十五 事件当夜

文字数 10,703文字

「さあ、祝いの続きだあ!」
 娘の綾と欽司の披露宴が終り、新郎新婦と身内を連れて小料理小夜に向う勇造は、子供のようにはしゃいでいた。
「これで欽太郎との約束が果せたぜ。それに、もうじき先生たちがここに帰ってくるんだからなあ!」
 幸一は披露宴の後、
「遺産を全て受け取ったから、もうじき戻れそうだ」
 と話していた。
 春江は幸一と康子に会うたびに、このまま二人がここに戻り、いつまでも勇造や欽司、大森の後ろ盾になってくれたらどんなに良い事かと思っていた。二人が浅草に戻るのは欽司の結婚と合せて二重の喜びだった。

 小料理小夜が近づくと、でっぷりした小柄な男が夕日を浴びて立っていた。
「兄だ・・・。僕と康子が相手する。ひとまず店に入ってください」
 幸一は遠目に幸雄を確認して、春江と勇造に言った。
「わかったわ・・・」
 最近の岡田幸雄は電話やパソコンで穀物を買い付けていた。都内に来るのは年に一度、商社と打ち合せする時だけで、これまでの習慣から秋である。この季節に幸雄がここにいるのは妙だった。幸一に返事をしたものの春江は不安に思った。
「でも、何しに来たのかしら?」
「まったく、めでてえ日が台無しじゃねえか・・・」
「あんたっ。今日は抑えてくださいよっ。めでたい日なんだから」
 妻の典子に口止めされ、勇造は慌てて口を押さえている。

 春江は店の前で幸雄に会釈した。
 幸雄は相変らず無愛想に分厚い唇をへの字に曲げて、どこを見ているのかわからない細い眼で虚空を睨んだままだった。
 亡霊のように佇む幸雄をそのままに、春江は店の横から裏へ回った。裏口の鍵を開けて内へ入り、店の引き戸と格子戸の鍵を開けた。
 もしかして、幸雄は康子たちがここに来たのを知って、後を追ってきたのではないか?
 身内を中に入れる間、春江はそう思った。


「欽司。綾。こっちにしようぜ・・・」
 店に入った勇造夫婦は、新郎新婦たちと入口に近い座敷に上がった。
 勇造が入口近くに陣取ったのは、何かあっても幸雄をすぐには店から出さないと警戒しての事と思え、春江は幸一と康子に奥の座敷を使うよう示した。
「先生。奥を使ってね。すぐ、酒と肴を、康子に運ばせるから。ねっ、中へ」

 めでたい日に無粋な事があってはならぬと考えたのか、幸一は格子戸の近くで勇造たちが席に着くのを待っていた。
 美奈が用意した酒を、康子が通路を隔てた奥の座敷へ運ぶと春江は幸一に目配せした。
 幸一は外に立つ幸雄を呼び、店の奥へ歩いた。
 ガニ股の幸雄が入口側と中央の座敷の横を通ると、一瞬、座敷が静まった。

「康子。ひとまずこれを・・・」
 勇造たちの座敷へ運ぶ物とは別に、春江はお盆に三人分の肴と吸い物を用意した。
 その間も大森や勇造、それに欽司もが調理場に入り、奥の座敷の幸雄を警戒しながら、自分たちの肴を作り、酒に燗をつけ、ビールを運んだ。
 身内だけなら春江は男たちにこんな手間を焼かせなかった。女たちで手分けして酒と肴を用意した後、女たちはカウンターに集まり、時が過ぎるのも亭主も忘れ、世間話や身の上話に花が咲くのが常だった。

 奥の座敷に康子が肴と吸い物を運ぶと、春江の耳に幸雄の訛声が聞えた。
「うるさくてかなわん。そこを閉めてくれ・・・。」
 勝手に祝いの日に押しかけ来て、うるさいなどと言えるはずがない。追い出して清めの塩を撒きたいくらい春江は腹立たしかった。
 春江の気持ちを知ってか、障子を閉める康子は、春江と美奈を安心させるように微笑んで会釈した。

「だいじょうぶかしら?」
 美奈は閉じられた障子を心配そうに見つめている。
「先生のことだもの大丈夫よ。それに、これだけ身内がいるんだもの、何もできないわ」
 入口側と中央の座敷は障子が開け放たれ、座敷同志を隔てる特注の襖が外されて賑っている。その賑いに奥の座敷から訛声が漏れ、幸雄はいつになく静かだった。
 しばらくして奥の座敷の障子が開き、康子が出てきた。酒の追加だろうと春江は湯から銚子を上げた。
 座敷を出た康子は通路を歩きながら、
「今日は穏やかよ。たまにはタバコでも吸ってみるかだって・・・」
 とタバコを欲しがる幸雄を話し、
「幸さんもタバコを切らしたから・・・」
 と言ってカウンターの前に立った。

 春江は奥の座敷の障子が閉まっているのを確認し、銚子を湯に戻して小声になった。
「先生から聞いたけど・・・、全て受け取ったのかい?」
「ええ、全額。大森さんに話しといたわ。幸さんが、明日、こっちの銀行に入れるって。
 これで、美奈や姉さんたちと暮せる・・・」
 ここ浅草に美奈を残したまま長野へ移り住んだ年月を振り返ったのか、康子はタバコを受け取りながら美奈を見つめ、すまなそうに肩を落として、
「長かったけど、やっと決着がついたわ。迷惑かけたね・・・」
 と呟いた。
「二人が戻れるのは、とってもうれしい・・・。ほんとよ。
 けど、康子母さん。幸一郎と幸子は承知しているの?」
 康子はカウンターの椅子に腰掛けて、奥の座敷の障子を見て目配せした。
「幸一郎はあいつのせいで、あんな調子だから、こっちの方がいいのよ・・・」
 その眼差しは、医師国家試験を何度も失敗している幸一郎に、幸雄がどんな態度をとったか暗に示していた。

 春江と美奈は、子供たちを罵倒する幸雄を頻繁に康子から聞いている。そして、勇造の小沼一家の時代から、脅しや金では人が動かないのを何度も見ている。何が人を動かすのか、幸雄はまったくわかっていなかった。
「幸一郎もそう思ってるの・・・。
 幸子は大学を出たら、長野に戻らないって・・・」
「それなら早い方が・・・」
 春江が言いかけた時、奥の座敷の障子が開いた。座敷からお盆を手に幸一が出てきた。
「熱燗を頼みます」
 幸一は披露宴でかなり飲んだはずなのに、酔った様子が少しもなかった。書き物の合い間にお茶を一杯飲むように、空の銚子が乗った盆を美奈にさし出した。
 美奈はお盆を受け取った。
「幸一父さん。体調はいいの?疲れてないの?」
「ああ。体調を整えてあるから心配ないよ」
 幸一は穏やかに言った。
「近頃、とっても元気よ。いい事ばっかりだから。
 ああ、そうそう、美奈と姉さんに似合う髪飾りを見つけたから・・・」
 康子はカウンターの潜りを抜け、店の奥から小さな包みを持ってきて、
「式の前に渡しても良かったけど、髪型に合った髪飾りをするだろうから・・・」
 と美奈と春江に渡した。

 春江は、これまで美奈が実の両親と話す機会があまりなかったのを思い出した。熱燗の銚子を用意しながら、
「久しぶりなんだから、座敷を気にしないで、しばらく三人で話せばいいわ。
 肴は何がいいかしら?」
 と言って奥の座敷に目配せし、カウンターの椅子に幸一を座らせた。

 しばらくして幸一と康子が座敷に戻った。
 身内の座敷から勇造が出てきた。酔いのまわったふらつく足どりで椅子に腰掛け、上機嫌で春江に、
「冷を頼むぜ」
 と言った。
「兄さん。大丈夫?飲み過ぎないでね」
「欽司は、先生と康子が気になるからと言って飲まねえ。てめえの、めでてえ日だってのによお・・・」
 春江は勇造の話を聞きながら棚のグラスを取った。
 春江がグラスに冷酒を注ぐ間、勇造は奥座敷の閉め切った障子を見ながら話し続けた。
 美奈は勇造の好物の干物を焼いている。
「今日限りで、先生も康子もうちの重役だな・・・」
 勇造は閉め切った障子戸の向こうにいる幸一と康子に話すようにそう言った。娘と欽司の結婚に加えて幸一の件もあり、勇造は喜びを隠せなかった。

 突然、奥の座敷から、
「お前が幸一を騙した!お前らに縁の無い所なのに、こそこそ来やがって!」
 と幸雄の怒鳴り声が響いた。
 同時に、
「ウッ!」
 と呻き声が聞え、器が飛び散る音がした。
「発作よっ!幸さんしっかりしてっ!」

 春江の手から冷酒のグラスが調理場の床に砕け散った。
 美奈はすばやくカウンターの潜りを抜けて奥の座敷へ走り、障子を引き開けた。
 駆けつけた勇造と欽司、大森と春江たちは、ひっくり返った銚子や器にまみれて座卓に突っ伏す幸一を見た。
 幸雄が幸一に向って細い目を大きく剥き出して怒鳴った。
「発作などと、ごまかすんじゃないっ!」
 興奮から幸雄のむくんだ顔と分厚い唇が赤と紫の斑に変っている。
「先生っ!発作かっ?」
「幸さん!幸さん!」 
 康子は髪を振り乱して幸一の肩を揺すっている。だが、幸一は身動き一つしない。
「薬がどこかに転げた!探して!薬を探して!」
 康子が春江に叫んだ。

 日頃から幸一は、
「過労で心臓が弱っている」
 と言って、白い錠剤を持ち歩いていた。
 春江と美奈は慌てて座敷を探したが、薬は見当らない。
「薬は飲ませた・・・。どこにも、ありはせぬ・・・」
 康子の腕の中でぐったりしている幸一と、薬を探す美奈と春江を見て、幸雄は冷ややかにそう言った

 幸一の腕を取った大森の指先に、弱々しい鼓動が不規則に伝わってきた。大森は幸一の鼻と口に耳を近づけて息遣いを聞いた。
「息をしていないみたいだ・・・。脈が止まりそうだ!」
 呼吸は浅く聞き取れず、指先に伝わる鼓動がさらに弱まっている。
「お願い!薬を探して!幸さんが倒れる時、腕を払われてどこかへ飛んでったの!」
 畳を這いずりまわって薬を探す春江と美奈に、康子は泣きながら叫んだ。

「この野郎っ!、先生の薬をどこへやった?」
 勇造は幸雄の襟首をつかんで揺すった。
 幸雄は揺すられるまま壁を見て勇造と目を合せない。
「薬は飲ませた。あるはずがない・・・。長野に連れて帰る。車を用意しろ・・・」
「馬鹿言うんじゃねえっ!春江っ!救急車を呼べっ!」
 幸雄の首を締め上げながら、勇造は薬を探す春江に言った。
「きさまっ!幸一を殺したいのかっ!
 幸一の発作は、この辺の医者では、何もわからんぞ!」
 勇造は何も言えなくなった。襟首を掴んだまま幸雄を睨みつけ、
「欽司!俺の車を持って来い!」
 と叫び、すぐさま欽司が店を飛び出した。
「勇さん!・・・呼吸が止まった。脈もない・・・」
 大森が顔を上げて勇造を見た。
「そんなのない!そんなのない!」
 康子は幸一をさすっている。
「幸一は死んではおらん!離せ!」
 幸雄は顔を真っ赤にして目を剥き出し、力任せに勇造の手を振り払った。
「どけっ!」
 と大森と康子を突き飛ばし、幸一の首筋に手を当て、鼻に耳を近づけて、薬を探す春江と美奈を見て、
「生きてるじゃないか・・」
 と薄笑いを浮かべている。

 幸雄がやけになっている。先生が死んだのか?
 春江の疑問に答えるように、大森が首を横に振った。
「いや、死んでる・・・。脈も呼吸も止まってる・・・」
「生きておる!近づくな!俺の弟だ!俺が連れて帰る。俺が運ぶと言ってるだろうっ!」
 幸雄は腕をふり回して康子と大森を遠ざけた。春江と勇造の前に立ちはだかり、上着を脱いで幸一にかけた。そのまま幸一を背負い、座敷を出た。
 勇造の身内が取り巻くなか、幸雄は入口へ一歩、また一歩と歩いた。
 康子は背負われた幸一の顔を覗きこみながら、幸雄の後を追った。
「先生は死んでいる・・・」
 身内の者たちから囁きが聞え、勇造は放心して立ちつくした。

 春江は何も考えられなかった。何かが手を締め付けるのを感じ、見ると美奈がしっかり春江の手を握っている。
「幸一父さん・・・」
 幸一の後姿を見送る美奈の声が途切れた。

 欽司の運転する車が店の前に停まった。
 幸雄は幸一を車の後部座席に乗せると康子も車に乗せ、車内で何か話して店に引き返してきた。手を春江と大森の前に突き出し、
「幸一が、あんたらに、長野に来て欲しいと言っておる。二人の切符だ。これで長野まで来てくれ。新幹線なら車より早く着く。慌てんでいい」 
 と幸一と康子の切符を春江に渡した。午後八時前だった。


「これが、あの日、ここで起こった事です」
 春江の説明が終ると相田は言った。
「ここからは、取材を重ねてきた松浪が事情を詳しく把握しているのから彼が質問します」

 松浪が質問した。
「欽司さん。小料理小夜を出てから長野に着くまでを話してください」
「はい・・・」
 欽司は膝を握り締めたまま話しはじめた。
「岡田は、
『八時半過ぎの新幹線で一足先に長野に帰り、病院の手配をする』
 と言いました。上野駅までの車内で、
『先生の発作に冷えがいけないから暖房して、暑くても暖房を切るな』
 と言いました。
 死人に今さら薬も暖房もあったもんじゃねえ。この野郎、何を考えていると思いましたが、涼しい日でしたから、言うとおりにエアコンを暖房にしました。時計は八時をまわってました。上野駅は目の前でした・・・。
 上野駅で岡田を降ろして、九時近くに関越道に入りました・・・。
 順調に走っていると、康子姐さんが先生の口元に耳を近づけているのがルームミラーに映りました。そして、やっと聞き取れるかすかなが聞こえました。空耳かなと思いましたが、確かに先生の声でした・・・」

「何と言ってましたか?」
「おれは、ころされる・・・。きをつけろ・・・」
 そう話した欽司は、先生はあの時生きていたと思った。欽司の目に涙が溢れ、膝頭の手に力が入った。
「ほかに何か話しませんでしたか?」
「康子姐さんが、
『眠らないで!眠ったら、だめ!目を開けて!』
 と言うと、
『ああ、眠らない。り・ん・しょ・・・』
 と言う声がして、康子姐さんが先生を揺すり、頬を叩き、
『眠らないで!』
 とくりかえし言っていました。先生は酷く眠そうでした」

「何時に医院に着きましたか?」
「高速を降りて、川中島の医院に着いたのは十二時半近くでした。春江姐さんたちと岡田が駐車場に立っていました」
「四時間以上かかって長野に着いたんですね・・・。先生を乗せた車の車種は何です?」「俺のグレーのクラウンだ」
 欽司に代って勇造が答えた。
「膝を曲げれば、先生が充分横になれますね・・・」
 松浪は呟くように言って手帳にメモし、春江を見た。

「新幹線で長野へ行ったのは、春江さん夫婦だけですか?」
「ええ、私たち二人です。一緒に行くと言う兄を大森が止めたんです。娘の結婚の日だったのにあんな事になって、その上、欽司が出かけて兄までいなかったら・・・。
 兄は、それじゃ先生が浮ばれないと喚きましたが、まだ死んだわけではありませんでしたから・・・」
 小沼興業の今後もあった。勇造が長野へ行って、幸一から、直接、会社の行く末を聞くに越したことはなかった。でも、あの日は勇造の娘・綾の結婚だった。新郎の欽司が出かけて父親までいなかったら、綾がどれだけ惨めな思いをしただろう・・・。
 仮に勇造が長野へ行ったとしても、先生が死んでいたなら、兄のことだから長野で逆上して幸雄に何をしたかわからない。あの日に限って絶対そんな事をさせてはならなかった。
 やはりあの時、私は、先生が死ぬと思っていた・・・。
 春江は幸一の死を覚悟していた自分を思い出した。

「だがよ。あの時、先生が車の中で生きていても、果たして、長野まで持ったかわからねえぜ。この店で幸さんを見る岡田の目つきが、完全に変ってた。死人を見る目か、それなりに覚悟を決めた目つきだった。
 都内の病院に担ぎこみゃあ、先生は助かっただろうに、あの野郎が先生を殺したも同じだぜ」
 勇造は悔しそうに目を伏せた。

「春江さん。ここを出てからの事を話してください。その前に質問しますが服装はどうしました?結婚式の礼服のままでしたか?」
「窮屈なものですから、美奈がタクシーを呼ぶ間に急いで着がえました」
「先生たちは長野から礼服で来たのですか?」
「いいえ、ここに宅配便で礼服を送って普段着で来ました」

「わかりました・・・。
 当日、春江さんは髪をどうしていました?今と同じでしたか?」
「いいえ。黒く染めてました。今は染め戻して以前のようにしていますが・・・」
「ここを出てからの状況を話してください」
「美奈がタクシーを呼びましたが。混んでいたので、兄の奥さん・典子さんの弟が酔っ払い運転を承知で、私たちを上野駅まで送りました。
 駅に着いたのは九時過ぎです。新幹線あさま五五一号が出た後でしたから、次の五五三号、二十一時三十四分発で長野へ行き、長野に着いたのが十一時過ぎでした」

「川中島の医院に着いたのは?」
「十二時近くでした」
「医院に、誰かいましたか?」
「灯りは消えて医院に誰もいないようでした。医院でタクシーを降りると、駐車場の隅の黒い車から岡田が出てきました。
『病院の手配をしてきた。特別の薬をもらったから今晩は様子を見る』
 岡田はそれだけ言って、また、車に乗り込みました。

「欽司さんはいつ着きました?」
「私たちがついて、三十分ほどしてからだったと思います。うちの人と一緒に近づくと、岡田が自分の車から飛び出してきて、
『弟は俺が面倒をみる。近寄るな!』
 と言って私たちを車から遠ざけました。車を降りて後ろのドアを開けようとした欽司も、
『離れてろ!』
 と岡田に突き飛ばされました・・・」

「岡田幸雄はこの店でも、一人で先生を車に乗せましたね・・・」
 自分を納得させるように呟いて松浪は続ける。
「奥さんはどうしていました?」
「岡田が私たちと欽司を遠ざけたままドアを開けました。念を入れた様子で康子に何か話し、先生を車から降ろして背負いました。岡田が先生を運ぶ間、康子は放心状態でした。私が話しかけても何も返事しませんでした。私たちに、
『下がってろ!近づくな!』
 と言う岡田の言いなりで、医院の玄関を開けて、そそくさと岡田に先生を運び込ませたんです。
 岡田に、近づくなと言われても、そのままではいられません。私たちが医院に入ろうとすると、奥から康子の怒鳴り声が聞えました。何度も、
『出てゆけ!帰れ!』
 と怒鳴り声がして、廊下を転がるように岡田が玄関へ走ってきました。そのすぐ後から、髪を振り乱した康子がバットを持って廊下に現れ、岡田に向って、また、
『出てゆけっ』
 と怒鳴りました。
 玄関の岡田はすばやく靴を持ちました。顔に笑いを浮かべて、
『薬を飲ませたから心配ない。浅草ではああ言ったが、今日のところは帰ってくれ』
 と言いました。
 そう言われてもそのまま帰れません。医院に上がろうとすると、
『心配ないと言っているんだっ!』
 と怒鳴って、岡田は持っている靴を私たちに投げつけました。
 岡田との押し問答を見て、いったん奥へ引っ込んだ康子が玄関に駆けつけました。
『そう言うお前こそ、すぐ帰れ!二度と来るな!出てゆけ!』
 とバットを振り上げて岡田に叫び、私たちには穏やかに懇願するように、
『姉さん。お願い。今日は帰って・・・』
 と言いました・・・」
 玄関に仁王立ちになった康子は、怒りと諦めの混じった複雑な表情をしていた。
 春江その時の康子の顔を忘れなかった。
「それだけですか?」
「ええ。康子がドアに鍵をかけたものですから、しばらく駐車場にいたんですが、岡田が帰ったので、私たちも帰りました」

「ありがとうございました・・・」
 そう言って松浪は手帳を見て何か考えている。
 しばらくして松浪が言った。
「確認します。医院に欽司さんが運転する車が着くと、岡田幸雄は一人で先生を運んだ。重かったでしょうが、誰の手も借りずに一人で先生を寝室へ運び、
『薬を飲ませたから心配ない。帰ってくれ』
 と言ったが、岡田幸雄が先生に薬を飲ませるのを誰も見ていませんね?もし、誰か見ていたとすれば、それは奥さんだけですね?」
「ええ、そうです」
 と春江は答えた。

「岡田幸雄だけでなく、奥さんまでが皆さんを追い返したのは、なぜだと思いますか?」
 眼鏡の奥の松浪の目は澄んでいる。綺麗な目だと春江は思った。
「康子に、何か考えがあったように思います・・・」

「先生が薬を飲みはじめたのは、いつからでした?」
 松浪の問いに美奈が答えた。
「はっきりしませんが、十年くらい前からだったように思います。先生は、
『近頃、過労で、心臓が弱っているんだ・・・』
 と言って、カウンターで白い錠剤を飲みました。
 先生が私の前で薬を飲むのは初めてでした。薬に頼るくらいなら酒を飲まなければいいのにと思いました。先生らしくないと思ったのを覚えています」

「その頃、新薬を開発しているような話は、出ませんでしたか?」
「薬の話は、先生の薬の話くらいだったように思います」

「先生はいつも酒を飲んでいましたね。本当に心臓が悪かったと思いますか?」
「いいえ。とても、心臓が悪いようには見えませんでした・・・・。
 幸一父さんは、心臓が悪いと言いながら、ずいぶんお酒を飲みました。ここに来た時はいつもでした。そして、タバコも。だから・・・」
 カウンターの椅子に座って朗らかに笑う父・幸一を思い出して、美奈は目を伏せ、
「・・・これを・・・」
 と言って、帯の間から透明なプラスティックの小さなケースをとり出した。座卓に置き、すっと相田の前にケースを押した。
 ケースには白い錠剤が三錠あった。
「座敷の隅から、幸一父さんの薬が見つかったんです・・・」
 そう言ったまま、美奈は相田を見つめている。そして思い出したように、
「でも、幸一父さんがいつも飲んでいた薬と、どこか違うんです・・・」
と言った。
 幸一が飲んでいた錠剤はかなり平たい楕円体の錠剤だった。それは春江も覚えている。しかし、座敷の隅から見つけた錠剤は膨らみがあって球に近く、幸一が飲んでいた錠剤とは違うと美奈は主張した。

「先生の薬ではなく、他のお客の物との可能性はありませんか?」
「それはありません」
「どうしてですか?」
「八月二十九日は店はお休みでした。披露宴が終ってここに戻るまで、誰も座敷に上がっていません・・・・。
 前日、私が隅々まで掃除機で掃除をしました。拭き掃除もです・・・。
 ああ、変に思わないでください。あの日は欽司と従妹の綾さんの結婚式で、特別な日でした。特に念入りに掃除しました・・・。
 披露宴の二次会のように思うでしょうが、私たちにとって、身内だけの披露宴はとても大切なんです。ですから、塵一つ残さないように掃除したんです」

「わかりました・・・」
 松浪は相田を見た。
 相田は松浪に頷き、美奈に言った。
「この錠剤を長野県警に渡して調べたいが、持っていっていいでしょうか?」
「相田さんの好きになさってください・・・」

 松浪は春江に質問した。
「質問が変りますが、岡田幸雄が何か言ってきませんでしたか?」
 昨日午後。長野県警の佐々木刑事が岡田発酵を訪ねて岡田幸雄から事情聴取している。
「今日の昼、電話が来ました。岡田の所へ刑事が聞き込みに来たから、こちらにも来るだろうとです。あの日、ここに先生と幸雄が来た事を話すなと言っていました」

「それで、何と答えました?」
「今朝、刑事が来て、あの日にあった事を全て話したと言いました。ちょっとからかったんです。幸雄は怒り狂って、皆、共犯になるような事を言って電話を切りました」

「共犯になると言ったんですか?それとも、共犯を匂わせる言い方だったんですか?」
 松浪が深刻な顔になった。
 岡田幸雄から共犯の言葉が出ていれば、岡田幸一医師は岡田に殺された事になる。
 春江は首を横に振った。
「共犯になる事をほのめかしただけです。皆が疑われると言いました・・・」

「わかりました・・・。
 欽司さんは岡田幸雄から、
『先生の発作に冷えがいけない』
 と言われ、何時までに長野に着くよう指示されましたか?」
「十二時過ぎです」

「先生が倒れたのが八時前。やはり、四時間以上になるな・・・」
 何か気になるらしく、松浪は手帳を見ている。
「車内で先生が何と言ったか、もう一度説明してください」
「『おれはころされる。みんなきをつけろ』
でした。それから確か『りんしょ・・・』とか聞えました」

「おそらく『臨床』でしょう・・・。
 皆さんに聞きます。先生がここで亡くなって、皆さんが困る事がありますか?」
 松浪が質問を変えた。
 小料理小夜で岡田幸一医師が亡くなって困る者は、誰もいなかった。

「何のために春江さんと大森さんは新幹線で長野へ行ったのですか?
こんな聞き方は変ですね・・・・。
 どんな気持ちで、長野へ行きました?」
「先生が死ぬかもしれない。最後の一言を聞いておかねばとの思いはありました。美奈の事や兄の会社の事、この店の事がありましたから・・・」

「先生は小沼工業の筆頭株主ですから、無理ありませんね・・・。
 医院で岡田から、
『薬を飲ませたから心配ない』
 と言われて、どう思いました?」
 松浪は春江、大森、欽司の三人を交互に見ている。
 春江が言った。
「先生の発作は以前も見ていましたから、正直言って安心しました。あの場に康子もいたものですから・・・」

「最後にもう一度確認します。
 あの日、先生と奥さんが二人して席を立ったのは、タバコを求めて奥さんが座敷を出たのを追って先生が熱燗と肴を追加注文した時だけですね?」
「そうです。間違いありません」
 と春江が答えた。

 松浪は言った。
「ありがとうございました。
 ここでの話と皆さんから受け取った錠剤を長野県警に渡します。
 真相がわかるまで、絶対に、皆さんに迷惑がかからないようにします」
「私も約束する」
 と相田も大きく頷いた。
 松浪が付け加えて言った 
「ところで、岡田が上野発二十一時三十四分発のあさま五五三号のグリーン車に乗っていたのを知っていましたか?」 
「そんな馬鹿な!八時過ぎだったのに!あいつは、
『八時半過ぎのあさまに間に合うから、一足先に長野へ帰って、病院の手配をする』
 と言ったんだ。
『そうでないと、初めての医者では、先生の病気を簡単に説明できないから、長野に帰る方が早い』
 と・・・。
 康子姐さんもそのつもりだったんだ。だから、先生の身体を冷やさないように暖房までつけて・・・」
 欽司の声が興奮から失望に変った。しきりに拳で膝を叩きながら、
「なんてこった・・・。なんてこった・・・」
 とくりかえしている。
「あの野郎、やっぱり、先生が死ぬのを知ってやがった!先生を殺したんだ!絶対に許せねえ!欽司!あの野郎を絶対に許すな!」
 勇造の怒った声が座敷を抜けて、店に響いた。


 取材が終り、三人は礼を言って小料理小夜を出た。
 相田は表通りへ歩きながら二人に言った。
「今夜はいろいろ話さなけりゃならん。二人とも僕の家に泊って、明朝、長野県警に行ってくれ。僕らの会話も録音して長野県警に聞かせるんだ・・・」
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