第5話 大吉の巫女

文字数 10,994文字

 妖かし玖遠*九十九奇譚

 作:玖遠@第六文芸

 第五話  大吉の巫女


 新しい年の太陽が昇り、刹羅は、猫神神社の神職として縁側の雨戸をすべて開け放った。
 夜の間に積もった真白い雪に、朝日が照り返し、刹羅の一張羅を、つま先から頭のてっぺんまで眩しく照らす。
 足元は白い足袋、紫紺の袴に、白い上掛け、すっきりと笑みを浮かべた横顔と、白いひもで縛った長い髪が、新しい年の光に輝く。
 雨戸を開けて、光を導いたのは、大掃除でほこりを払ったばかりの大広間だ。さらに朝陽は奥まで届き、黒光りする廊下を隔てた向こうの、年季でくすんだ襖に朝日を浴びせかけた。
 襖は、朝の強い光を受けて、いま、一幅の屏風絵のように、獣の絵を浮かび上がらせた。
 天から舞い降りたような姿で、四肢を伸ばし、その口元、足元、尾の先には、赤々とした炎をともしていた。厄災を払い、貴重な食料を鼠から守るという、その獣の姿こそが、ここが猫神と呼ばれる所以である。
 光を導いた刹羅は、縁側から居間へと回ると、コタツの上に用意していたものを胸の高さに支え持った。白木の三宝に載せた鏡餅だ。二段重ねの餅の上には、立派なミカンも載せてある。
 それを胸の高さで持ち、今度は縁側ではなく、奥の襖から、家の中央を走る黒光りする廊下へ出た。長い歴史の中で磨き上げられた、その廊下を、しずしずと歩いて、隣の広間の、獣の描かれた襖の前までゆく。
 襖のあわせの前で頭を垂れ、そのまま膝を床に突き、膝立ちの姿勢で三宝に載せた鏡餅を獣の前に供えた。
 刹羅の所作は、子供の頃から練習を重ねて、厳かで見栄えのする立派なものだった。しかしながら、三宝に載せられた餅は、年の瀬に大勢の人に見守られて搗かれたものではなく、プラスチックの皮を被った大量生産品だった。
「父さま…」と刹羅は静かに言った。「なじみの米屋が店じまいしましたので、町のスーパーまでゆきました。そこで、いちばん大きなものを買って参りました」
 淡々と、静かに報告する。ふざけている様子はない。
「憶えていますか? 父さまと行った、あの、ジャスコでございます。いまは、イオンという名に変わりました。賑やかな場所は好きではありませんが、あの場所だけは、わたしにとって、特別です」
 目を閉じて、静かに語る刹羅の背を、まっさらな朝陽が温めている。それを、廊下の暗がりで、茶トラの琥珀が足をそろえて見守っていた。


 正月の朝の勤めを済ませて、刹羅は袴姿のまま、縁側で庭に向かって立った。獣の襖と、その前の、誰もいない大広間を背に、肩幅に足を広げて立つ。正月に、ここに大勢が集まったのは、刹羅が生まれる前のことだと聞かされていた。
 今は、畳に、一人きり、背の高い影が伸びる。廊下にいた琥珀は、腰を上げると、わざとその影を踏みながら、刹羅の足元までいって鎮座した。そして一声、「ナーオ!」と啼いた。
 すると、庭の隅で白いものが動き、耳をピョンと立てて刹羅の姿を見、それから雪の積もった庭に飛び出してきた。
 ピョン、ピョンと、雪に足音をつけてきたのは、真っ白い冬毛の兎だった。
 すると刹羅は、ニコリとして着物の袂に手を入れ、ニンジンを一本、取り出すと、兎の前に放り投げた。そして、優しく言った。
「畑を荒らしてはならんよー」
 兎は、頷くようなそぶりをして、ニンジンにかじりついた。真冬の今は、とてつもないごちそうだ。
 刹羅は、兎がにんじんを食べるのを見守っていたが、ふと庭木の梢につぶらな瞳を見つけて手招きをした。
「カエルを干すのはほどほどになー」
 百舌鳥だった。その小鳥は、田んぼのカエルを捕っては木の枝にさして【ニエ】と呼ばれる干物にする。
「あれは、気味がわるいからさー」
 言いながら袂を探り、スルメを裂いたものを百舌鳥に向けて放り投げた。百舌鳥はパッと枝を飛び立って、それを空中でキャッチすると枝に戻り、夢中で啄みはじめた。
 すると、庭の石の影で何かがもぞもぞと動いた。見ると、何かの尻尾が二つ、狭い岩陰を奪い合っていた。
「けんかはやめなされー」
 刹羅は声を掛け、右と左の袂に手を突っ込むと、サツマイモを指の間いっぱい、扇を広げたようにして取り出した。都合、八本だ。それを見せつける。すると、その岩陰からは、だいぶ大きくなた子供をつれた猪と狸の親子が飛び出してきた。そして、刹羅がサツマイモを放り投げると飛びついた。
「……あ」
 見ていると、投げた芋の数が足りず、狸の子が一匹、悲しそうにしている。刹羅は急いで袂を漁る……と、出てきたのはスマートフォンだった。
「………」
 狸の子が肩を落とす。
 刹羅は気まずい顔をしてから、アッと思いだして後ろを振り返った。
 その視線の先には、獣の襖の前に捧げられた鏡餅がある。そこには立派なミカンが載っていた。作り物ではなく、本物のミカンだ。
 刹羅はツイときびすを返すと、誰もいない大広間を突っ切って鏡餅のミカンをとると、襖の向こうへニコリとしてから縁側に戻った。
「これはいちばん甘いミカンー」
 子狸にミカンを投げる。その子はうれしそうにミカンをかじる。刹羅は縁側に腰を下ろすと、しばし、正月のにぎわいに目を細めた。

   *

 とある町。
 その中心にある神社に、元旦の景気の良い声が響いている。
「大吉ー!」
 人だかりの先、おみくじ処の勘定台で、巫女が明るい声を立てている。唇に真っ赤な紅をさした美麗な巫女だった。
「大吉ー!」
 千円札を一枚受け取っては、手元の箱から和紙で作った札を一枚渡す。その時のかけ声が、気前良く境内に響いている。
「またまた大吉ー!」
 人々が千円札を高く掲げ、バタバタと振り、早く早くと急かしている。巫女はそれを前の方から両手で受け取っては、「大吉ー!」と明るく言って札と交換している。そうして札を受け取った人は、人だかりを脱出すると、お札の字面を確かめ、にんまりとすると足早に境内を後にしていく。
 その様子を、玖遠は、茶屋に出された腰掛けで、那魅と肩を並べて座り、眺めていた。
 玖遠はぼんやりと前を見て、那魅は、お椀につがれた甘酒を、両手で支えてじっとしている。
 会話はない。
 玖遠は、思い出していた。

 玖遠の記憶の中には、石段の下まで続く人の列と、正月に合わせて新調された鈴緒と、それで鳴らされるガラガラという音と、おみくじ売りをする那魅の声が響いていた。
 那魅は、巫女を気取って赤い袴を履き、時々耳をピョコンとさせながら、参拝を終えて帰って行く人たちに、くじ箱を抱えて見せて「おみくじ、おみくじ!」と勧めている。
 那魅の売るおみくじは、大晦日に那魅自身が筆を執って作ったものだ。大吉から大凶まで、均等に平等に、作ってある。やってくる人たちも近くの農民だけなので五〇枚も作ればおつりが来た。
 ニッコリと銭を受け取って、それを袂に放り込んで、那魅はくじ箱を差し出す。手を突っ込む人の顔は様々、期待してニコニコしている人もいれば、どうなることかと真剣な顔をしている人もいる。そして結ばれた紙を開いて、誰もがそれなりの顔をする。おみくじの正体は、那魅が遊びながら書いているとも知らず、人々は悲喜こもごもだ。

「この神社、大吉ばっかりじゃないか……」
 玖遠はぼんやりと、独り言をするように言った。
 それから、隣に座る那魅のことを気にした。
 那魅は、人だかりに淡々と目を投げているだけだったが、玖遠の声に反応してか、あるいは視線を気にしてか、膝の上の皿から、みたらし団子を一本取ると、口に運んだ。
 一個。
 二個。
 刺さった団子を口に運ぶと、一番食べにくい三個目は、串を横にして口を尖らせ、どこか獣っぽくかじりついた。行儀がいいとは言えない。串の手元に着いていた、みたらしの蜜が、口の端を汚す。それにも構わず、那魅は食べきると、ゆっくりと咀嚼しながら串を皿に置いた。身だしなみは気にするそぶりもない。
「那魅。口の周りが……」
 玖遠が見かねて、自分の人差し指を舐めて湿らせると、那魅の頬の、汚れたところを拭おうとした。……と、そこに。
「元旦の一番くじ、終了ー!」
 巫女が高らかに宣言して、アアーッと嘆きの声が上がった。振り向くと、力なく下ろされる千円札の向こうで、若い巫女がニコニコとして袂を振っていた。
「二番くじは午後一時くらいから。並んで待っても順番には配らないから無駄ですよー」
 その言葉を聞き終えるまでもなく、人垣が引いていく。おそらく、毎年恒例のことなのだ。
 玖遠は、気をそがれたが、思い直して那魅の頬の汚れを拭おうと……。
「そこのキツネさん!」
 突然、巫女が楽しそうに声を張った。
 びっくりして振り向くと、今の今まで笑顔でおみくじを売っていた巫女が、やはりその気前の良さそうな笑顔を、今度は玖遠に向けて勘定台に身を乗り出していた。そして、両手で手招きをした。
「おいでー、キツネさんー! そんなところにいちゃダメだー!」
 そんなところ……といっても、ここは境内の茶屋だ。団子も買っているし、いて悪い理由などないだろう。しかし、その社の者がダメだというのだから、その言葉をないがしろにしてはいけない。
 玖遠は立つと、那魅の手を引いた。
 那魅は、膝の上の皿を手にして立ち上がった。
 皿には、まだもう一本、みたらし団子が残っていた。

「私は見ての通り、ここ大吉神社の巫女よ。通称、大吉の巫女。有名なんだから。もちろん、アルバイトじゃないわよ。で、名はみおん、果物の実に音って書くの」
 神社の巫女、実音は、玖遠と那魅を勘定台の後ろ、障子の向こうにある四畳半に招くと座らせ、自分はちゃぶ台の上に広げた硯を横に、大胆な筆裁きで和紙の短冊に文字を書き付けていた。午後に配る二番くじ作りだ。……といっても、筆で【大吉】と力強く書いていくだけなのだが……。
「私は神主の家の子。この神社の女子は、代々、鈴にまつわる名前をもらうの。たとえば、鈴子とか、鈴音とか、そのまんま鈴とか、凛子とか、それは願いを叶える神をお呼びする【ガラガラ】にちなんでいるの。で、私は実音。鈴を実に例えて音を当てた名前なのよ。今風だし、すできでしょ?」
 実音は、おみくじを一枚書いてはまた一枚と、次々に筆を走らせながら話す。書き終えた札は座卓の上に並べていって、その数はもうそろそろ八〇枚だ。
 玖遠と那魅は、部屋の隅に正座をして、実音の話を聞かされている。
 那魅は、膝に淡々と団子の残った皿を載せていたが、玖遠は早速、しびれを切らせた。
「どうして僕たちを呼んだんです? 狐って見抜いたからですか?」
「そうよ。ほかに理由ある?」
「どうやって見抜いたんです? あなたは人間ですよね?」
「修行。修行の賜物よ」
「修行?」
「神社を悪いものから守る修行。早寝早起き精神集中。毎朝境内を清め、異変を察知する修行を積むの。風も光も、玉砂利の転がる音も、気配を感じ取る材料になる。ま、今のところ、私にできるのは結界を張ることだけなんですけどね」
「結界……」
「結界は分かるでしょ? 魔のもの、邪なもの、神聖ならざるものを近づけないようにするためのもの」
 そう言って実音は部屋の壁、高いところをぐるりと指さした。そこには、藁で作ったしめ縄に、白い稲妻の形をしたシデをぶら下げたものが、ぐるりと巡らされていた。
「ここは結界の中の結界。境内にもしめ縄は巡らしていたけど、あなたに穴を見つけられて入り込まれたから、ここに呼び込んで閉じ込めた。だって、不名誉でしょう?」
「穴なんて、わからなかったですけど……」
「見えなかったとしても、入ってこれたっていうことはそういうことなのよ」
 実音は、あっけらかんと言う。
 玖遠は顎を引いた。
「僕が、ただの狐じゃなく、妖怪だってことも見抜いたんですね?」
「そう。だから人目につかないところに呼んだの。日が暮れるまで、ここを動かないでね。小童でも妖怪の侵入を許したなんてママに知れたら、わたし、たっぷり三日は説教漬けだから」
「………」
「ま、わたしの許しがなければ、もう、ここから出ることなんてできないけどね」
 実音は甘い流し目をした。
 玖遠は、焦った。
 巫女に見くびられていることはすぐに分かったけれど、その巫女の懐に招き入れられて、うっかり、閉じ込められたのだと気づいたからだ。
「不覚……」
 思わず唇をかむと、実音は筆を動かしながら、ささやかな鈴のようにコロコロと笑った。
「今さら気づいても遅いわ。もうあなたは借りてきた猫のようなもの、ここでは何も事を起こせない。でも……」
 実音はふと小首を傾げた。
「あなたみたいなひよっこ狐が、わたしの結界をどうやってくぐったのかしら。結界はママにチェックしてもらってたし、たとえ穴から入れても、侵入されたらパパが気づいたと思うんだけど……」
「僕は正々堂々と鳥居をくぐってきましたよ」
「正々堂々? 妖怪のくせに?」
 目を丸くされて、玖遠は口を尖らせた。
「僕は、いえ、僕と那魅は、稲荷神社の神使でした」
「へえ。でも、今は妖怪。落ちたものね。ほら、これで慰められてなさい」
 そう言うと筆を置き、大吉の札を一枚取り、玖遠の額にペタリと貼り付けた。
 玖遠は不愉快に眉間に皺を寄せると札を取った。
「大吉だなんて、嫌みですか?」
「うちは大吉しか出さないの。誰だって正月ぐらいはいい夢を見たいでしょ?」
 実音は聞く耳を持たず、時計を見上げた。
「二番くじまで、あと一時間くらいかぁ……。乾かしてる間にお昼寝でもしようかな」
 そう言って大きくあくびをした、その時だった。
 ギシッ!と天井が鳴った。
 何か大きくて重たい物が載ったような、圧迫感のある音だった。
「なに?」
 実音は目を細めて板張りの天井を見上げる。その時、玖遠はすでに、総毛立っていた。
「気配を感じる……」
「気配?」
「強い……。敵意のある何者かだ」
 実音が眉をしかめる。
 その途端、柱がギシギシと軋んだ!
「結界を、潰そうとしてる!」
 実音が叫ぶ。
 そんなことをできるのは、何か、強い邪気を帯びた者でしかあり得ない。
「那魅!」
 玖遠は危機感に立ち上がり、那魅の手を引こうとした。だが、那魅は相変わらずぼんやりしていて、危機感のかけらもない。その間にも実音が、座卓の下に放り出していたお祓い棒、幣(ぬさ)をつかみ取った。そして足を肩幅に立ち上がると玖遠を見た。
「ごめん、ちょっと勘違いしてた!」
「勘違いだって?」
「あなたが自力で結界の穴をくぐってきたのかと思ったけど、どうやら違ったみたい!」
「どういう意味?」
「あなたよりももっと強くて邪な奴が結界を裂いていたみたい! 考えてみたら、ただの狐みたいな気配しかないあなたに、たとえ結界の穴があったって、察知されずに通り抜けることなんてできるわけないから!」
「………」
 回りくどく言いながら、実音は障子に手をかけた。
「あなたたちは危ないからここにいて。ここの結界の中にいれば、怪我をすることはないわ! わたし、パパを呼んでくる!」
 そう言って障子を引き開け、実音は草履も履かずに足袋ひとつで勘定台を乗り越えていった。
 実音は、さっき、人々が群れて千円札を振っていたところ、売り場の前の広場に躍り出て建物を振り返った。そして、足を竦ませた。顔に焦りが、そしておびえが走る。
 ただ事じゃ無い!
 それを見て取って、玖遠は那魅に言い聞かせた。
「ここで待ってるんだ。出たらダメだよ」
 那魅は膝の上に団子の載った皿を置いて、まっすぐに前を見ている。周りの慌ただしさなど意に介していない。
 玖遠は不安を拭いきれないまま、けれど立ち上がらなければ危機感を払うことはできないと思い、実音を追って四畳半を飛び出そうとした。しかし、そこで一抹の不安を覚えて、今一度、那魅を振り返ると、結界を完璧にするべく障子を後ろ手で閉め、それから勘定台を飛び越えた!

 外に出て実音の隣に並んだ玖遠は、振り返って愕然とした。
「狐……なのか?」
 おみくじ売り場の屋根の上に、黒々とした風を纏って、その小屋の大きさと同じくらいの黒狐が、瓦屋根を手で突き抜く勢いで鎮座していた。
「お……大きい」
 実音が思わずこぼす。
 その驚きは玖遠も同じだった。稲荷神社で、暴漢に襲いかかったときの玖遠も大きかったが、その数倍の大きさがあった。
 黒狐は、飛び出してきた玖遠をジロリと見たが、その目はすぐに実音に戻った。そして、口をわずかに開き、白い牙の間から火焔を漏らすと、ほくそ笑むように口の端をつり上げた。そして、地獄の風でも吹き上げてきたかのように太い声で唸った。
「ニンゲンニ……クダラヌ夢ヲ見セル女。我ノ血肉トナル夢ヲ見ヨ」
「……なにを言ってるの? 勝手なこと、言わないで!」
 実音がわめき返す。だが、その足が震えている。玖遠は二人の視線が火花を散らすところに割り込んだ。
 実音が小声で玖遠に言った。
「邪魔。あなたじゃ相手にならない」
「それはあなたも同じじゃないですか? ……応援を呼んできて下さい」
 玖遠は冷ややかに言い返した。だが、本心では震えていた。悔しかったが、屋根の上の黒狐との力の差は、火を見るよりも明らかだった。
 実音は早口に返した。
「たぶん、ここはアイツの結界の中わたしの結界ごと呑み込んでる。だから、外からは察知されてない可能性がある。わたし、パパを呼んでくる。悪いけど、引き留めてて!」
 実音は言い捨てて、振り返りざまにお祓い棒で空間を袈裟切りにした。そこに風の裂け目ができ、実音は飛び込んだ。
 玖遠は実音の気配が消えたのを背中で確かめると、腰を沈めて構えを取り、屋根の上の巨大な黒狐を睨みあげた。
 黒狐は、黒曜石のようにつややかな瞳で玖遠を見下ろした。そして、笑った。
「九尾ノ者ハ、気高クアレ。ニンゲン二助ケヲ求メルナド、言語道断。我々ヲ貶メル童、覚悟セヨ」
 ゴウッと吹き寄せるような声には、卑しく見下ろす気配があった。
 玖遠は顎を引き、上目で睨みあげると、言い返した。
「僕は人間を恨んでいる! 助けを求めることなどあり得ない!」
「ホウ……。ナラバ我ガ軍門ニ下ルガヨイ。怨念ヲ存分ニ活カスコト、叶エヨウゾ」
「………」
 その言葉に、玖遠は戸惑った。
 もしかして、相手は敵ではなく、味方なのか?
 そう思って拳がゆるんだ。
 すると、黒狐が、今まで建物の向こうになって見えていなかった尻尾を、背中の側で真っ直ぐに立てた。一本、いや三本……その数が続々と増え、最後には漆黒の扇を背負ったようになった。
「九尾……」
 その姿は力にみなぎって雄々しかった。
 玖遠は呆気にとられて、拳を開いてしまった。
「シカシ小童。オヌシガ役ニ立ツトハ、オモエヌナァ……」
 九尾の黒狐は、玖遠のことを冷ややかに笑った。
 玖遠は見下されて戸惑った。
 そして、考えがまとまらなかった。
 直後。
 黒狐がわずかに身じろぎ、九本の尻尾がゆらりと揺らめいたかと思うと、彼の周りを回っていた黒い風が、玖遠目がけて一斉に飛びかかってきた!
 拳をほどいていた玖遠は、咄嗟動けなかった。
 黒い風は、一つ一つ狐の顔を持っていて、口を開いて黒い気を吐きながら、風が泣くような声を上げて玖遠の四肢、そして、玖遠が暴漢にしたように、喉笛に食らいついてきた。玖遠は声を上げる間もなく地面に押し倒され、血を引き抜かれていくかのように、一瞬にして意識を奪われていた。

 玖遠が絶叫を発していれば、もしかしたら、那魅は、その場を立ち上がったかもしれない。けれど那魅もまた、結界の外のことを察する状況にはなかった。
 ギシギシと軋む屋根の下で、膝に、団子が一本残った皿を置いて、正座をしていた。目は前を見て、意思らしいものはなかった。
 ただ、障子が静かに開いたとき、その目は無意識にそちらへ向いた。
「最近、ネットで見かける奇妙な狐は、キミだね?」
 そこには、黒い狐の面を頭に載せた少年が、優しい笑みで立ち現れていた。面は、玖遠の面とは違い、差し色のない漆黒の面だった。
 那魅は、目を向けたが、相手が玖遠でないと知ると、また黙って前に向き直った。
 少年は、少し困った顔をして、ふぅと吐息をついた。それから障子をそっと閉めて部屋へ入ってくると、那魅の横顔を見る位置に膝をついて、顔を覗き込んだ。
「なるほど……。これじゃぁ、キミの兄さんが、魂が壊れたと思うのも無理がないね」
 那魅は前を向いたまま、何の反応も示さない。無視を決め込んでいるのか、それとも、聞こえていないのか。
「試してみようかな」
 少年は、いたずらっぽく言うと、両手を畳について四つん這いになり、那魅の横顔に顔を寄せ、まるで獣が親愛の情を示すときのように、その口の端についていた、団子の蜜を、舌で舐めとりだした。
 舌の先が、唇に触れそうになる。
 けれど那魅は、身じろぎひとつ、しなかった。
 少年は、動物の親が子にするような、あるいは番がするような、そんな親愛の行為を、遠慮もせずに那魅に施した。
 しかし那魅は、拒むこともなく、顔色ひとつ変えず、じっと前を向いていた。彼の舌の生暖かさ、吐息の熱、そんなものを感じていたはずだけれど、身じろぎひとつ、もちろん言葉もなく、されるがままだった。
 ひとしきり、蜜を味わって、少年は身を引くと苦笑いをした。
「これは、重傷だね」
 那魅は返事もしない。
 膝に置いた団子の皿も、寸分たりとも動いていない。
 少年は、呆れたようにため息をつくと立ち上がり、黙って障子を開けて外に向かいながら、背中で言い残した。
「那魅ちゃん、キミの魂は、どこで生きているのかな? その体の中かい? それとも、兄さんの心の中? まさかとは思うけど、そのスマホの中の世界で生きているなんてコトは、ないよね?」
 那魅は振り返りもしない。
 少年は言い残した。
「僕の名は玉髄、冥界の狐さ。だから、キミが、心から人間を憎いと思ったときには、必ず君を迎えに来るよ。君には、その権利があるんだから、ね」
 そして障子が閉まり、屋根の上の重みが抜ける気配がして、静けさが戻った。
 そうしてはじめて、那魅は、膝の上の皿を持って立ち上がった。皿にはまだ一本、団子が残っていた。けれどそれには手を付けず、皿を座卓の隅に置くと、二番くじのために用意されたおみくじの山を見、何かを考え込むようにジッとしたあと、さっき、実音が座っていたところに正座をすると、おもむろに筆を執った。


「キミ! 大丈夫?」
 玖遠は揺り起こされて意識を取り戻した。
 抜けるような青空を背景に、実音の心配する顔があった。そのほかにも、袴を履いた中年の男女が、淡々と成り行きを見守っていた。実音の両親だろう。
 実音は、玖遠が目を開けると、ほっとして笑った。
「あの化け物狐を追い払ったのね。やるじゃない!」
 そうだ、と思って目を屋根に向けると、そこにはもう、黒い九尾はいなかった。そして手が、無意識に首の具合を確かめたけれど、そこには傷ひとつ、痛みのひとつもなかった。あれは、幻覚だったのか……。
 玖遠は喉を震わせた。
「那…魅……」
「え? なに?」
 玖遠の声は枯れていた。そして体を起こし、ふらりと立ち上がると、心配する実音の視線を振り切って、おみくじ処へ向かった。そこには二番くじを待つ人々が、倒れていた玖遠のことになど大した興味も抱かず、勘定台の向こうに大吉の巫女が姿を現すのを、今か今かと待ち構えていた。
 玖遠は人並みをかき分けて、勘定台を乗り越えると障子を開け、中に入るとすぐに那魅を引っ張って出てきた。
 その那魅の顔には、わざと口の端を狙ったように、見ようによっては口の端を裂いたかのように、墨が塗られていた。
「あ。かわいい顔が台無し……」
 ふたりが戻ってきたとき、実音は袂から手ぬぐいを出した。けれどそれさえ拒むかのように、玖遠はグイグイと那魅の手を引いて実音の前を通り過ぎた。
「待って! 行っちゃうの? お礼したいのに!」
 実音の声を、玖遠は振り向こうともしない。口はギュッと切り結ばれ、前を見る目は、不甲斐ない誰かへの不満に歪んでいた。そして、そんな玖遠の横顔を、那魅は、手を強く引かれながら、淡々と、淡々と、見つめていた。

   *

 元日の日が暮れた猫神の家で。
「刹羅」
 コタツの上に鎮座し、茶トラの琥珀が、テレビのニュースを見ながら言った。
「実音の奴、なんだか知らないが、しくじったらしい」
 場面は、SNSで投稿された話題のコーナーだ。おみくじを手に嘆き悲しむ大勢の人たちと、慌てふためく巫女の動画を見て、ナレーターが、半笑いで驚いた声を上げていた。
 琥珀は、淡々と言った。
「大吉神社のはずが大凶神社に……だとよ」
「聞こえてる」
 仰向けになってコタツの虫になっていた刹羅は、片手を真上に上げてスマートフォンの画面を琥珀に向けた。
「この子の仕業だと思うよ」
 そこには、白狐の面を頭に載せて、口の端には墨を付けた少女が、手に、おみくじを広げて持って、こちらをじっと見ていた。おみくじは、大きく大吉と書かれた上からバッサリとバツ印が付けられて、さらに大きく大凶と書き付けてあった。そしてコメントには『サ・イ・ア・ク』のひと言が添えてあった。
 琥珀は呆れた。
「ガキのいたずらか」
「さあね」
 刹羅の返事は連れない。そして、コタツから出ようともしない。
 琥珀は横目で聞いた。
「行かないのか?」
「え?」
「狩りに行かなくていいのか?」
「………」
 刹羅はスマホを再び顔の前に持ってくると、わずかに眉間に皺を寄せた。
「墨なんて付けちゃってさ、ぶってんやんの」
「あ?」
 思わず漏れた独り言だったが、聞きつけられて刹羅は口を尖らせた。そして、ぶっきらぼうに返事した。
「実音のところには腕利きのパパがいるから、わたしの出る幕なんてないわよ」
「………」
 琥珀は黙る。
「それに」と刹羅は続けた。「それに、わたしだって正月くらいは、ゆっくりしたいよ」
「……そうだな」
 刹羅は、今一度、大凶と書き付けた那魅の顔を見た。そして、誰にともなく呟いた。
「……正月早々、なにをカッカしてんのよ」
 画面の中の那魅の瞳には、刹羅の顔が映るようだ。刹羅はひとしきり見つめ合い、それからスマホを握った手を畳に投げ出すと、ジッと天井板の木目を見上げた。
 それきり口を噤んで、なにを言おうともしない。
 そんな刹羅のことを、琥珀は横目で見ていたが、そのうち、ツイとコタツから下りると、軽く手を触れて襖を開け、一人、冷え切った暗い廊下へと足音を忍ばせた。
 居間の襖がひとりでに閉まり、細く明かりが漏れるだけになった中、黒く磨き上げられた廊下が、家の奥へと延びていた。奥へ行く途中、白木の三宝と鏡餅が、蛍火のように弱く光をともしている。それは今朝、日の出と共に刹羅が、獣の襖の前に供えたものだ。
 琥珀は、じっと耳を澄ました。
 精神を集中して、居間から漏れるテレビの音を意識から閉め出す。そして、静寂の中を歩き出した。

 廊下の先、その襖の奥には、刹羅の父親が眠っている。琥珀は今宵、元旦の夜に、彼とふたり、語り合うために、黒光りする、なにか橋にも思える、冷え切った廊下を、尻尾を下ろしてヒタリヒタリと、ゆっくりと歩いていった。


 第五話 了
 
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