第16話

文字数 4,312文字



【二〇一六年十二月二十六日(月)】
 突然「来なさい」と言われた。
 時刻は七時半。寝ぼけ眼で台所に向かう。母は昔からの割烹着を身につけると背を向けた。
「見ていなさい」
 冷蔵庫から取り出したのはニンジン、タマネギ、ぶなしめじ。
 ニンジンはざく切りに、タマネギはみじん切りにすると、フライパンに油を敷いて火にかける。しょうが、ニンニク。パチパチ言い始めたらニンジンを入れる。表面を焼いている間に、冷蔵庫からこんにゃくを取り出すと、一口大に切って塩もみをし、ザルに入れる。コンロに少なめの水を張った鍋を火にかけて、しめじの根っこを切り落とすと、
「石づき」
「え?」
「根っこ、じゃない。石づき」
 本当は相応に調理すれば食べられるというその部分は、けれども日常向きではない。切り落として軽く割いている内に、鍋がぶくぶく言い始めた。こんにゃくを入れる。
「何で?」
「アク抜き」
「変わるの?」
「変わるの」
 ニンジンと時間差でタマネギを入れたフライパンを軽くかき混ぜる。ニンジンの表面は艶やかに、タマネギは既に透明になっていた。こんにゃくを引き上げる。そのまま鍋の湯を捨てると、新しく組み直して火にかける。フライパンを寝かすようにしてニンジンとタマネギを入れる。
「まだ沸騰してないよ」
「いいの。根の子達だから」
 表面を焼いたのは旨味を閉じ込めるため。根菜は火が通りにくいため、水から茹でるのが基本だという。プカプカ水面に浮いたタマネギ。
「楽をしようと思ったらいくらでもできるの」
 一度かき混ぜて、鍋のふちに菜箸を乗せると、母は言った。
「すぐに食べたいと思ったらコンビニに行けばいいの。お金に余裕があれば外食でもいいの。でもね、いくら時短、手軽って言った所で、元々一番楽な基準だと、本当に苦しくなった時、身動きが取れないの」
 東京にある冷蔵庫。
 鍋はまだ静かだ。まだ静かに熱を持ち始める段階。
「楽ではなく、豊かさを求めなさい。ひと手間もふた手間もかけて、美味しいを追求しなさい。それが基準になれば、本当に休みたい時休める。そうして休んだ時。それまで当たり前に口にしていたものの価値に気づく」
 東京にある冷蔵庫。言われるまでもなく、もう知っていること。 
ぷくりと気泡が浮かんで消える。いつの間にか底の方にびっしり出来ている。
「多くの人に好まれるように作られたものと、あなたが大切な人に作ったものの違いに気づく。そうすると、頼まれなくても元の場所に戻って来れるの。勝手にこんにゃくのアク抜きを始めるの」
 ぷくぷくぷくと次々浮き上がってくる気泡。表面が波立つ。気体になろうとするエネルギーが波打つ。
「料理は音を伴わない一つの主張。あなたにとっての特別は、あなたにしか表現できない」
 しめじを入れた後、茶の葉を入れる袋に鰹節を入れるとポイと放る。随所随所透ける人となり。少しして鰹節を引き上げると、味噌をとく。全体に色がついてしばらく、冷蔵庫から豆腐を取り出す。無造作にちぎって入れて、火を止めてフタをする。
「おいしい、は無敵よ」
 それはただの味噌汁。
 ご飯の隣にいつもいる、おかずの一品ともカウントされない当たり前。
当たり前。その土台の高さ。
「お父さんと紅葉を呼んでちょうだい」
 そう言うと、魚の煮付けと、ほうれん草のおひたしと、納豆を運び始める。
 年末年始だけは決まって家にいる父は黙ってテーブルについた。
 ふわふわがボーンになっている紅葉も目をこすりながらテーブルについた。
 そろって手を合わせる。
「いただきます」
 味噌汁には小ネギが散らされていた。いつも見ているはずのもの。ニンジンの赤と並ぶとキレイだなぁと初めて思う。

 来年、年が開ければすぐに成人式がある。既に誕生日は来ているが、晴れて公に大人として認められる。学生にとって勉学が本分だとしても、社会人になればそれが仕事に置き換わるだけ。言い訳はいつだってできる。だからこそ、まとまった休みは貴重だった。
「お母さん」
 母が洗って伏せた食器を拭き終わる所だった。新しいタオルを用意しながら顔を上げる。言い慣れない気恥ずかしさから、呼びかけておいてまごついてしまう。
「着付けを、教えて欲しいの」
 少しの間があった。母は静かに踵を返すと「来なさい」と言った。


【二〇一六年十二月三十一日(土)】
 あれから連絡はなかった。
 五十嵐さん発祥のグループ間のやりとりをしたことがある以上、連絡を取ろうとすればとれる距離にはいた。
 学生にとっては長期連休でも仕事は違う。いつから休み入るか分からないが、今も働いているに違いない。
「お姉―」
 スマホをいじっていると、突然ドアを開けられた。画面を見たまま返事をする。
 今日の占い。天秤座は三位。身近な人を大切にすると吉。
 占いは、当たっても当たらなくても不特定多数の人の気分を上げたり下げたりする。その影響の仕方は、あまり健康なものには思えない。常日頃からそう思ってはいるものの、実際結構いい順位だったりすると、不特定多数に漏れず、少しだけいい気分になるのだから、どうしようもないなと思う。
「なむなむ行くー?」
「……何?」
 初詣のことを言っているに違いないが、極寒の夜中だろうと極寒の朝イチだろうとごめんだった。可能な限りこの空間から、いや、布団から出たくない。この寒い中、限られた体温を撒き散らしながら長蛇の列に並ぶ人の気がしれない。もはやその行為自体で神様を「そこまでされたら御利益の一つや二つあげざるを得ない」状況に追い込んでいるようにさえ思えてくる。逆にその労力を、太陽光エネルギーみたいに変換したら、小規模のイルミネーションくらいできそうだ。
「ブラザーが行こーって」
 いやいや、こっちに声かけてる場合じゃないでしょブラザー。娘連れてってあげなよ。
「寒い中ちびっこ連れ出して、風邪引いちゃいけないからって」
 いやいやいやいや、あたし達だって風邪引く可能性はあるよ。何そこで子煩悩全面に押し出していいパパ演出しようとしてるんだよ。そんなの許さない。全力で阻止してやる。
「花火の時みたいにだってー」


「……。……で?」
 白い息を黒をバックに撒き散らしながら口にする。流石に大晦日の深夜ともなれば、ブラザーでも一般人と同じような格好をしていた。厚い上着の襟を立ててこっちを向く。
「こっちに声かけてる場合じゃないでしょ、だっけ?」
 ブーメランという例えを初めて聞いた時、手を叩いた。今まさにその切っ先がぐっさり額に突き刺さっている。
「何そこでカマトト全面に押し出していい子演出しようとしてるんだよ。そんなの許さねぇ。全力で叩き潰してやる」
「そこまで言ってないから!」
 確実にエネルギーの放出方向を間違えているブラザーを制する。
 日付が変わってもぞもぞと動き出した列。「大きな鈴を鳴らして手を合わせる」ただそれだけのために、体温は白い息となって排出され続ける。一方的に奪われ、冷やされていく苦行を好んでやりに来た人の列は、謎の活気に満ちていた。
 希望。期待。心機一転。新しい自分へ。今年こそ。
 逆にそんな明るいものを胸に抱いているからこそ、まだ真夜中であるにも関わらず明るい顔をしていられるのかもしれない。
「……で、どうなってんだお前ら。何にも変わってないじゃねぇか」
 花火を見に行った時、あの時もブラザーが一緒にいてくれた。一緒にお寺の境内に座って、あたしは自分の爪をいつまでも見ていた。でも「何にも変わってない」訳じゃない。
 顔を上げる。不規則な動きをする列は、太い大蛇のようだ。個々の参拝の速度に合わせて右にうねり左にうねり。さっきまで隣にいたはずの紅葉と寺岡さんがいつの間にか二列も前にいる。
 上着の右ポケットからくまりんの振動止めを出して見せる。ブラザーは目を丸くすると「あれが?」と口パクする。前を向いている寺岡さんは、視界に入らないブラザーのそんな様子には気づかない。
「……イタい?」
「イタいな」
 間髪入れず返ってくる。そのままポケットに戻す。
「あたしはうれしかった」
 すごく、と言うと、ブラザーは困ったように頭をかいた。
「……いいこって」
「でも、」
 つぶやく。思わず声が小さくなる。
「それから全然何もない。連絡できない訳じゃないのに。知らない訳じゃないのに」
 忙しいのだろう。そればかりじゃないというのもあるだろう。責任、立場、すぐ来る明日。一つ一つの感情に振り回されていられない毎日。それでも。
 寺岡さんにとってそれだけの存在ではない、という事実に静かに打ちのめされる。
 視界いっぱいに広がる光の粒。その光に照らされた頬。大の大人が「あはは」と笑う声。ピーマンな五十嵐さん。
「あたしだけが、一杯になってる」
 耳に突っ込まれた指。全ての音が消えて、その人の声しか聞こえなくなったこと。思わずしがみついたその首。傷つける全てから護りたいと思ったこと。全部全部。
 ブラザーは大きく息をつくと、「例えばだな」と言った。
「でかいジグソーパズルがあったとする。で、お前が始めようとしたら、別のヤツが親切心で『これ途中までつくったんだけど使う?』って声かけてきたとしたら、お前そっちのジグソーパズル始めるか?」
 あ、それ以前にジグソーパズル知ってるよな? と聞かれる。知ってる、という答えがちょっと強い口調になってしまった。考えたのはわずか数秒だった。
「いらないって言う」
「何で」
 だってジグソーパズルは作るのが楽しいのだ。ああでもないこうでもないと試行錯誤して、作った塊同士がくっついて、いつの間にか一つの大きな絵になる。完成してしまうのが名残惜しくて、最後の一ピースをはめたくないという気持ちが湧くくらいだ。
「それだよ」と言う。
「そーれ。作り始めたパズルそのままにして忘れるようなヤツじゃねぇよ。あんなクソ真面目。ああでもないこうでもないってとにかくはめてみりゃいいものを、一手一手時間がかかる。そうだな。アイツがやってるの、ジグソーパズルじゃなくて将棋か囲碁だな。まぁそれでも時間制限はあるんだがな。アイツ時間いっぱいかけて打つタイプだろうな」
 そうして我ながらいい例えをしたと悦に浸っている。調子に乗りそうなので、あえて何も言わないでおく。
「それが待てねぇんなら合わねぇんだ。ペースなんて言って変わるようなもんじゃねぇ。この先も同じように焦れる可能性は高い。その辺は自分で考えるんだな」
 その後「打ってはいるんだけどなぁ」と付け足す。
 ブラザーは寺岡さんのことが大好きだ。
 決してあたしにとって心地良い答えをしないブラザーの言い分は、何はなくても信じられた。




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