十六 思い

文字数 2,538文字

 九月十七日、水曜日、午前、日報新聞社。

 翌朝。相田は出勤前に自宅から長野県警へ連絡を入れ、捜査本部の当直の刑事に、
「日報新聞の相田です。野村理佐と松浪健一が重要な証拠を持って長野県警へ向ったので、その旨、本間本部長に伝えてください」
 と告げた。
 まだ本間本部長も佐々木刑事も出勤しておらず、対応した刑事は、
「本部長と佐々木刑事が出勤したら、折り返し電話します」
 と言って、二人が長野に到着する時刻と、相田と松浪、理佐の携帯電話番号を確認した。
 あさま五〇五号の二人は八時五十三分に長野駅に着く。

 八時過ぎに出社した相田は六階にある社会部の自分の席に座り、タバコに火をつけた。
 理佐たちが長野県警本部に着けば、二人が届ける錠剤の分析と、録音された春江たちの証言、昨夜、市川の相田の自宅で録音した松浪の推理から、真相がはっきりする・・・。
 相田は松浪の推理をもう一度確認した。

 電話がけたたましく鳴った。
「はい、相田だ・・・。何!わかった・・・」
 電話は美奈からだ。商売柄、美奈の朝は遅いはずだ。この時間に連絡してくるのは何か特別な事があるからだ。相田は灰皿にタバコを揉み消した。
「繋いでくれ・・・」
「はい。電話。おつなぎします」」
「昨夜は、遅くまで、ありがとうございました・・・」
「いえ、とんでもないです!ところで、どうしたんですか?」
「ええ、直接会って、お話したい事がありまして・・・。
 昨夜、話さなくてすみません。お時間、いつ頃がよろしいでしょうか?」
「いつでもかまわないよ」
「それでは、これから伺ってよろしいかしら?すぐ近くまで来ているんです」
「ええ、どうぞ。待ってます」
「それでは、後ほど・・・」

 長野県警からの連絡を待っていた相田に、美奈からの連絡は意外だった。
 昨夜、春江たちが語った事とは異なる事実が出れば、松浪の推理が変るかもしれない。佐々木刑事が日報新聞社を訪れる前に取材で得た情報、
「遺体となった岡田医師が車で長野に運ばれた」
 は、欽司の証言で一変している。長野県警の連絡前に美奈が現れるといいのだが・・・。
 考える間もなく本間本部長から連絡が入った。
「あさまの到着時刻に合せて佐々木刑事を迎えに行かせる。
 二人に会えばわかる事だが、かいつまんで説明してくれないか?」
「わかった・・・」
 相田は説明した。

 本間本部長は春江たちの証言と錠剤、そして松浪の推理に満足している様子だった。
「松浪の持ってゆく錠剤の分析で薬物効果がわかれば、松浪の推理どおりになるよ。
 それから、たった今、岡田医師の実子・大森美奈から連絡があった。僕に何か話したいと言ってる。八月二十九日の事じゃないと思う。彼女から新たな情報があれば、すぐに知らせるよ」
「わかった。その時は詳しく頼む。いつまでも佐々木たちを足止めできないからね。今回は特別だぜ。御学友のよしみだからな」
「すまんな。恩に着るよ。二人が着いたら、本間から直にこの事を伝えてくれないか?
 おそらく、松浪の推理に変化はないはずだ」
「どうしてそんな事を言える?何かあるのか?」
「長年の勘さ。緊急の事なら電話で話すはずだから、そんな感じがするんだ」
「うむ。いずれにしても、大森美奈の話は連絡してくれ」
「わかった。必ず電話する」  
 相田は電話を切った。

『過労死の真相を追う』の岡田医師の特集は三日後の土曜の朝刊に載る。それまでに真相がわかれば、家庭欄の記事どころか一大スクープになる。社会部内で揉めるが、そんな事は気にしなくていい。他紙に先駆けて真実を報道できればそれだけでいい。今はできるだけ早く真相を知って、事件に関係した人たちが偏見の目で見られないよう全力を尽くすだけだ。俺も変ったもんだ。理佐と松浪に影響されたな・・・。

 相田が考えている間に、周囲が騒がしくなった。
「編集長。面会の方が一階に来ています」
 編集者の声で相田は我に返った。
「わかった。社会部の応接に通してくれ」
「わかりました」
 編集者は受話器に向って相田の意向を伝えた。

 六階にある社会部専用の応接室に入ると、ジーンズにサマーセーターの美奈がぼんやりソファーに座っていた。相田を見て目を細め、笑顔で、
「忙しいのに、すみません」
 と言った。寝不足なのか細めた目はそのまま大きさが変らず、長い睫だけが相田を見ているようだった。
 相田はブラインドを降ろして朝の陽射しを遮り、
「まだ、何か残っていましたか?」
 と言いながらソファーに腰を降ろした。
「ええ。あの日の事じゃないんです。幸一父さん、つまり、先生が小沼興業の筆頭株主だと話した母の話は間違いです・・・。
 実は、筆頭株主は私なんです・・・」

「ちょっと待ってください。話を録音していいですか?」
「ええ、なさってください」
 相田は用意していたレコーダの録音ボタンを押した。
「美奈さんが筆頭株主だと言うんですね?」
「昨夜、皆さんが帰ってから、大森の父が、先生の株券は全て私名義に変っていると言うんです。名義を変えた理由は、遺産だと言っていました。三十年近くかかって生前贈与を行っていたらしいんです。なんだか、亡くなるのを前から知っていたように思えて・・・。
 それと、先生の心臓の事ですが、私は、病気だったと思えなくなりました・・・」
「どうしてですか?」
「先生は、いつも薬を持っていたんじゃありません。病気なら常に薬を持ち歩くと思うんです。それに、独りで出歩かないはずです。
 でも、先生は、医学学会がある度に独りで店に来て、私たちに会ってお酒を飲んでいました」
「待ってください・・・」
 相田はしばし考えた。春江が語った岡田医師は、長野に移る以前と、事件当夜だけだ。
「先生が長野に引っ越したのは昭和五十二年。長男が生まれて四年後。美奈さんが九歳の時でしたね・・・」
 理佐と松浪の取材から、昭和五十二年は、岡田幸一医師が岡田発酵グループの企業拡大に尽力を注いだと推測される時期だが、事実は明らかになっていない。
「先生はどうして長野に移ったんですか?」
「一番の目的は遺産の残りを受け取る事でした。岡田幸雄を監視する事もあったみたいです。でも、逆に、利用されたと考える方が正しいと思います・・・」
 美奈は昔を語りはじめた。
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