第十三話

文字数 2,144文字

 そのクロサキの体が空中で止まった。
クロサキの真っ黒な毛皮を白い手が包んでいた。クロサキは暴れた。
「くそ!! おい。放せ、俺を離せ!!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎながら身を捩る。

優雅な腕が自分の顔の高さにクロサキを持ち上げた。
切れ長の涼しい目が真っ直ぐにクロサキを見る。
「クロサキ。私は喧嘩をさせるためにその角を付けたのでは無いよ」
クロサキを捉えた青年は言った。
「うるさい!! 放せ! 俺はこいつの目を突き破ってやるんだ!! ええい。放せ! 放せ! この野郎!!」
片足はだらんと伸ばしたままクロサキは夢中で暴れる。

芙蓉の様な美しい顔が含み笑いをする。
「困ったものだ。お前が私の身代わりを申し出てくれたから、角を付けてやったのだよ。喧嘩をするために付けたのでは無い。お前はこの箱の中で私が戻るまでずっと大人しく眠っている筈では無かったのか? そういう約束だった。ハナ子が迎えに来なかったら、お前はこの男に殺されていたよ」
足元のハナ子が「にゃ(全くその通り)」と一声鳴いた。

それでもクロサキは悪態を付きながら暴れる。自分を抱える腕に咬み付き、引っ掻く勢いだ。
「少し大人しくしなさい。お前の体はあちこち骨折して、体中から出血している。足だけでは無い。痛いはずだ。今、体を治してあげよう」
そう言うとクロサキの体を自分の体で包み込んだ。黒い髪がさらさらと流れ落ちる。
「序にその角も取ってしまおう。危険極まりない」
「やめろ! やめろ! 取るなーっ!!」
クロサキは青年の腕の中で藻掻いていたが次第にその動きを止めた。

青年はクロサキを地面に下ろした。
クロサキの足は治っていた。角も取れていた。口元から流れていた血も止まった。
クロサキは「ふん」と鼻を鳴らすと、とことこと岩の隙間(猫用の黄泉への穴)まで歩いて行ってその前で座った。
「あんたが猫和尚を成敗するまでは、ここは通さないからな。どうしても通るというなら、俺を殺してから行け」と言った。
 青年はそんなクロサキを面白そうに眺める。
「なんとまあ、血の気の多い猫だ」と笑うと後ろを振り返った。
青年の背後では猫和尚がすでに這いつくばって、頭を下げていた。
「其方が猫和尚と申す者か?」
青年は声を掛けた。
猫和尚は血に汚れた顔を上げた。
「は、はい。その通りで御座います」
そう言ったきり言葉が出なかった。

すらりとしてしなやかな青年は白い単衣を着ていた。黒曜石の瞳と絹糸の様な黒い髪。髪の間から二本の小さい角が覗いている。細面の柔和で麗しい顔。ほんのりと淡く紅を差したみたいな唇に目を奪われた。着物の合わせからすっと伸びる白い足に目をやると猫和尚は顔を赤らめた。
あまりに美しいのでどこを見てよいのか分からなくなった。

「あ、あ、あなた様が本当のご、ご本尊様でございますね。た、確か、や、や、や、山吹殿と仰る。お、お初にお目にかか、かかり、恐悦、し、至極で御座います」
緊張の余り、口がもたつく。
「そうだ。如何にも私が山吹である。・・・それで何か私に用でもあるのかの? お前は随分と長い間、猫達を虐待して参ったと、私の所に来た茶トラが言っておったが?」
猫和尚はさも驚いたという風に手を振った。
「め、滅相も無い。滅相も御座いません。虐待など。そんな事は御座いません。ただ、あなた様をお迎えしたいと。猫婆と一緒に、ただその一念で御座いました」
「猫婆? ・・・はて? 猫婆とは?」
「ね、猫婆は私の雄一の友人で、あ、あなた様を」
猫和尚が言い掛けると
「猫婆は妖怪だ。猫和尚に取り付いた悪霊だよ」とクロサキが言った。
「悪霊?……」
「湖に棲んでいる」
「湖に?……うむ?」
山吹殿は首を傾げる。

猫和尚は必死で言った。
「や、山吹殿、山吹殿とお呼びして宜しいでしょうか? 水鏡がそう申しておったので…………」
山吹殿は近くの岩に腰を掛け、腕を組んでじっと猫和尚を見た。
猫和尚は返事が無いので、たらたらと汗を流し始めた。畏れ多くて顔を伏せた。

陶器製の猫羅漢達は山吹殿と猫和尚を囲んで固唾を飲んで見守っている。
誰かがごくりと唾を飲む。(陶器でありながら)
山吹殿はふと猫和尚から視線を逸らすと猫羅漢達を眺めた。

「猫羅漢が随分増えているな……。どうしてだろうか?」

目を閉じて眉を顰め、空を仰ぐ猫の額に汗がにじんで来た。顔を伏せて眠っている猫の額にも汗が浮かんで来る。耳を後に倒して威嚇をしている猫にも、満足げに目を閉じている猫の顔にも。みんな陶器の顔にたらたらと汗を流しながら、じっと黙っている。
「うざいな……」
山吹殿はぽつりと言った。
周囲の空気がぴりっと緊張する。
「お前達、元の場所に下がりなさい」
山吹殿がそう声を掛けると、何と陶器でありながら(しつこい!)彼らは一目散に参道に散らばった。

「して、その水鏡殿はあれから如何致した?」
山吹殿が伏せたままの猫和尚に尋ねた。
「す、水鏡は行方知れずで御座います。もう、随分前から」
猫和尚が顔を上げて言った。
「掛け軸は?」
「水鏡が持っております」
「そうか……」
山吹殿は息を吐いた。
暫し頬に手をやり考える。
猫和尚はその優雅な姿に見惚れた。
何と高貴で美しい若者かと感心し、その姿はまるで弥勒菩薩の様であると思った。
そして山吹殿と目が合うと慌てて顔を伏せた。
無言の時間が流れた。
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