三 推理一

文字数 3,397文字

 九月十四日、日曜日、夜、長野市内。

 八月二十九日金曜日。
 岡田医師と康子夫人は長野発七時三十五分の新幹線あさま五〇八号で、九時八分に東京に着いた。医学学会は十時から十六時まで虎ノ門の教育会館で行われた・・・。
 
 長野駅に近いホテルの一室で、ベッドに座った松浪が岡田医師の死亡調書と生前の夫人の事情聴取のメモを読んでゆく。
「この間は、おそらく何もない・・・」

 帰りの新幹線あさま五五三号は上野発二十一時三十四分。虎ノ門から上野まで一時間はかからない。あさまが発車するまでの四時間余りを、夫人は、
「久しぶりに、夫婦でのんびり都内を歩きまわった」
と述べていた。

「先生は心臓に疾患があった。先生の病気を考えたら嘘だね。取材でわかったんだが、奥さんはずいぶん先生を気づかっていたらしいからね」
 松浪は夫人の供述をあっさり否定した。

 岡田医師と夫人はあさま五五三号で二十三時八分に長野に着いた。二人の下車は駅員の証言とあさま五五三号の指定席券の検印が裏付けている。
 その後、二人は川中島の西にある岡田医院へタクシーで帰り、疲れていたため、すぐ就寝した。しばらくして医師は心不全で亡くなったが、夫人は疲れてぐっすり眠っていたため、医師の死亡に気づいたのは翌朝だった。生前の夫人は、長野南署の事情聴取にそう答えていた。
 行政解剖の結果、岡田医師の死亡は急性心不全と判断され、死亡時刻は二十二時から翌三十日の一時までと推定された。

 長野南署のメモを読み終えた松浪は、取材メモを読みだした。
「二十九日二十四時、近所の主婦が、岡田医院の駐車場にグレーの高級車を目撃してる。主婦は奥さんから、用があって先生と奥さんが新幹線で都内へ出かけると聞いていた。列車で出かけたのに妙だと思いながらも、先生は車で帰ってきたと思ったらしいよ」
「奥さんの遺体を最初に発見した岡田発酵の社員が、先生は都内で倒れて夜中に長野へ運ばれたと言ったわ。新幹線あさまで帰ってきたのは嘘なのかな?」
 理佐は話しながらソファーから立ちあがった。冷蔵庫から缶ビールを取りだして松浪に渡した。
「先生が運ばれてきた話は僕も数人から聞いたよ。
 先生の死亡に関する長野南署の調書は生前の奥さんの事情聴取に基づいてる。奥さんが亡くなった今、取材結果の方を事実と見るべきだろうね」
「それなら長野で下車した二人は誰なの?あさまの指定席券の検印をどう考えるの?」
「先生は大柄な人だがそれほど顔は知られていない。体形が似ていれば、先生が下車したと証言する駅員もいるさ・・・」
 松浪は手帳を置いてベッドから立ちあがった。缶ビールを持ったまま理佐の周りを歩いている。
「替え玉が使われたってこと?
 そうなら、先生が倒れたり死んだりすると困るってことね・・・。
 いったい誰が困るのかな?なぜ、先生を医者に診せなかったのかな?」

「今はまだ、誰が困るかわからないが、気になる事があるんだ・・・」
「何?」
「先生の葬儀の日、会長と奥さんの折り合いは異常に悪かった。会長と言うは先生の兄で岡田発酵グループの会長、岡田幸雄のことだ」
「えっ、健ちゃんも葬儀に出たの?」
「うん、出たよ。会長本人が、先生の名をおくやみの欄に載せてくれと連絡してきた。
 喪主の顔を立てて、支局長と顔だけ出したんだ。
 身内なら夫を亡くした妻をいたわるのが普通だが、会長はそんな事しなかった。
 先生が亡くなったのは奥さんのせいだと奥さんを罵り、葬儀に来た奥さんの実兄も追い返した。
 考えられるのは、二十九日の十六時から二十一時の間、先生と奥さんは会長が極度に嫌う人たちに会っていたか、会長が忌み嫌う所にいた事だ。
 あるいは会長が奥さんと奥さんの身内を嫌っていて、奥さんの身内に何か知られるのを恐れていたと思えるね。
 そして、先生が車で運ばれたとしたら、先生には他の医者に診せられない心臓疾患があったと考えるべきだろうね」

「二十一時以前に先生が亡くなったってこと?
 それなら死亡時刻が合わないわ」
「先生に外傷はなかった。死亡推定時刻は体温の変化と死斑で決まるから、取材で聞いたあのグレーの高級車で運ばれたとしたら、車のエアコンで細工できたはずだ」
「新幹線で出かけたのなら、車で帰ってきたと思われるのも変ね?
 主婦が見た車、時々、医院に来てたんじゃないかしら?」
「過去にも車で帰ってきたことがあるらしいが、車の持ち主はわからない・・・」
「先生の家族に、誰か会いに来た可能性は?」
「それはないよ。先生には子供が二人いる。
 長男は三浪して私立の医大に入った。卒業後は、三年たっても医師国家試験に受からず、今は国家試験のために都内の予備校へ通っている。
 長女は地方大の学生だ。二人とも二十九日は長野にいなかった」

「先生は長野の生まれなの?」
「そうだよ。会長とは父親違いの兄弟だ。これは説明しなかったな・・・」
 松浪は缶ビールをテーブルに置いて、ベッドの手帳を取った。

 岡田幸一と岡田幸雄の母は、江戸時代から続いた岡田醸造の一人娘で、岡田幸雄の父は婿養子だった。
 戦後、岡田幸雄の父が病死して母は再婚した。昭和二十二(1947年)頃の話である。
その後、岡田幸一が生まれて三男、四男が生まれたが、子供たちの父は病死し、数年後に母も病死したため、岡田幸雄は若い頃から弟たちの面倒を見てきた。

「それで、岡田会長が先生の喪主だったのね。
 奥さんの自殺の調書は見れなかった?」
「全て見せてもらえたよ。
 先生が亡くなった当夜、奥さんはぐっすり眠ってて、心臓発作を起した先生にニトログリセリンの錠剤を飲ませられなかった。悔やんだ末の自殺として扱ったからね。
 夫人の行政解剖の記録には、入水自殺なのに肺に水が入っていない、とあった。
 何らかの強い精神的ショックを受けたために呼吸が停止して死亡した、自殺の場合よくあるケースだそうだ。
 それに、長野南署で耳にしたんだが、今回の件の捜査本部が、長野南署から県警本部へ移るらしい」

「と言うことは、県警本部が乗り出すほどの特別な事件なんだ・・・。
 それだから、表向きは自殺として発表したのね・・・。
 先生の奥さんはどこの生まれ?」
「台東区浅草三丁目。言問通りから通りを二本北へ入った、小料理屋の娘だ。
 旧姓は小沼だね」
「八月二十九日に二人が訪ねたかもしれないから、当たってみる必要あるわね」

「その前に岡田会長に会わなきゃならない。先生を過労死の記事にするなら、事前に許可を得た方がいい。うるさい相手だからね。明日の朝、連絡してみるよ・・・。
 浅草へ行くのは夕方がいいよ。陽の高いうちに小料理屋を嗅ぎまわったら警戒されるよ」
「そうね。健ちゃんの言う通りね」
「そんなことないさ・・・」
 そう言って松浪は顔を赤らめた。
 理佐はこの偉ぶらない松浪が好きなのだ。

 松浪はベッドに寝転んで手帳を投げだした。眼鏡を外して天井を見つめ、何か考えこんでいる。
 先生に他の医師に診せられない心臓疾患があったとしたら、それはいったい何だろう?先生が車で運ばれて替え玉が新幹線に乗っていたとしたら、誰が指示したのだろう?
 明日、岡田発酵を訪ねた際、岡田会長に岡田医師の死亡をどこから切り出していいか、理佐はわからなかった。いずれにしても、明朝、アポイントが取れたらの話である。
 松浪が天井を見つめたまま、
「明日、ちょっとした収穫があるかもしれないな・・・」
と言った。

 電話がけたたましく鳴った。
「編集長。何か?」
「長野県警が支局に、岡田康子の件について、捜査を妨害しないでくれと言ってきたよ。調書を見に行ったのは松さんだろう?何かあるぞ。
 理佐。しばらくそっちで取材してくれ。支局長の許可を得たから、過労死の取材を名目に、刑事事件として松さんと動いてくれ」
「やっぱり、病死や自殺じゃないのね?」
「県警は不審に思って調べてた。そこに事件を嗅ぎつけて新聞記者が現れたってことらしい。明日はどうする?」
「岡田医師の兄、岡田発酵の会長・岡田幸雄に会って、医師の過労死を記事にする許可をもらいます」
「刑事事件の取材と気づかれないよう注意しろよ。それと、支局長が松さんに連絡を取れない。アパートにもいないらしい。そっちへ現れたら、理佐から連絡しといてくれ。頼むぞ」
 電話が切れた。
 松浪は、
「やはりな・・・」
 と言っただけだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み