第4話

文字数 3,219文字




【二〇一五年八月九日(日)】
 あと一年一ヶ月と三週。
 頭上を見上げると、先ほど上がった最後の花火の後、白い煙だけが夜空をバックにいつまでも残っている。大きな音にさらされ続けた耳は、未だ静寂をうまく受け入れられない。心臓がうるさい。
手元には、最初に買ったりんご飴。ビニール袋に入ったまま大人しくしている。
「何でだよ」
 ブラザーは片方の足首を太ももの上に乗せると、肘をついた。
「いや、確かに警告はしたぜ? でもなお前、だからと言ってこれじゃあ何のために来たんだよ」
 難しいよ、ブラザー。
 何も言い返せなくてうつむく。頑張って塗った右手の爪も、キレイに結ってもらった髪も、時間のかかった化粧も、何もかも
「どうしたらいいか分かんない」
 途方に暮れる。それは八月の第二週目。週末花火に行こうとブラザーが提案したのがきっかけだった。
〈おんなじサイクルん中ハマってたら何も変わんねぇんだよ。俺はアイツをそっから連れ出したいし、いつもと違うメンツと行動するってのも一つの刺激にはなるだろう〉
 実際何はなくてもそう見られたら終わり、と言った。
〈だから俺がいるんだろ。全く手がかかる。どうせ人ゴミだ。はぐれたらはぐれたでしょうがねぇ〉
 そうして浮き球を用意した。スマッシュなんて何本も打ってきた、何本も打って来たはずなのに。
 シャリ。
 あるはずのない音がする。それだけでもうダメだった。違う。そうじゃなくてもダメな理由を探してる。自分が傷付かず済むように。
 横から聞こえる大きなため息。切実だろうとなんだろうと、伝えなければ意味がない。意味どころか何もない。あたしは
〈紅葉、射的得意じゃん。行って来なよ〉
 冷たい境内に腰掛けていることしかできない。上手く話せなかったらどうしようとか、間が持たなかったらどうしようとか、直面してもいない不安が押し寄せて、失敗しなくて済むように、一番安心できるルートをとった。それは「おんなじサイクル」だから「何も変わんねぇ」
 周りから見てもほっこりする穏やかな二人は、兄と妹のような距離感で遊んで回る。そこに後ろ暗いものは何もない。万が一変な見方をする輩がいたとしてもブラザーがカバーしてくれる。それは本来あたしのために用意された、見事なお膳立てだった。なのに。
「ごめん、ブラザー」
 足がすくんで動けなかった。先に教えておいて欲しかった。
 実家が呉服屋だという寺岡さんは、何のことなしに浴衣で現れた。高校生の時、同級生が着ていた甚兵衛とは違う。深緑。それだけでもうキャパオーバーした。
「いや、逆にすげぇな。心配してたのがバカらしいくらいの、見事なソーシャルディスタンスだ。俺必要なかったな」
 そんなことはない。だってブラザーがいなきゃコートから連れ出すこともできなかった。寺岡さんは、普段見慣れている姿より、和服の方がずっと寺岡さんだった。
 ブラザーはガシガシと頭をかくと「もういいじゃねぇか」と言った。
「いいじゃねぇか。東京の大学だろ? 垢抜けたヤツ、将来性のありそうなヤツ、目一杯いんだろ。何も地元のおっさんに縛られる必要なんてねぇ」
「おっさんじゃないもん」
 年上だからとか、自分より老けてるとか、そういうんじゃない。とにかく寺岡さんはおっさんじゃない。寺岡さんは寺岡さんなのだ。
「どこがいいんだか」とつぶやく。一旦コートを離れれば、ペアであっても理解できないことがたくさんあるようだ。知ってるつもりなのは、本当にその人の一部に過ぎない。
「……ねぇブラザー、みんな名前なんて言うんだろう」
 いつだったかブラザーは「ユウヒ」だと言った。太陽なんだと。「ハツセ」「アキラ」「ミヤビ」個々に当てられた音。
「知らねぇ。自分で聞けよ」
 すね毛。太ももに乗せた足についている爪は大きい。でもブラザーより身体の大きいあの人の爪は、もっと大きいに違いない。
 見えているはずなのに見てない。視野が狭い。
 対戦相手を見ずして自分のテニスをする。そんな未熟なやりとりは腐るほど見てきた。その時は「何であそこに打たないんだろう」とずっと思っていた。

 花火がない空は、白く煙った空は、音のない空は寂しい。
 集合自体、打ち上げ開始時刻じゃなかった。それでも、最初からいてもきっと変わらなかった。変わらず冷たい境内に腰掛けて、自分の爪を見ていたに違いない。
「イチかバチか」
 顔を上げる。
「面白いよな。お前、知ってるか? 二通りの意味があるんだぜ? 一つはとにかくやってみること、一つは二つある選択肢の内、どっちを選ぶか聞くときに使う。漢字で書くと数字の一と八が入る」
 背景に白く煙った空。何もない、ただ寂しいだけの夜空。そこに指先で大きく数字を描く。
「ハチ、は杉田。佐久間チャンがそう呼んでただろ? どっちも似たような、静かな生き物だ」
 どっちも、と言うのが分からなくて首を傾げる。ブラザーは同じように指先を大きく横に滑らせた。
「『イチか、ハチ、か』あのクラスには両方いる」
「ねぇブラザー、あたしも名前に一入ってるよ」
「お前は『カズハ』だろ。パチモンだ」
 パチモンではないけれど、ちゃんと音まで合わないといけないらしい。それは
「イチ?」
 いつまでも白く煙っている空。ブラザーのなぞった指の跡は残らない。それでもあたしの中に残ったのは、動作そのもの。真っ直ぐ横に滑らせた指先。
 浮かぶのは、黄色と青のウェア。どちらも静かで、けれども強い光を放つ者と、強い光を補う者。
「後は自分でどうにかしろ」
 丁度二人が帰ってきた所だった。綿菓子を両手に持っている紅葉は、桃色と桃色に挟まれて幸せ色のマリモ。
「はい、お姉の分」
 だから一つだけもらっても幸せ色にはなれない。ただ手元がベタベタして不快なだけだ。
少し遅れてあの人がやって来る。射的で取れたぬいぐるみ、おもちゃ。射的というのは、行為自体に価値があるのだろう。どれも家に帰れば不要になる面々。それとは別に差し出したもの。
「はい、どうぞ」
 受け取る。キラリと光る、それはかんざしだった。
「紅葉ちゃんが『お姉は赤が好き』って言ってたから」
 残る橙に照らされてキラめく赤。本体のみのシンプルなそれは、揺れるアクセサリー、ラメの装飾、その他一切の媚びを含まない。だからそれは
「イチ……」
 さっきブラザーが空に描いたそのもの。真っ直ぐな赤の直線。
「ごめんね、君はおしゃれだから趣味に合わないかもしれないけど」
 困ったように下がる眉。照れ臭そうに頬をかく指先。その爪は、思った通りあたしよりも一回りも二回りも大きかった。
 のどが詰まる。
 真っ直ぐな赤。残る橙に照らされてキラキラ。それはどんな花火よりもキレイで、どんな砂糖菓子よりも甘くて、どんなぬいぐるみよりもかわいい。
 たまらず噴き出したのはブラザー。
「ウケる。よく選べたな。お前にそんな選択肢が浮かぶとは」
「紅葉ちゃんが教えてくれたから。もう一つ、飾りのついたものがあったんだけど、こっちの方が何となく雰囲気に合う気がして」
〈イチかバチか〉
 たぶんそれは、どっちを選んでいたとしても変わらず受け取っていて、変わらずうれしくて、変わらずのどを詰まらせた。大事なのはそこじゃない。それはどっちとかじゃなく、「そうしようと思った」ことそのものに発生した価値。
〈その位ヤバい力持ってるヤツが〉
 無自覚。知らずに手にしてしまっている力。子供なのに。子供だから。
「……イタいか?」
「イタいな」
 ブラザーはお腹を抱えんばかりだ。
 子供なのに。子供だから。でも。
 子供にでも、できることはある。
「ありがとうございます」
 やっと、音に起こす。伝えたいと思ったことと、身体が連動する。
「うれしい、です」
 そう言って握りしめる。汗がにじむ。綿菓子を持っていなくてもベタベタだ。
 でもこれは、正真正銘あたしのものだ。
 寺岡さんは「よかった」と言った。よかったと言って、あたしに向かって笑った。







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