第6話 鬼と山南天

文字数 10,096文字

 妖かし玖遠*九十九奇譚

 作:玖遠@第六文芸

 第六話  鬼と山南天


 今はもう、獣だけが行き交う山の道を登ったところに、青い空の下、真冬の湖を見下ろす峠があった。湖は凍りつき、雪が積もり、急峻な山あいをいびつに埋めて、忽然と白くある。
 その峠には、今、真冬でも赤い実を残す、二本の大きな木が並んで佇んでいた。
 それは、互いに真っ直ぐに立ち、梢で枝を触れあわせ、古い道の、誰も来ない、雪の積もった峠道を挟み、まるで鳥居のように、あるいは、密かに手を触れあわせるふたりのようにも見えた。

  *

 今、玖遠は右足を引きずりながら、必死になって山の中の獣道を登っていた。右手には、しっかりと那魅の手を握っている。
 引きずっている右足のふくらはぎには、横から、白い札が刺さっていた。札は、風に揺れるような紙でありながら、どのようにしてか、カミソリのように肉に食い込んでいる。傷口が札を噛み込んでいるので流れ出す血は少ないが、浅く積もった雪には確実に足跡を残している。追っ手の気配はわからないけれど、追いつかれたら終わりだ。ポニーテールで目つき悪く笑う女と、相手が年下と知れば意地悪く牙を見せる茶トラの猫の姿が瞼に浮かんで、玖遠は唇をきつく噛んだ。
 那魅は、手を引かれながら、玖遠の背中を見るとはなしに見ていたが、歩かされながら、おもむろにスマホを出すと、玖遠の背中にシャッターを切った。
「………」
 背中には、白い札が二枚、肩甲骨のあたりに刺さっていた。那魅に飛んだ流れ弾を、背中で守ったときのものだった。チラリと写っている横顔には赤い切り傷もあった。
「………」
 画像はすぐにSNSに投稿された。キャプションには、『タスケテ』とカタカナが並んだ。しかし、すぐにエラーメッセージが表示された。
「でん…ぱ、な…い」
 那魅は、わずかに目を丸くして、しかし抑揚なくいった。
 そう、山の中を闇雲に逃げてきたここには、電波がなかった。

 獣道の、坂を登りきった先が明るくなってきた。見ると、稜線の低いところ、鞍部を越えた先に冬の青空が広がっていた。
「峠……」
 玖遠は息を上げて呻いた。
 足元の雪に、人の足跡はない。先回りはされていないようだ。
 いくらか胸をなで下ろしながら、改めて峠を見ると、雪の積もった獣道を挟むようにして、一対の大きな木が佇んでいた。さらに、その脇には建物の軒先が見えていた。軒は低く、小屋か、そんなものの様子だ。
 獣道を来たと思っていたが、登山道だったのだろうか。
「あそこで、ちょっと、休もうか……」
「………」
 玖遠は弱々しく笑った。
 那魅は、じっと玖遠の目を見たけれど、言葉はなかった。
 ……と。
 その時。
 シュッ!と風を切る音がして白いものが走り、玖遠の頬を切った。
 白いものは、近くの木に当たり、一瞬、白い札の正体を明かし、パッと霧散した。
「くそっ……」
 玖遠は息つく間もなく、那魅の手を握り直すと、くるぶしまで積もった雪に足を引きずりながら、青い空を冠にした峠へ急いだ。
「とにかく、峠を越えて……」
 下り坂になれば、手負いでも勢いがつく。そう思って坂を登り切り、峠へさしかかった。
 軒先が見えていたのは、やはり小屋だった。瓦がずれ、戸板に節穴もある、粗末な作りの小屋だ。おそらく、最低限の生活用品だけが備わった、番屋のようなものだ。そんなところが、隠れ場所になるわけがない。玖遠は脇目も振らずに通り過ぎた。そのせいで、節穴の向こうから様子を見ている瞳の存在に気づけなかった。何者かが、気配を消して隠れているのだ。
 そして、峠を越えると、突然、雪が深くなった。
「もう少しいけば……」
 雪の先が空に消えている。急な坂か、崖か、とにかく下り坂だ。
 急ぐ気持ちが空回り、深まった雪に足を取られ、体に力が入り、それを察知したかのように札が筋肉に食い込んだ。同時に、仕込まれた電撃の術が発現する。
 それは、身体を動かそうとすれば動かそうとするだけ、強い苦痛を与える術だ。それでもなんとか、ここまで耐えては来たが、深い雪をゆくのに必要な筋力は予想以上に必要で、電撃もそれに応じて強く、玖遠はとうとう、苦悶の声を上げて足を止めてしまった!
 シュッ!
 タタン!
 そこを狙い澄ましたかのように、新たに札が二枚、玖遠の背に突き立った!
 同時に体を走る激しい電撃……。
 玖遠は絶えきれず、雪に倒れ込んでしまった。
 その瞳からは意識が絶えている。気絶してしまったのだ。
 那魅は、雪の上に倒れた玖遠の手を離していなかった。じっと、淡々と見下ろしている。そこに、雪を蹴散らして迫る影があった。
「逃げ切れると思う方が間違ってる!」
 高笑いするのは、迷彩服に長いポニーテールがトレードマークの少女、刹羅だ。猫神神社の神職で、もう半年も、玖遠のことを追いかけている。
 彼女は嬉々として、膝まである雪をスボズボと蹴散らしながら玖遠に迫る。あと数メートルというところで右手を腰にやり、隠していた懐刀を抜いた。一尺程度の刀身は、反りこそ浅いが、輝きは日本刀のそれだ。柄が黒くくすんだ年季ものだったが、ギラリと手入れされて殺気に満ちていた。妖怪にトドメを刺すとき、刹羅はいつも、その懐刀を用いる。
 刹羅は懐刀を逆手に握り、間合いを詰めていきながら、切っ先を玖遠の背中目がけて腕を振り上げた!
 玖遠は冷たい雪に頬を埋めて起き上がる気配もない。
 そんな玖遠の手を取ったまま、那魅は生きている様子もなくぼんやりと刹羅を振り返った。
 刹羅は、目を見開き、勝利の興奮に白く歯を見せていた。
 那魅は、スマホをわずかに握りしめた。
 そこには、どこにも届かない『タスケテ』の文字……。
 その時!
 刹羅の後を走っていた茶トラの猫、琥珀が、何者かの気配を察して警告した!
「刹羅! 気をつけろ!」
 しかし、一歩遅かった!
 道の脇、番屋のようにみすぼらしい峠の小屋で、バシン!と音がしたかと思うと、節穴の引き戸が全開になった。そして、そこから男の影が飛び出し、地面に着地したかと思うと、手に束にしていたなにかを放った!
 ジャッ!
 無数の金属音が繋がる音がし、彼の手から刹羅の後ろ姿に向けて、一直線に鎖が延びた! さらに、鎖の先端には小石大の分銅がついていた。
 刹羅は「えっ?」と振り返ろうとした。しかし深い雪に足を取られて体をひねることもままならない。なんとか首をひねったところに、飛んできた鎖が一瞬でグルグルと巻きついた!
 刹羅はグッ!と言葉を封じられた。
 しかし手にしていた懐刀は放さない。
 苦悶の目で振り返ると、みすぼらしい着物に蓑を被った若者が、雪を肩幅でグッと踏みしめて刹羅を睨んでいた。鎖をビン!と張った手は、一体、なにをどうすればそうなるのか、象の足のように皮が分厚い。山男、マタギとも言える風体だったが、彼らは鎖を投げない。
 何者かと刹羅がにらみ返す。
 しかし彼は、すぐには口を開こうとしなかった。
「落ち着け! お前、捕らえる相手を間違ってるぜ!」
 琥珀が叫ぶ。しかし若者は、チラッと目をくれただけで相手にしない。猫が口をきいても驚いてさえいない。
 ウッ……と玖遠が身じろぎした。
 刹羅はハッとして小刀を握り直した!
 途端!
 ビッシィッ!
 鎖が氷を締め上げるかのように啼き、刹羅のことを、首から背中へ力任せに引き倒した! 同時に頸動脈が絞め上がり、刹羅は後ろ向きに倒れ込む間に意識をなくし、それでも懐刀は握りしめたまま、空を仰いで雪の上に倒れた。


 玖遠が目を覚ますと、そこは薄暗い小屋の中だった。壁や戸の節穴から、いくつも光が漏れているのを見ると、まだ昼間だ。
「那魅……」
 姿を探ると、すぐ横に、那魅は座っていた。その膝には、スマホが置かれていたが、片手は、玖遠の手を握っていた。
 那魅は、こちらを見てはいない。顔をまっすぐに上げ、無表情に、前を向いている。
 けれど、手を握っていてくれていたのだと知ると、玖遠は嬉しかった。思わず、握り返そうかとためらうほどに……。
 その時。
「目が覚めたか」
 暗がりで、低い声が上がった。
 ギョッとして見ると、粗末な着物に蓑を被った男が、ジッとこちらを観察しているのだった。
「誰…だ?」
 玖遠は声を絞り出した。
 すると。
「狐なんぞに答える名はない」
 素っ気ない返事が返った。
 玖遠は、戸惑った。
 明確な敵意は感じなかったが、だからといって、味方のようではなかった。
 だが。
「ンンー! ウーッ!」
 突然、部屋の隅で怒り心頭のうめき声が上がった。見ると、追っ手だったはずの刹羅が、手足を束ねて縛られ、太い木の棒で猿ぐつわをされて転がされていた。
「ウンンンーッ!」
 拘束され、狂犬のように血走った目で玖遠をにらみ付けている。一方の玖遠は、どこも拘束されていなかった。
 やはり、蓑を被った若者は味方なのか?
 玖遠は、未だ背中に刺さった札に苦痛を受けながら体を起こすと、男と向き合った。
「僕は、玖遠。こっちは、妹の那魅。あなたが、助けてくれたのか?」
 玖遠が問うと、男はいった。
「俺は猿之助、助けたわけではない。この境界の守人としてお前たちを引き留めただけだ」
「境界?」
「この峠の先には里がある。その里を【鬼】から守るために、俺はいる」
「鬼……」
 玖遠は首を傾げる。
 同時に、刹羅がグウーッ!とけもののように高く呻いた。
 玖遠は、猿之助に尋ねた。
「あの女は、鬼なんですね?」
 ウグググ!と刹羅が声にならない声で抗議する。
 猿之助は、冷ややかに目を振って言った。
「鬼は、心に棲まうもの。あの女の心の中には、問答無用で妖怪を潰す鬼がいる」
「………」
 刹羅はヒステリックにうめいている。猿之助の言うことを認められないのだろう。
 玖遠は、戸惑いながら言った。
「あの女は、僕を殺そうとしている。ですが、それは理由があってのことだと、僕はわかっています」
「理由? ああ、おまえ、人に危害を加えたんだな?」
「……わかるんですね」
 玖遠は肩を落とした。
 猿之助は言った。
「わかるさ。だから、お前も、この境界を越えさせるわけにはいかない。ただ、今、お前の心に鬼はいない。だから縛っていない」
 そういうことだ、と猿之助は言って、玖遠をじっと見た。
「お前は、罪深いことをしたはずだが、今、誰かをあやめようとは思っていない。違うか?」
 玖遠は、頷く。そして言った。
「僕の気持ちは、僕の、大切な妹を、以前のような明るい子に戻したい。それだけです」
 玖遠は那魅のことを気にしながら言った。
 那魅は膝に手を揃えて、じっと前を見ているだけだ。
 その様子を見ながら、蓑を被った若者、猿之助は言った。
「だが、お前は狐だ。その気持ちが、ずっと続くことを願うね」
 猿之助は、意味ありげに言って腰を上げると、刹羅の前に歩いた。
 立ち上がった猿之助の姿は、蓑を背負って、まるでケダモノのように見えた。刹羅が目を剥き、縛られた手の指をガッ!と開いて爪を立てるが、それは抵抗にもならなかった。
 しかし、猿之助は刹羅に手を出そうとはせず、腰をかがめると、彼女の前に転がしてあった懐刀を拾い上げた。それは全長が一尺ほどの、鍔のない短刀だ。
 一瞬、刹羅の目に焦りが走った。
 猿之助は、淡々と見下ろすと、きびすを返し、その懐刀を持って玖遠の前に戻ってきた。
 そして。
 ドンッ!と懐刀を、玖遠の目の前の床に突き立てた。
「鬼を一匹、退治してくれ」
 玖遠は眉をしかめる。
 それはつまり……と、刹羅を見ると、彼女はすでに脂汗を額に浮かべ、猿ぐつわされた木の枝を尖った歯でギリギリギリ!としていた。命乞いと思われたくないのだろう、うめき声は呑み込んでいる。
 玖遠は、突き立った懐刀を見、ギラリと磨き上げられた刀身を見つめ、一方、黒くくすんだ白木の柄を見て、低い声で言った。
「この汚れには、怨念があるみたいだ」
「そうとも。おそらく、狩られた妖怪たちの血が染みこんでいるのだろうな」
 玖遠は小さく顎を引いた。
 それを見て、猿之助は言った。
「玖遠とやら。お前もあと少しのところで、その刀のシミになるところだったのだぞ」
 それを聴いた途端、玖遠のふくらはぎ、そして背中に突き立った札が、風もないのにさわさわと動き、玖遠の顔に苦悶を滲ませた。
 それを見て、猿之助は言った。
「今、お前の心の中で、鬼が顔を上げたのではないか?」
「………」
「その女を殺しても、悲しむのは、外にいる猫妖怪のみ。どうやら孤独な女だ、ためらうことなど必要ない」
 見下すような言葉に、刹羅の歯が猿ぐつわに食い込む。八重歯の根元からは血が滲んだ。
 猿之助に促されて、玖遠は、腕に力がこもるのを感じた。同時に、背中に突き立った札が、ジワジワと傷口を広げていくのを感じて顔を歪めた。
 しかし、刀に腕を伸ばそうとはしなかった。
 代わりに、すっと伸びる腕があった。
「那魅!」
 玖遠は思わずその手をつかんだ。
 那魅が、無表情なまなざしで懐刀をつかもうとしたからだ。
 横顔は相変わらず無表情で、なにを考えているのかはわからない。けれどその目は真っ直ぐに刹羅を見ていて、何をしようとしたのかは想像に難くない。そして那魅の腕は、玖遠が押さえるのもたいへんなくらい、強い力で、血の染みついた柄を手にしようとしていた。
「やめるんだ」
 玖遠はなだめる。
 だが、那魅は玖遠を振り向こうともせず、刹羅をじっと見ている。無表情なだけに、余計に恐ろしさがあり、玖遠は焦り、刹羅もわずかに身を縮めていた。
「那魅! 妖怪になりたいのか!」
 玖遠は思わず叱った。
 しかし、那魅の腕の力はますます強くなった。
 指がわななきながら、黒ずんだ柄を求めて空を掻く。普段の様子からは想像もつかないほどの意思を感じる。前髪も震えている。玖遠は、自分が札にやられていなければ押さえつけるのに……と歯噛みをした。
 そして、ハッと思いついて言った。
「那魅! そんな女のことより、僕の! 僕の傷を見てくれ!」
 そう叫ぶと、那魅の腕からパッと力が抜けた。そして、ゆっくりと玖遠を振り向いた。
「く…おん…の……」
「ああ、背中に刺さってるだろう、取ってくれ!」
 玖遠は言うと、那魅の気が変わらないうちにと、その場にうつ伏せになった。
 黒鉄色のパーカーの背に、白い札が四枚、刺さっていた。足のふくらはぎにも一枚、刺さっている。札はどれも薄い紙でできていて、サワサワと空気の動きになびいていたが、その一端は玖遠の体に突き立っていて、刺さったところから、赤く、血を吸い出していた。
 那魅は、札をじっと見てから、いくらか小さくなった刹羅を見た。
 刹羅は、那魅をにらみ返す。だが、瞳をキラリとさせただけで、なにも言おうとはしなかった。
 那魅は、淡々と、無表情に、玖遠のそばに正座をすると、両手を膝にそろえてジーッと札を見つめ、動かなくなった。
「……那魅?」
 玖遠が不安な声を立てる。
 すると、促されたように、那魅は右手を札に伸ばした。
 人差し指と親指が、かすかに揺れる紙に延びる。
 玖遠は言った。
「もしなにかあったら、すぐに手を放すんだよ」
 那魅は頷きもしない。
 一方、部屋の隅では、刹羅が鼻で嗤っていた。玖遠が睨むと、彼女はなぜか、冷ややかに勝ち誇っていた。
 そして。
 那魅の人差し指が、札に触れた。
「ウアッ!」
 悲鳴を上げたのは玖遠だった。
 体の中に入っていた札の部分が、突然、イガグリのトゲのようなものを肉の中に伸ばしたからだった。
 那魅は、指を触れさせたまま動きを止めた。いや、止めただけでなく、その腕が細かくわなないていた。
「ウウッ!」
 玖遠は悶える。那魅はそれを見て、ためらっているのだろうか。しかしその目は、玖遠を心配している様子はない。なんの、表情もない。
 刹羅が、猿ぐつわをされたまま笑いだした。
 那魅はそれでも刹羅を見ず、玖遠は目を剥きそうになりながら、体の中に突き刺さってくるトゲの苦痛に悶えていた。
 ……と。
 グッ!と那魅が札を握り取った!
 そして、玖遠の背が反り返るのにも構わず、一気に引っこ抜いた!
「………!」
 体の中から、針の根を生やした札が、血の糸を引きながら薄暗い中に放り出された。
 那魅は、空いた手で残りの札をまとめてわしづかみにした!
 玖遠は激痛のあまり声も上げられない。
 ズズッ!と肉を引きながら、三枚の札が一気に引き抜かれて宙に舞う。
 乱暴なやり方だった。そのせいで、玖遠はもう、瀕死の体だった。けれど背中の四枚は抜き終わった。那魅は、変わらず無表情に、淡々とした目をしていたが、最後の一枚、ふくらはぎに刺さった札に目を移すと、問答無用でつかみかかり、雑草でも抜くかのようにぞんざいに引き抜くと背中の側へと放り投げた。
 玖遠はビクリと跳ねて悶絶した。
 その沈黙の中を、根の生えた札がゆっくりと舞って落ちていく。そしてそれが、ピシャリ…と濡れた音を立てて床に落ちたとき、那魅は、ゆっくりと刹羅を振り返った。
 刹羅は、嗤いを呑み込んでいた。
 彼女は、その札がどれほどの苦痛を妖怪に与えるかを知っていた。今まで、多くの妖怪が、それを引き抜こうとして、泡を吹いて気絶しているところを見てきたからだった。事実、玖遠も気絶している。
 そしてもう一つ、その苦痛は、札に手を触れた者にも、等しく同じだけもたらされる。誰もが、その札に指を触れただけで激痛を覚える。そして、それ以上の施しをしようとはしない。札を突き立てられた妖怪は、仲間に見捨てられ、後は刹羅に狩られるだけだ。
 見れば玖遠は、白目を剥いて気絶している。それと同じ苦痛が、那魅にも与えられていた……はずだ。
 けれど那魅は、苦痛をかけらも見せず、刹羅を見ている。淡々と、淡々と……。
 けれど、その目に、刹羅は感じ取った。
 プライドのようなものか、それとも悲しみのようなものか、とにかくそれは、怒りの念だった。そして、刹羅と那魅の間には、懐刀が突き立っていた。
 那魅の手が、再び、血のしみた柄に延びた。
 玖遠は、気絶したまま動かない。
 猿之助は、黙って見ているだけだ。
 刹羅は全身に汗を吹き出した。
 復讐される。そう思った。
 しかし、那魅は、柄を握ることはなかった。柄を取ろうと身を伸ばした姿勢のまま、動きを止め、やがてゆっくりと、まるで狐の石像が倒れていくかのように、ドサリと床に倒れてしまった。そして、動かなくなった。
 刹羅は、倒れても尚、無表情の那魅の顔から目が離せなかった。そして、その那魅のまなじりから涙が、血の色をしたなにかが一滴、床に落ちる様を、息をするのも忘れて見つめていた。


 玖遠は、ふたたび目を覚ました。
 そして、床に転がった那魅を見ると、慌てて抱き起こした。
「どうしたの、大丈夫かい?」
 耳元でささやくように聴く。
 那魅は、わずかに瞼を細めて反応した。
 玖遠は、札が、呪わしいものだったことを察した。そして、今度こそ眉をつり上げて刹羅をにらみ付けた。そして、言った。
「鬼め」
 刹羅は、ばつが悪く、目をそらした。しかし、目線を逃がしたその先で、胡座をかいた猿之助の視線とぶつかり、今度は逆に視線を逃がした。
 玖遠は、那魅を壁際に寄りかからせて座らせると、ためらう様子もなく突き立った懐刀を床から抜いた。
 リン……と、刀身が震えて鈴のような音を聞かせた。
 刹羅は、その音を耳の奥に大切にしまいながら、歩み来る玖遠から目をそらしていた。そして、冷たい鋼の感触が頬に触れたとき、静かに死を覚悟した。
 だが。
 ザッとなにかが断ち切れる音がして、咥えさせられていた棒が床に落ちた。
 見ると、猿ぐつわの麻紐が断ち切られ、転がっていた。それを刹羅は茫然と見つめ、玖遠が、懐刀を刹羅の膝先に揃えて置くのを、視界の端に見ていた。
 玖遠は、なにも言わずに那魅を背負うと、戸口に向かった。猿之助が、黙って閂を抜き、玖遠のために戸を引く。
 傾きかけた光が部屋に差し込む中、刹羅は玖遠の声を聴いていた。
「僕に、人は殺せない。お稲荷様と約束をしたから。もし、約束を破ったら、僕は、大切なものを、失うと思う。
 だから、キミはもう、僕を追ってこないでほしい」
 そう言って、雪を踏みしめて去って行く影を、刹羅は、なにも考えられずに見ていた。
 そして、入れ替わりに、四つ足の、猫の影が、ゆっくりと踏み入ってきたとき、そして丸い眼で、黙って見つめてきたとき、歯車の楔が砕け散ったかのように叫んだ!
「勝手なこと言ってんじゃないわよ! あんたがなんて言ったってわたしは妖怪を許さない! 特に、あんたみたいな狐はね! 許さないよ! 絶対に許さない! 今、わたしを殺さなかったこと後悔させてやる! 絶対に! 誰が、なんて言ったって! 絶対にィ!」
 わめき散らしながら、散っていく悔し涙を、猫の目は黙って見つめている。床に点々とつく涙の跡の、その一粒が、置かれた懐刀の刃に落ちて、二度と拭われることなく、錆びになって染みつくことを、彼の目は、密かに望んでいた。


 峠から見る、向こうの山の端に、夕陽がかかろうとしていた。その、鮮烈に鮮やかな橙色の光を蓑に受けながら、猿之助は獣道を戻っていくポニーテールを見送っていた。その長い髪を縛っているのは、雪ざらしをした木綿のように白い紐だった。
 彼女は、散々わめき散らした後、それきり口をきかず、猫だけが、礼儀正しく頭を垂れて、元来た獣道へと足を向けた。
 そして、足音がかすかにも聞こえなくなった時、赤光を浴びる猿之助の背に、少女の声がかかった。
「どうしたの? 何かあった?」
 猿之助は、顎を引くと、ゆっくりと振り返った。
 そこには、粗末な麻の着物に、猿之助と同じように蓑を背負って、長い髪を襟足で束ねた少女が立ちあらわれていた。髪を束ねているものは、雪ざらしして白くした木綿の平紐だ。結びの形は、春の白い蝶に似ていて、歩くと羽ばたくように象徴的に揺れた。
 やってきた彼女は、凍てついた湖を背景に、手には籠を持ち、そこに朴葉で包んだ冬の保存食を納めていた。
「鬼が来たの?」
 少女は不安な顔をする。
 猿之助は、黙って首を横に振った。
「嘘。雪に、血が散ってる」
 彼女の足元、白い雪には、玖遠のふくらはぎから散った血が点々と残っていた。
 猿之助は、こめかみを掻きながら、空を振り仰いだ。
「それは、山南天の実だ。ほら、見てごらん、今年はまだ、あんなに残っている」
 小屋の手前、峠を越える道を両側から挟むようにして、立派な山南天の木が一対、向かい合って立っていた。高いところで枝が交差し、今、西日を受けて、鳥居のように、堂々とした姿で佇んでいた。そして、秋に真っ赤に色づいた小指の先ほどの実を、拳ほどの大きさの房に蓄えて梢に残していた。
「今年は、ずいぶん残ってるわね」
 少女が見上げて言う。
 猿之助は、断定的に言った。
「実がたくさん残るということは、此の世の鬼が減ったということに他ならない」
「そうかしら。逆に、鬼が増えたから豊作なんじゃない?」
 少女は苦笑いする。
 猿之助は答えず、山南天の赤い実を黙って見る。
 少女は返事を諦め、ため息をつくと、改めて赤い実を見上げた。
「わたしが里の宝を守り、あなたが境界を守る。鬼が、此の世から消えるまで、ね」
 猿之助は答えない。
 ただ、赤い実を見上げる。
 少女も、仕方なく赤い実を見上げている。
 そんな、ふたりの足元に、向こうの山の影が忍び寄ってきた。燃える夕日が、稜線にかかったのだ。いま、少女がやってきた急斜面を、大きな影が音もなく登ってくる。
 そして、異変は起こった。
 小屋に達した山の影が、小屋のたたずまいを、音もなく呑み込んだのだ。小屋は姿を霞ませ、消え失せ、そこには雪の積もった瓦礫が現れた。
 その影は、さらに進み、とうとう少女の背後に迫り、足元に届き、藁で作った雪靴を取り込んで掻き消した。
 踵が消え、くるぶしが消え、膝が消える。けれど、少女は異変に気づかない。猿之助も、あえて振り向かない。
 二人、並んで、山南天の赤い実を見上げる。足が影に呑まれ、腰が消え、影が少女の胸元にまでせり上がったとき、彼女は、もう一度、猿之助にため息を聴かせた。
「もしも、お務めの終わる日が来たら、私たち……」
 言葉は、静かに途切れた。
 猿之助は、目を伏せると、ため息をして振り向いた。すると、そこに少女の姿はなく、雪ざらしをした木綿のように白い、足元の雪の上に、山南天の赤い実がひとつ、落ちていた。
 猿之助はそれを、ただ、うなだれて見つめた。そんな彼のことを、影は刻々と呑み込んでいった。

 今は誰も訪れることもない、古い道の峠で、残照が、梢の赤い実を、静かに燃やしていた。そして、去りし日の光を演じた一対の木は、肩を並べ、凍てついた湖を見下ろして、未だ来ぬ春を思っていた。
 そう。
 いつか、務めが終わったら…….。
 彼らは、そんな日が来ることを、今も静かに待っているのだ。

  了
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み