第8話 狐の血祭り

文字数 7,457文字

 妖かし玖遠*九十九奇譚

 作:玖遠@第六文芸

 第八話 狐の血祭り


 ビルばかりが建ち並ぶ都会の中にも、丘もあれば崖もある。夜の景色を見渡すところ、元は畑だった敷地の奥、一本の不思議な桜が、今年も大きく咲き誇っていた。
 桜の背後には、きらびやかな街明かり、そして切り立ってコンクリートで固められた崖の真下には、暗がりに光の筋を引いて列車が走っていた。
 この桜は、昼間であれば、線路の向こうの街から、誰でも眺めることができる。けれど、夜には、ライトアップされることもなく、その姿はぼんやりとしか見ることができない。
 けれど、今夜は違う。
 彼が、来ているからだ。

「玉髄様……」
 今、桜の木の根元に、跪く女がいた。薄い着物を着て額を地面につけ、履き物はなく裸足で、黒く伸ばした髪を地面に垂らし、華奢な背中を丸めている。そして、後ろ頭から目の辺りに包帯を回していた。
「今年も……なんとか、咲くことが、できました……。ですが、もう、次の年は……」
 消え入るような声で言う女の前には、黒い狩衣を着た少年が立っていた。黒々とした九尾を揺らす狐の怪かし、玉髄だった。
 彼は、濡れた、黒い瞳で、口元に冷ややかな笑みを浮かべ、女の背中を見下ろしていた。やがて、その目が細くなり、ずる賢い光を帯びた。
「知ってるよ。きみはもう、長く生きすぎてるね。そして、どんなに美しく咲いても、まだ恋人は来ない」
「……はい」
「彼は今、どこをどう彷徨っているだろうね。キミが、添い遂げられなかった、その彼は……」
「………わかりません」
 女の背が小さくなる。
 玉髄が言った。
「彼はまだ、川を渡ってはいないよ。此の世を彷徨いながら、きみを探してる」
「……ほんとですか?」
 女の言葉に、期待と諦め、そしてわずかな疑いの気配が滲んだ。
「ボクは、長いこと、水を味方にしてきた。そのボクが、そうだと言っているのに、一介の怪かしでしかないキミが、そんなことを言うのかい?」
「そういうわけでは……。ただ……」
「ただ? なんだい?」
「……ただ、その言葉をもう、何百遍も聞いています……」
「ああ、そうさ。何百編も言ったよ。だけど、彼が此の世を彷徨っている限り、ボクには、そう言うしかできないのさ。わかるだろう?」
 女が、髪を揺らして頷く。
 玉髄は、口の端を歪ませて言った。
「それで? どうする? もう、やめにする? 今、やめれば、来年の春、花を咲かす力は得られない。この桜は今年、花が散ると同時に裂けて折れるだろうね。とっくの昔に枯れてるんだ、当然だよね。
 でも、そうなったら、キミの居場所はなくなる。風に消えておしまいさ」
 女の動きが止まった。
 玉髄は、ニヤリとした。
「どうだい? やめてしまうかい?
 ボクは、それでも、構わないけどね」
 そう言って、足元を躙った。
 土が、かすかに音を立てた。
「待って! 待ってください!」
 女が慌てた。
「あと一年……、お力を……!」
「……だよねぇ……」
 玉髄は、その場にしゃがむと、額づいた女の横顔を覗き込んだ。
「何百年も待ったのに、今年で終わりになんて、できないよねぇ。それが、普通だよ」
 そう言うと、玉髄は女の着物の後ろ襟を掴んだ。そして引き起こして立ち上がった。
「みすぼらしい姿だ」
 薄汚れた着物、腰紐、まるで下手人のような出で立ちだ。顔も、包帯で目隠しをされて容貌は知れなかった。
 女は恥じるように顔を背けた。
 玉髄が、責めるように言った。
「今年、キミが咲き誇っていたせいで、またひとり、ここを目指している人がいる。キミと同じ、人間の女だよ。キミが埋められたときと、同じ年頃かなぁ」
「………」
「今夜は、その子を餌食にするんだ。そうしたら、力を分け与えるよ。
 なあに、気に病む必要なんてない。キミの姿に魅了されたんだ、此の世に未練なんてない人さ」
 玉髄は、言いながら女を桜の幹に押しつけると、流し目をして、舌なめずりをして、それから右手をサッと振った。
 シャッ……ピシッ!と、空を切る音と、何かが凍りつく音がして、女の口元が、何かを予感して切り結ばれた。
 直後、ドンッ!と衝撃が胸を襲い、女は、口を大きく開いて、声にならない悲鳴を夜の闇に放っていた。

   *

 那魅は、玖遠の後について坂道を登ってきて、建物と建物の間の敷地の奥に、ほのかな明かりを見つけて足を止めた。
 一歩先を行っていた玖遠は、三歩先まで行って立ち止まり、振り返った。
「この辺りは人目が多い。ねぐらにはならないよ」
 先を促す。
 けれど那魅は、路地の奥を見たまま、振り向かない。玖遠は那魅の横顔に、気づいた。
 瞳に、光の揺らめきがあった。
 白い頬も、ほのかに染まっていた。
 道を戻って、那魅の視線を追うと、マンションの敷地の奥に、薄桃色の花をつけた大木が、淡い光を、陽炎のように立ち上らせているのが見えた。
「夜桜………」
 けれど、その夜桜が普通じゃないことは一目でわかった。あれは、電灯などで照らされているのではなく、無数の桜の花、その一輪一輪が、ほのかな桜色に燃え上がっているのだ。そして、立ち上っているのは、人の心を魅了する美しさだった。
 ほんの一瞬、玖遠は見とれてしまった。
 それは、那魅も同じだった。いや、玖遠以上に、その瞳は桜の色を映していた。そして、フラリと引き寄せられるように、マンションとマンションの間の路地へ入っていった。
「……那魅!」
 玖遠は追う。
 人ひとりが、やっと通れる路地で、那魅はもう、引き返すことが出来ない一本道を行くように歩く。その歩みは、いつもと同じだが、その背中は、目の前のことに囚われて誰のことも見ていない。玖遠は、危機感を覚えて那魅の肩を掴んだ。
 ところが。
 その手が、空を掻いた。
 那魅の肩は、まるで幽霊にでもなったかのように、掴むことが出来なかった。
 玖遠は、思いのすべてに拒まれたかのような感覚になってしまった。足が止まり、立ち尽くし、その間に、那魅の後ろ姿は小さくなり、桜の木の前まで行ってしまった。すると、ほのかな光に包まれた那魅の姿は、風に煽られ、白鷺色のパーカーをふわりとはためかせた。それはまるで、空中に舞うようで、そのまま天へと召されていくようで……
「那魅!」
 玖遠は我に返って走った!
 そして手首に手を伸ばし、今度こそ那魅を掴まえた!
「那魅……!」
 呼ぶ声には隠しきらない焦りがあった。那魅はわずかに顎を引いてから、いつものように淡々と、感情のない目で玖遠を振り向いた。そして目を剥いた玖遠のことを、ジッと見た。
「く……おん」
 茫然と、唇が動いた。問いかけの言葉なのか、それとも驚きの言葉なのか、わからない。玖遠は危機感を口にした。
「……逝ってしまうかと……」
 絶対にあってはならないこと。
 絶対に拒まなければならないこと。
 なのに、那魅の表情は変わらなかった。
 その時。
 そばでクスクスと笑う声が起こった。
 振り向くと、晴れやかな着物に、帯を花魁結びにした女が、立派な桜の木の幹に背をもたれてふたりのことを見ていた。その黒い瞳には、己を誇らしく思う自信に溢れていた。
「美しいものを美しいと思うことが、そんなに心配かい?」
 唇に赤い紅を引き、おしろいをして、目を細めた彼女は、玖遠のことを明らかに笑っていた。
 その瞳に、玖遠はグッとなった。笑う瞳の奥、闇夜に似た黒の中に、舞い散る桜の花びらが見えた気がしたからだ。
 桜吹雪を宿した、魅惑の瞳だった。
 けれどそれは、まだ、玖遠にとっては、警戒心を喚起するものでしかなかった。
 玖遠は、目を尖らせると、那魅に向いた花魁の視線を遮って立った。那魅が、その桜吹雪に魅了されたと思ったからだ。
 花魁が斜眼になって言った。
「おお、こわい」
 小馬鹿にする言葉だ。玖遠は口を切り結んだ。
 すると、花魁は言った。
「九尾だね」
「そうですが、なにか?」
 見抜かれて、玖遠は顎を引いた。それを花魁は笑った。
「強がるのはやめな。九尾ったって、あんたはまだ赤ん坊みたいなものだよ、あの人に比べたらね」
「あの人?」
「あ・の・人さぁ」
 玖遠は、それが誰かわからず、眉をしかめる。けれど訊ね返すのはやめた。花魁が、チラリと舌を出して玖遠を品定めしたからだ。それが、空恐ろしく、玖遠は言った。
「那魅……行こう」
 そう言って、路地を戻っていこうとした。
「おや? 逃げるのかい?」
「逃げる? 違いますよ。用事が無いだけだと言ってるんです」
「用事がないのはあんただけだろう? 連れは、違うようだよ」
 その言葉が終わるか終わらないか、玖遠の脇を抜けて、那魅が花魁と向き合った。その横顔に、おかしな気配はなかった。花魁を映す瞳にも、操られているような様子はなかった。だから玖遠は、その手を掴み損ねた。
 花魁の前に立った那魅は、淡々とした横顔をしていたが、その瞳は意思を持ったかのようにまっすぐに花魁の瞳を見つめていた。那魅は自我を取り戻したのではないか? 玖遠はハッとして、そのせいで那魅を押さえることにためらった。
 花魁は、顔を左右に動かして、那魅の顔を舐めるように見た。
「かわいいねぇ……。世の汚れにも染まっていない……。あんたのような子には、世の男どもを誑かす素質があるんだよ」
 花魁は自然な仕草で、那魅自身にも気づかせないようななめらかな動きで手を動かし、そっと那魅の頬を撫でた。
 那魅は、その手に、わずかに視線をやると、玖遠を見た。そして、動きを封じようとするようにジッと見てから、改めて花魁に向き合うと、言った。
「血……が、ほしい…の?」
「え?」
 花魁の手が止まる。その目が驚きに見開かれている。
 那魅は、言った。
「りゆう……わからな…い。で…も、わか…る、そ…の…気持ち」
 花魁の目におびえのようなものが走った。
 那魅は、たどたどしく言った。
「わたし…も、血…が、ほし…い」
 その言葉に、花魁は目を丸くした。
 玖遠も、同じだった。
「血……ほし…い」
 言葉は繰り返され、那魅は、救いを求めるように花魁に身を寄せていった。
 玖遠は拳を握った。
「那魅! 妖怪になりたいのかッ!」
 叱った。
 那魅は、顎を引いたけれど、玖遠を振り向かなかった。頑なに目線もくれない。
 玖遠は、わけもわからず、怒りに震えた。
 すると、那魅が目線を下げて言った。
「く……おんと、いっしょ…な、だけ」
「………!」
 玖遠は唇を噛み切った。
 顎に伝う血が、しずくになって地面に落ちた。
 それを見て、花魁は動揺を隠して笑った。
「はは…っ、わざわざ九尾になろうなんて、やめた方がいいね!」
 その言葉に、那魅が少しだけ目を上げた。
「それに、あんたみたいな生娘にやる血なんて、ここにはないよ!」
 那魅がもう少し目を上げる。玖遠が恐い顔をしているのがわかっているのだろう、振り向こうとはしない。
 花魁は、チラリと玖遠を見てから言った。
「少年。女の裸が、見たいかい?」
 玖遠は面食らった。
「見たくない? なら、そこで後ろを向いてな。絶対に振り向いてはダメだよ」
 花魁は言い、言いつけを守るように玖遠をジッと見た。
 玖遠は、なぜ言うことを聞かなければならないのかと、目で訴えたが、那魅を思いとどまらせることを手伝ってくれているのだと理解して、警戒しながらも背を向けた。
「いいお兄さんだね」
 花魁はクスリと笑ってから、改めて那魅と向き合った。そして、那魅の目を捉えたまま、手探りで前結びの帯を解いた。
 帯がほどけ、花魁は襟に手をかけると、着物の前をはだけた。
 白い裸体が、桜の花のほの明かりに照らされる。その中で、那魅の目は、花魁の胸の一点に向いた。
 胸の中心から少し左、心臓があるところに、腕の太さほどもある赤い杭が打ち込まれていた。周囲の肉は赤く凍り、杭は、体を貫いて桜の幹にまで打ち込まれているようだった。よく見ると、その赤い杭は、透明な氷が血の色に染まったものなのだった。
 花魁は、動かなくなった那魅に言った。
「私が血を欲するのは、この桜を咲かせるため。大切にしてくれた人が、戻ってきてくれるのを待っている、その時間を稼ぐため。だけど、自分の血だけじゃ、足りないの。永遠に…ね」
 そう言って、花魁は満開の梢を見上げた。
 そして、夢を見るようにじっとなった。
 那魅は、ゆっくりと梢を見上げた。
 そして、微かに瞳を震わせた。
 桜の花に隠された、太い幹に、黒い狩衣を着た少年が腰掛けていた。そして光のかけらもない漆黒の瞳で、舌なめずりをして那魅のことを見下ろしていたのだ。
 花魁は、優しく言った。
「お嬢ちゃんは、どんなことをしてでも会いたい人がいるかい? どんなことをしてでも取り戻したい人がいるかい? まだ、いないんだろう?
 だったらもう花見はおしまいさぁ。
 だけど、もし、そんな思いをする日が来たなら、訪ねてらっしゃいな、この……【待人の櫻】を」
 その言葉は、那魅の耳に届いたかどうか、その表情からは読み取れない。けれど、那魅は、梢を見上げたまま、一歩、また一歩と、花魁の前から後ずさった。

 路地を、表通りへ向かっていく玖遠の後ろを、那魅は追って歩いた。その歩みはどこか疲れ切り、トボトボとしていた。
 玖遠は通りに戻ると、振り向こうともせずに坂道を登り始めた。
 一方、那魅は、そこで立ち止まり、路地を振り返った。
 ほのかに光る桜の木の幹に、着物をきちんと直した花魁の姿があった。けれど、その胸には、赤く染まった氷の杭が打ち込まれているのだ。そして梢には……。
 那魅の体は固まっていた。
 歩き出すことが出来ない。
 そのとき。
 グイと肩を押しのける手があった。
 そして、誰かが路地に入っていった。
 若い女性だった。
 ゆらり、ゆらりとスカートを揺らしながら、歩いて行く……。
 那魅はよろけながら、彼女の背から視線を外さなかった。
 玖遠が気づいて立ち止まる。
 けれど那魅は、玖遠を呼ばなかった。

 路地を奥まで行き、女性は花魁の前に立った。
 そして、何かひと言二言……。
 そのときだった。
 梢から飛び降りてきた黒い影が、両手から輝く鞭のようなものを放った。その鞭は、やってきた女の体を背中から貫き、体を梢の高さまで持ち上げ、血に濡れた先端に刃の光を灯らせると、女の首を掻ききった。
 ほのかな光の中に血しぶきが散り、梢の花を赤く彩った。そして梢は、かがり火のように燃えさかった。
 血しぶきが途絶えた頃、梢にかかっていた赤いもやが根元に降りてきて、花魁の姿は霞んだ。けれど、那魅は感じていた。黒い瞳の奥に、桜吹雪を宿した彼女の瞳が、その赤いもやの向こうから、じっと自分のことを見据えている……。

 那魅は、パーカーのポケットに手を入れると、まるでそうするのが当たり前のように、無意識に、淡々と、スマートフォンを向けた。そして、いつか訪れるかもしれない日のために、シャッターを切った。


 夜を越え、都会の朝焼けを見渡す時刻、桜の咲いた崖の下を、轟音を立てながら、何事もなかったかのように、一番列車が走っていった。
 たった今、磨き上げられたばかりのレールには、ほのかに染まった天空が、まっすぐに映った。
 それを淡々と見下ろした後、茶トラの猫を従えた少女、刹羅は、朝焼けに背を向けると桜と向き合った。那魅が投稿したSNSの画像から、この場所を特定して駆けつけたのだった。
 刹羅はいつもの迷彩服を着て、髪はサラシの布でポニーテールにし、今は鬼の目をしていた。
 視線は、満開の桜の、太い幹を見ている。
 幹には花魁が、手足を白く光る札で杭打ちにされて、うなだれていた。
 刹羅は、歩み寄ると恨みがましく言った。
「あいつは、とうとう、他人を手足にして悪事を働くようになったんだね」
 すると、花魁は、わずかに顔を上げる気配を見せたが、なにも言わなかった。
 刹羅は満開の梢を見上げて言った。
「こうやって、あんたが誰かを引き寄せることで、あの狐に人の血を与えてる。それ、わかってるよね?」
 花魁は、うなだれたまま顔を上げず、かれた声で答えた。
「彼がいないと……もう、あたしは咲くことが出来ない……」
 刹羅は、責めた。
「花が散っても葉をつけず、なのに、翌年の春には満開の花をつける、不思議な桜。花魁が恋人を、待ち続けているからだという。
 でもそれは、不思議でも何でもない。あんたは、あいつがすすった人の血の、おこぼれをもらって咲いてるだけだから」
 花魁は、頷いたように見えた。
 刹羅は、顎を引いた。
「わかってるんだね」
「………」
「今までどれだけの人の命を、陥れてきたんだい?」
「………」
 花魁は返事をしない。
 刹羅は間合いを詰め、腰をかがめて花魁の顔をのぞき込むと言った。
「あんたは、あいつと、同罪だ」
 花魁は、顔を背けた。
「自分の欲のために、他人を不幸にしてる」
 そう言うと、右手を花魁の喉元に向けた。そこには、抜いた脇差しが鋭く握られている。
 花魁は、呟くように言った。
「…散ってしまえるのなら、もう…それでもいい。彼は…もう、きっと、来ない」
 諦めの言葉にも、刹羅の表情は変わらない。唇だけが動き、淡々と、冷たく言った。
「あいつが、人を操って悪事をするってことなら、あたしにだって考えがある。あんたをここに磔にしたままにして、来年、血をすすりに来たところを、やってやる。あんたは餌になるんだよ。狐を狩るための、餌に」
 その言葉に、茶トラの猫が動いた
「刹羅。やめろ。解放してやるんだ」
 刹羅は、目を向けず、言い返した。
「罪を償わせる。なにが悪いの?」
「そのやり方は間違ってる」
「かもね」
 刹羅は吐き捨てると、身を引いて胸を反らした。そして、見下した。
「もし、来年の春までに、私が玉髄を仕留めたら、あんたの諦めもつくだろうさ。もう、二度と、咲くこともできなくなるんだから」
 そう言うと、刹羅は花魁に背を向けて歩き出した。その時、その背を、音もなく光が照らした。
 茶トラの猫、琥珀が振り返ると、街のビルの間に朝日が昇り、ここに光を投げかけているのだった。
 遠くからまた、レールを打つ音がやってきて、崖の下を轟音が駆け抜けていった。同時に、朝日の方角から風が吹き寄せ、満開の桜が一気に散り始めた。
 光を巻き込んで桜吹雪が舞い、刹羅の姿も、花魁の姿も、ほのかな色の中にかき消えていく。
 琥珀は、慈悲もない朝に眼を細めながら、何事もなかった顔をしている街の影を、静かに睨んでいた。


   

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