第7話 契約

文字数 4,461文字

 木の枝であちこち切り傷ができるのも構わず、視矢は一心不乱に林を走り抜けた。心臓が痛い程脈打ち、鼓動の音が脳髄に鳴り響く。

(なんだよ、血の匂いって)

 無用の心配だと、笑い飛ばしてしまいたかった。どうせまたセレナにからかわれたに違いない。

 仮に妖が現れたとしても、父がいる。これまでと同様、父の神刀が魔を祓い、母を、妹を守ってくれるはずだ。視矢はそう自分に言い聞かせようとした。しかし、直感がセレナの言葉が真実だと告げている。

 家族といた草地にまで戻り、視矢は肩で激しく息をしながら、周囲を見回した。そこには誰の姿もなく、既にホタルも見当たらない。
 視矢が戻るのを待っていたのだろう。草の上にビニールシートが敷かれ、点けっぱなしの懐中電灯が転がっている。

 照らされた範囲に、家族は確認できなかった。代わりに視界に入ったのは、家族であったものの一部。
 シートの上には血だまりができ、赤黒い塊が幾つも付着していた。捨て置かれた父の木刀も、どろりとしたもので濡れている。

「……な、えっ、あ」

 状況を認識できず、視矢の口からは意味のない音ばかりが漏れる。家族から離れていたわずかの時間に、一体何が起こったのか。
 呆然と足を踏み出すと、何か柔らかいものを踏み付けた。靴の底で潰れたそれの飛沫が視矢の靴とズボンを汚し、草地にじっとり赤い染みが広がった。

「う……、ぐ! ゲホ……」

 視矢は口元を覆って咳き込んだ。意識せず涙が溢れ、嗚咽なのか吐き気なのか自分にも分からない。原型を少しも留めていない家族の断片が、不調法な食事の後のようにそこかしこに散らばっている。

 顔が火照り、喉が渇きすぎてひりひりした。なのに、両眼から体の水分が零れ落ちていく。
 正常な感情も感覚も働いていなかった。水が欲しいという本能だけが機械的に視矢の体を動かし、小川の方へふらふら歩く。

 澄んでいた水も今や朱に濁っている。水辺に近付いた時、川面から宙に伸ばされた腕が視矢の目を引いた。
 白く細い腕の手首にはブレスレットがはめられ、銀色の装飾が水滴を纏ってきらめく。ブレスレットは、今日妹が身につけていたものだ。

(……真奈!?

 膝までしか水かさのない浅い小川に、視矢は思わず飛び込んでいた。水しぶきを上げて駆け寄ると、ぼこりと水面が盛り上がる。
 浮き出たのは、見たこともない生き物だった。ぶよぶよした外観は大きな黒いくらげに似て、アメーバのように不定形で腐臭を放つ。

 真奈の腕は彼女の体ではなく、その黒いものから生えている。骨を砕く嫌な音を立てながら塊の中に飲み込まれていく妹の腕を、兄は為す術なく見つめた。

(こいつ、が)

 血が沸き立つ程の激しい怒りが全身を巡る。恐怖より憎悪の方が遥かに強かった。
 漂う邪気は以前も感じたことがある。妹の部屋にいたモノだ。この化け物が馴染みの古本屋の主人だとは信じ難かったが、正体など、もはやどうでもいい。

「う、ああああああっ!」

 唸るような叫びを上げて、木刀を従者の真上から叩き下ろす。剣道の構えを忘れ、がむしゃらに振った。
 通常の打撃では歯が立たないが、視矢の持つ木刀は強大な瘴気を纏う。力任せの一撃を受け、人外の存在はばらばらに四散し強烈な腐臭を撒き散らした。
 視矢は水中に散らばった肉片を眺め、苦し気に肩を上下させる。

 たまらなく喉が渇いていた。体の熱ばかり高まり、水が飲みたいと思う以外、他の感情が機能していない。心は完全に制御の域を超えた状態で、まだ狂わずに済んでいるのは、皮肉にも憎しみが大きいゆえだろう。

 川底には持ち主のないブレスレットが沈んでいる。拾おうと手を伸ばした視矢は、不意に腹部に走った鋭い痛みに呻いた。
 何が起こったのか、己の状態がすぐには理解できず、ぼんやりと視線を落とす。

「……え」

 腹に手をやると、あるべき感触がなかった。
 手の甲から木刀に伝い落ちるものは汗ではない。ぬるりとした鮮血が木刀を赤く染め、体の中を冷ややかな風が吹き抜けていく。内臓が、ない。

 えぐり取られた腹からは血が滴り落ちている。なのに、激痛は襲ってこない。なぜ自分は立っていられるのか、まったく不思議だった。生きているのがおかしい程、身体が損傷しているのに。

 視矢が顔を上げた時、人間と同じくらいの大きさのカエルが目の前にいた。盛り上がった目と灰緑色の肌を持つその生き物は、明らかに先程の黒いモノとは格が違う。
 カエルの化け物は形容し難い鳴き声を上げ、声は言葉となって視矢の頭に流れ込んだ。

 化け物は語り掛ける。
 此れは、水の邪神クトゥルフの眷属『深きもの』。眷属は深海で目覚めの時を待つクトゥルフの代行者として動いている。
 視矢が持つ木刀は、水の属性の眷属は触れることができない。異界の門を開けるため、木刀を扱える者を必要としている、と。

 人の身を捨て、永遠の命を手に入れたくはないか――。
 邪神の思念が、深きものを通して伝わってくる。

「ふざけんな! 誰がっ!」

 悪魔の誘いを視矢は怒りに燃える瞳で憎一蹴した。家族を殺した敵に従属するくらいなら、ここで死んだ方がいい。
 迷わず木刀で打ち掛かるも、易々と弾かれ、逆に鋭い水の刃で切り裂かれる。それでも鬼気迫る形相でまた向かっていった。

 とうに腹には風穴が開いている。今更どれだけ血を流そうと同じだ。
 深きものは諦めの悪い人間の反撃を軽くあしらった。片足の腱を切られた視矢は、大きく水を跳ね上げ頭から倒れ込む。

 ずぶ濡れの体が、水かきのある手で首を掴まれ、持ち上げられた。首の骨がきしみ、呼吸できない苦しさに意識を手放しかける。その時突如、ギャと耳障りな唸り声を上げて化け物の手が緩み、視矢の体は再び水に落ちた。

 見れば、化け物が手首を切り落とされてのたうち回っている。吹き出す緑色の体液が、水面で赤と混じる。身動きできずにいると、誰かにぐいと腕を引き上げられた。

「水は飲むなよ」
「……お前」

 感情の籠らない声を耳元で聞き、視矢は思わず目を凝らす。
 オーガストで一度会ったきりでも、顔はよく覚えていた。司門来と名乗ったセレナの同僚の男だ。

「スーツ……、汚れるぞ」
「そういう問題でもないと思うが」

 こんな場所でスーツを着てネクタイを締めている男。泥水と血で服が駄目になる心配はしていないらしい。そもそも、どうしてここにいるのか。
 視矢は舌打ちして、訳の分からない無表情の男の手を振り払った。木刀で体を支えれば、なんとか自力で立てる。

「眷属ならお前向きだ。やれるな、ナイ?」
「しょうがないね」

 警戒する視矢を気に留めず、来は誰に向けるでもなく確認を取り、彼自身が答える。
 奇妙な一人芝居のそれは、まったく別の人間二人が話しているように感じられた。了承の返事とともに、来の表情や口調が切り変わる。

「今日は結構働いたからさ。さっさと終わらせて、休ませてもらうよ」

 その特徴的な話し方に視矢は別の人物を思い起こした。ナイと呼ばれた男の姿が、なぜかセレナと重なる。

「気付いた? こっちが本当のボクだよ」
「え……」

 視矢に目をやり、ナイは面白そうに首をかしげて見せる。同じ一つの体に、来とナイという二つの人格。いわゆる二重人格なる症例があることは視矢も知っている。

 こちらが本当の自分だと言うナイ。その意味は正常な状態なら問い詰めるところでも、そこまで頭は機能していなかった。今の視矢の心には、化け物に向けた憎しみしか残っていない。

 手首を切られた深きものはナイを恐れ、水の刃を続けざまに放って、その隙に異界へ逃れようとしていた。ナイは邪魔だとばかりに視矢を押し退けると、右手を前に突き出した。

「逃がすわけないじゃない。悪あがきだね」

 薄く笑みを浮かべ、ナイは苦も無く水の刃を蒸発させた。凄まじい瘴気が周囲に広がり、空気を焼く。火傷しそうな熱量を持った漆黒の淀みがナイの掌の先から溢れ出て空間を覆った。

 淀みは、まるで怪物の巨大な口だ。漆黒の奥では、目玉のある黒い触手が何本も蠢いている。そうして見る間に、触手は深きものを捕え貪り尽くす。

 酷くおぞましく恐ろしい光景だった。無残に捕食されるカエルの化け物を、視矢は何の感慨もなく見つめた。感覚は麻痺し、恐怖は感じない。ただ、あの黒い触手がこちら側へ出てきたなら、地獄に変わるだろうと取り留めなく思う。

(もう、十分、地獄、か)

 幸い、黒い淀みは深きものを消化し終えると、留まることなく消えた。視矢は赤く濁った小川に視線を落とし、のろのろと穴の開いた腹部に手をやる。憎しみの対象がいなくなり、体は文字通り抜け殻だ。

「すまない。結界を張れと、ナイに言い忘れた」
 
 先程までナイだった男が、振り向いて視矢に詫びた。酷薄な雰囲気はすっかり鳴りを潜めている。来に変わったのだろう。

 瘴気の余波を受けて視矢の肌は酷く焼け爛れていた。何のことを言っているのか分からなかったが、木刀を持った自身の腕を見て、ようやくそのことに気付く。

「とりあえず川から出よう。歩けるか?」
「……多分」

 気遣いの言葉を掛けてはいても、無表情の男からは少しの情も感じられない。
 脚に力の入らない視矢を半ば引きずる形で、来は水のない場所まで上がった。血肉に汚れたビニールシートの方は避け、柔らかな草の上に視矢を寝かせる。

「今後について、選択肢は二つある。人として死ぬか、邪神と契約して生き伸びるか」
 
 相変わらず抑揚のない口調で来が告げる。視矢は荒い息を吐いたまま、運命の宣告を他人事のように聞いた。体に痛みの感覚が戻りつつある。

 本当なら即死のはずの体は、手にした木刀の力で命が繋ぎ止められていた。邪神と契約を交わさなければ、そのうち心臓が止まる。
 そう聞かされても、死への恐怖は感じなかった。

(クトゥルフと契約なんて)

 瞳に憎しみを宿し、視矢は強く唇を噛んだ。生き永らえる理由など、仇討ちのためしかあり得ない。

「邪神はクトゥルフだけではない。その木刀を扱えるなら、ハスターとの契約も可能だ」
「ハ……スター?」

 ふと来が林の方に目をやった。風が出て来たのか、さわさわと草木が揺れている。
 葉擦れの音を聞きながら、視矢は重い瞼を下ろした。

 空気が動いて、来が立ち上がる気配がした。と同時に、掌に固く冷たいものが置かれる。
 閉じた瞼を持ち上げる力すら残っていなかった。指先で形を確かめた視矢は、それが真奈のブレスレットだと気付いた。川底から来が拾っておいてくれたのかもしれない。
 
(……許さねえ、絶対に……クトゥルフ)

 形見となったブレスレットを握り締め、胸の内で呪詛を繰り返す。水の邪神への怒りと憎悪が心を黒く染めていた。

 人としての生は望まない。復讐を果たせるなら、命だろうと魂だろうと差し出す。
 視矢は消えかける意識の奥底で、自らに誓いを立てた。

 一段と風が強まり、大きな鳥の羽音が静かな草地に響き渡る。
 やがて降り出した雨は一晩中止むことなく、その夜の惨劇の痕跡を洗い流した。
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