三十六

文字数 1,323文字

 男が出て行ってから一時間ほどが過ぎた。取引の時間まであと二時間ある。ショウはこの場所から脱出する方法を考えていた。取引の場所はどこなのだろうか? 恐らく、抜け穴からそう遠くはあるまい。取引後に麻薬の入った袋を持って移動すれば人目に付く。金曜の夜は、人々の注意が薄れる。横須賀の街は賑わうが、基地内は閑散としている。ショウは目を瞑り、壁に耳を寄せた。ショウは子供の頃に中耳炎を拗らせて、それ以来、聴覚がよくない。しかし、その代わり、聴覚以外の観察力が鋭くなった。部屋の壁を叩く振動が感じられる。ショウが肘で壁を叩き返した。すると鍵がかかっていた部屋の扉が開いた。
「オマタセシマシタ、ダンナ」
「遅いぞ、俊明」
 李俊明がすぐにショウの手足の結束を解き、預かっていた手錠や手帳、そして拳銃を手渡した。
「取引場所はわかったか?」
「ハイ、裏手ノ資材倉庫ノヨウデス。米兵ガ数人デ大型ノバッグヲ運ビ込ンデイルノヲ見マシタ」
「基地の外の様子はどうなっている?」
「捜査員ラシキ人間ガ、ビルヲ張ッテマス」
「マトリだ。本庁は完全に出し抜かれたようだな」
「ダンナハ本庁ノ側デハ?」
 ショウが鼻を鳴らす。
「俺は単なる所轄の人間に過ぎない。石ころみたいなもんさ」
 李俊明が黄色い歯を覗かせる。
「ソウイウ、ダンナガ私ハ好キデス」
 ショウが白い歯を見せた。
「よし、とにかく、ムラナカが来るのを待とう」
 ショウと李俊明は、抜け穴があるビルを出て、資材倉庫が見える林の中に身を隠した。

 その頃、アベヤスオが運転する黒いベンツと、その後に、作業服を着た男たちを乗せた白いワゴンが横須賀市街に入った。アベヤスオは龍の刺繍が入った青いスカジャンを着ている。辺りはすっかり陽が落ちて、街灯に照らされた目だけが鈍く光っている。海岸線にライトアップされた米海軍の空母が見えた。金曜の夜の街にネオンが煌々としている。大きな体と丸太のような腕に刺青のある男たちが歩いているのが見える。米兵向けのバーや飲食店が密集したエリアはどこか異国を思わせた。ムラナカを乗せた車が、基地の正面ゲートを見渡せる雑居ビルの前に停車した。続いて白いワゴンから作業服を着た男たちが降りた。黒のベンツの後部扉を開けると、ムラナカが周囲を見渡しながら顔を覗かせた。
「着きました」
「ようし、周囲を見張らせろ。不審な奴がいたらすぐに車を出せ」
 ムラナカの手にはジェラルミンケースが握られていた。
「心配無用です。サツは米軍基地内での取引に気付いていません」
「抜け穴とは、よく考えたものだな」
「はい、以前、基地内に出入りしていた者から、基地内の地下にインフラ用のトンネルがあることを聞いていました。そして、そのトンネルが基地のフェンスすれすれまで掘られていることも知っていました」
「なるほどな。基地内であれば、警察が自由に動き回ることもできない。ましてや米軍内に内通者がいるとなれば、完全に我々が有利だ。しかし、一つだけ気になることがある。もし、取引の後、このビルが包囲されていたら?」
「そうなったら、また基地内に引き返せばいいのです。奴らは追ってこない。その時のためにもう一つ抜け穴を用意してあります」
「わかった。お前を信じよう」
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