
 黒い瞳が、玖遠を振り返った。
 玖遠は、目を背けた。背けながら、答えられない自分を密かに恥じた。
 オグロは、続けた。
「そのとき、あたしのおなかには、コアオがいたのさ。だからこそ奥方様の気持ちがわかったのさ。愛しい子のためには、矢も槍も、何にも怖くなんてないって、その気持ちがわかったのさ」
 今、オグロの隣には、ぴったりとコアオがついて走っていた。母親の話を理解しているのかいないのか、無邪気に、楽しそうに、小さな蹄の音を響かせていた。それを見て、玖遠は知らず、那魅のことを強く支えていた。それをオグロは、チラリと振り返った。
「あんたの言うとおり、陣に残っていれば、新しい主の元でコアオを生み、育てられたのじゃないかって、今でも思う」
 玖遠は、風のようなオグロの声に、体の震えを覚えた。そして、知りたいと思った。
「そこまでわかっていたのに、どうしてあなたは」
「けどね」オグロは言葉を遮った。「見て見ぬ振りが出来ないときだってあるんだ。もし、その時、そんなことをしたら、あたしは一生、自分を許せなかっただろうよ。
 だけど。
 でも…。
 結局、あたしは自分の子を守れなかった」
 オグロは後悔をにじませた。
 そのとき、何も理解していない様子のコアオが少し追い上げてきて、オグロの横顔をのぞき込んだ。
 オグロは優しい笑みでコアオを見つめた。
 オグロの目は優しい。玖遠はハッとした。
「あなたのその目……僕は見たことがある」
 記憶の彼方に、同じまなざしを見たことがある。確かにある。そう思ったのだ。
 オグロは振り返った。
「それは、あたしじゃなくて、あんたの母親の目じゃないかい?」
 玖遠は、そうだと思って頷いた。
 するとオグロは、玖遠をじっと見た後、前を向いてしまった。
 そして、憧れるように言った。
「あんたの母親は、強いひとだったんだねぇ」
「え?」
「あんたを、産み育てたんだろう?」
 玖遠は目を丸くした。
 オグロは、隣を走るコアオに身体を寄せた。
 コアオはうれしそうに、自分からも身体をすり寄せ、楽しそうにいなないた。
 オグロは淋しく言った。
「無邪気だろう? この子さ、人の言葉はろくにわからないんだ。この世に生まれ出ることがなかったからね。だから、言葉もわからない。今の話も、聞こえてない。あたしのせいさ」
 玖遠は苦い思いをした。そんな風に責めるようなことを言ったつもりはなかった。けれど、口にしてしまった言葉を撤回するための言葉は、すぐには見つからなかった。
 オグロは、遠い日を見やるように言った。
「どの道が正しかったのか…なんて、なかなかわかるものじゃないよ。今のあんたは、そうじゃないのかい?」
 玖遠は苦い思いで那魅を見た。那魅は、うつむいていた。自我をなくして、放浪をするようになった今、那魅は心で、どんな顔をしているのだろう。不甲斐なく背中を支えるだけの兄のことを、どう思っているだろう。
 玖遠は拳を握った。
 もしもあの時、己が身を裂いてでも依り代を捨てていたら……。
 一歩でも早く、男に飛びかかっていれば……。
「僕のせいだ」
 呟いた。
 那魅は黙ったまま、否定しなかった。
 玖遠の吐息は、悔しさに震えた。
 オグロは、耳を塞ぐような気持ちで耳を遠くへ向けると、なぐさめを言った。
「あんたに何があったかなんて聞かないよ。だけど、二度と同じ後悔をしちゃいけないよ。そのために、あんたはもっと強くならなきゃね」
 強くなるっていったって……。
 玖遠は思い詰めて押し黙った。
 オグロは心配顔になった。
 やがて、行く手分かれ道が現れた。オグロはそこで足を止めると、二人を下ろした。
 玖遠はまた、行く先に迷った。
 道は二手に分かれ、月影の下にあってもなお行く先は見えなかった。隣で那魅が、淡々と、玖遠の真似をして道の先を見比べたが、その瞳は暗闇を映しただけで、無言だった。横顔には、恐怖も、希望もない。
 玖遠には、そんな那魅の横顔が辛かった。そして、途方に暮れて面を下ろした。
 オグロは、やっぱり放っておけないとばかり、口を開いた。
「玖遠。なんの助けにもならないと思うけど、あたしの話を聞いていきな」
 玖遠が振り向くと、オグロは反対に前を向き、遠くを見た。そして、静かに語った。
「あたしはね、利用されたんじゃないよ。頼まれたわけでもない。あの時は、自分から奥方様に背中を差し出した。
 でも、浅はかだったかもしれないね。
 あたしはお腹のコアオを守れなかった。いいや、道連れにしちまった。さっきは、男気だなんて言ったけど、あたしは粋がっていたんだと思う。でも、あの時は、あたしも母親になるんだって思ったら、見て見ぬ振りは出来なかった。
 でもさ、ほら。
 あたしの子、コアオ、かわいいだろう? それだから余計に、あたしは辛かった。どの道が正しかったかなんて、わかりゃしなかった。だから、あの日から、ずっと苦しんだ。
 でもね。
 それから何年も何年も、何年もたった、ある日のことだよ。
 生まれたばかりの子を抱いた、とある村娘が、家の者たちとやってきて、あの追分に、おおきな石を置いてくれた。
 その石は、コアオのお気に入りになった。そのおかげで、あたしは胸を張れるようになった。あの日、あたしは間違ってなかった。思いのままに走ったんだって…ね」


第三話 了
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