第6話 ホタル狩り

文字数 3,480文字

 照りつけていた日差しは午後になって陰り、灰色の雲が空を覆い始めていた。

「……なあ、どうしても行くの?」
「虎穴に入らずんば、と言うだろう」

 何度目かの息子の問いに同じ答えを返し、父は荷物を車のトランクに詰め込む。
 一泊二日の久しぶりの家族旅行を母と妹が大層楽しみにしており、今更キャンセルは難しい。

(虎の子なんていらねえし)

 視矢は天気同様の陰鬱な面持ちで、手にした木刀を見つめた。
 向かう先は、あまり知られていない穴場のホタル観賞スポットだ。ホタル狩りに木刀を持っていくようセレナと来に念を押されたものの、本当に安全とは言い切れない。

 視矢のものとは別にもう一振り、車の中には神木から切り出された木刀が置かれている。普段は箱の中に仕舞われ、妖が絡む時のみ邪気祓いに使われてきた。
 父が神刀を持ち出す理由はただ一つ。何かが起きた場合、家族の楽しみに水を差すことなく、自ら魔を退けるつもりなのだろう。

「お前も、やっとやる気になったのかな」
「そんなんじゃねえよ」

 息子の木刀に目を向け、父が茶々を入れる。むすりとして元凶の木刀を父の木刀の隣に放ると、二振りの間に音を立てて火花が散った。

「……ってぇ。犬猿の仲か、こいつら」

 即座に手を放したのに、指先がじんと痺れる。神気と邪気。正反対の性質の二振りは互いに反発し合う。
 父は苦笑し、座席の下に転がった己の木刀を運転席の方へ移した。

 ちょうど玄関から出て来た母と真奈は、旅行にそぐわない男たちの持ち物に目を丸くする。
 母は何も尋ねようとしないが、妹は気になるのか兄にひそひそ耳打ちした。

「ねえ、なんでお父さん木刀なんて持ってるの? それにお兄ちゃんも」
「あー、虎が出るかもしれねえから」

 うっかり答えてしまうと、案の定真奈は神妙な顔で固まった。
 子供の頃、虎がバターになるという童話を読んで以来、真奈には虎が苦手というトラウマがある。

「冗談に決まってんだろ。剣道部の大将のくせに、怖がり」

 吹き出しそうになるのを堪え、妹の額を小突く。
 かつて物語の虎を怖がって泣きじゃくる幼い妹を必死に宥め、二度と妹を泣かせないと心に誓った。

(俺が怖がらせてどうする)

 視矢は己を叱咤する。今ではむしろ妹の方が強いとはいえ、守る立場は同じだ。

 二時間程車を走らせ、どうにか日が落ちる前に宿泊先の民宿に到着した。
 木々に囲まれた涼し気な景観に反し、大気が湿って生暖かい。晴れた日なら満天の星が瞬いていただろうに、あいにく厚い雲のせいで月も見えなかった。

「やはり、雨になるようだ」

 ラジオの予報を聞いて父が肩を竦める。
 最近は事あるごとに雨が降り、妙に雨に祟られている気がする。

「前に、お父さんと視矢と来た時も途中で雨になったわね」
「え? 俺、覚えないけど」
「お腹の中にいたのよ」

 怪訝そうな息子に母はくすくす笑った。
 二十数年前、結婚したばかりの両親は偶然この地を訪れホタルの美しさに感銘を受けたという。観光名所でもない場所を今回選んだのは、家族皆で思い出を共有したかったからかもしれない。

 用心の為の雨具と共に、父と視矢は木刀を携える。懐中電灯を照らす役目は母と妹。
 途中に人の姿はなく、民家の明かりも見えない。ただ静寂と湿気が田舎道を取り巻いている。

 体に纏わり付く湿気には閉口したものの、やがて目の前に開けたのは別世界だった。
 澄んだ小川が流れ、夜の闇にたくさんのホタルが舞う群生地。小さな光が踊る幻想的な情景に思わず見惚れてしまう。

「綺麗……」
「あまり川の側に行かずに見るんだよ。暗くて危ないからね」

 父が川辺に寄ろうとする真奈を止め、注意を促した。
 水場に近付かなくとも、ホタルはそこかしこにいる。他に見物客のいない草地は、視矢たちのみの貸し切りだ。

 辿って来た小道は木々が生い茂る林へと続いていた。昼間ならともかく、更に濃い闇が支配する森林はなんとなく不気味で近付き難い。

(……あれは)

 ふと暗がりに白い影が見え、視矢はぎくりとした。しかし目を凝らせば、白襦袢を来た人間だと分かる。
 林の奥へ歩いて行く二人の男女。白い着物が闇に浮かび上がり、おかげで彼らが誰なのか判別できた。

「親父! 母さんたちとここで待ってて。すぐ戻るから!」

 視矢は傍ら置いた木刀を手に取るや、返事も待たず駆け出した。
 あっという間に木々の向こうへ消える視矢を、家族は止める術もない。

「お兄ちゃんて、相変わらず」

 鉄砲玉のような兄に真奈が呆れて呟く。仕方ないわねと、母は休憩用のシートを地面に広げた。
 つい今しがたまであれ程飛んでいた光の乱舞が突如として止み、父は神経を張り詰め、木刀に手を掛けた。





 樹木の背後に身を隠しながら、見失わないように視矢は二人を後を追う。
 白装束の片方は、忘れもしない、ラブホテルの前で見かけたクトゥルフの信者の男。そしてもう一人はセレナ。彼女は後ろ手に縛られ、男に肩を押されて歩いている。

(おいおいおい)

 尋常でない様子に視矢は息を飲んだ。
 セレナの目的は、クトゥルフ信者たちの監視、あるいは牽制だったはず。彼女もここへ来るようなことを言っていたが、もしや失敗に終わり捕まってしまったのか。

 鬱蒼とした林の中程には、まるまる家一軒分の更地があった。中央に奇妙なオブジェが設けられ、異様な雰囲気を醸し出す。
 コウモリの翼を生やしたタコかイカを思わせるその像は、この世にあり得ない生き物を象り、ひどくおぞましい。
 像の側では白襦袢姿の男が五人集い、近付く二人をカンテラで照らした。

「彼女にも、血の契約を」

 短く告げて、同行していた男がセレナを引き渡す。男たちは、同じく手首を縛られた三十歳前後の女性と共にセレナを像の前に跪かせた。
 視矢は年長の方の女にも見覚えがあった。古本屋で時折店番をしていた若主人の嫁だ。

 古本屋の女は首を横に振り、恐怖に震える唇で拒絶の言葉を発し続ける。
 哀願に耳を貸さず、男たちは赤い液体を杯に注ぎ、飲め、と女の口元に寄せた。

「おい! やめろ!」

 木刀を握り締め、視矢は咄嗟に飛び出していた。
 得物があるとはいえ、複数の男を相手に勝てるだけの腕はない。けれど見てしまった以上、見捨ててはおけなかった。

「そいつを置いて、離れな。さもないと……」

 木刀で杯を指し示し、声を低めて睨み付ける。
 はったりが利かなければ、当然返り討ちに遭う。一か八かで、木刀を正眼に構えた。白装束の男たちは驚いた顔で予期せぬ乱入者を見つめている。

 視矢は平静を装い、一歩じりと前に踏み出す。全員は倒せなくても、セレナたちが逃げる間の足止めくらいはできるだろう。そう覚悟していたのに、木刀を目にした男たちは引き攣った叫びを上げると、一斉に転がるように逃げて行った。

「えっ!?

 余りにも盛大な引きっぷりに視矢の方がびっくりし、しばし呆然と佇んでしまう。
 明らかに、彼らは視矢の持つ木刀を恐れていた。何かの儀式の途中で、生贄二人をほっぽり出して走り去ってしまう程度には。

 なぜそこまで怖がるのかは知らないが、確かに厄祓いの効果はありそうだ。

「なんで、のこのこ付いて来たの!」

 唐突に、セレナが責めるような眼差しを視矢に向けた。一体どうやったのか、縛られていた縄を自分で解き、隣にいる女の手首も自由にしてやっていた。

「セレナ! 怪我は?」
「あるはずないでしょ。せっかく、こっちに従者を引き付けようとしたのにさ」

 すっと立ち上がり、男たちが逃げ去った方に目をやる。
 どうやら捕まって見せたのは作戦のうちだったらしい。心配で追って来たものの、そう種明かしされれば視矢も返す言葉がなかった。

「お義父さんが……、化け物、に……」

 途切れ途切れに古本屋の女が言葉を紡ぐ。セレナはいまだ足に力が入らない女を支え、淡々と告げた。

「アンタの義父は、もう人間じゃないよ。従者だ」
「……人間じゃない?」

 思わず問い返したのは、視矢の方だった。従者がどうのと聞かされても、どんな存在なのか実際に目にしたことはない。
 従者は既に人間ではない『化け物』。以前、真奈の部屋に黒い妖が現れた。もしかしたら、あれが従者なのだろうか。

「シヤは、早く家族のところに戻った方がいい」
「え」
「血の匂いがするよ」

 眉をひそめたセレナが、くいと顎で小川の方角を示す。意味を問い返す代わりに、視矢は弾かれたように元来た林の中を駆け出した。置いてきた家族に、何かあったのかもしれない。

「……間に合わないだろうけどね」

 小さくなる視矢の後姿を見送り、セレナは独り言のように呟いた。
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