第8話

文字数 4,418文字



【続、二〇一六年四月三十日(土)】
 イレギュラー。それは特別講座の後、いつも通り帰ろうとした時のことだった。五十嵐さんに呼び止められる。
「どうせヒマなんだろ? 大富豪しよう」
 コーチは帰った。残ったメンツは一瞬動きを止めるが、再び片付けを始める。
「いやいやいやいや、聞こえたよね? ちゃんと聞き取れてたよね?」
 丸っとスルーされそうな五十嵐さんはそう言うと、もう一度「俺ん家でみんなで大富豪やろう。大人数でやると楽しいから」と提案した。
「大人数」であるにも関わらず、誰からも返事を貰えないその様子を不憫に思ったのだろう、まずはアキラが「イイですよ。どうすればいいンですか?」と言う。しょうがない、という感じでブラザーも続いた。迷う鈴汝さんに「行きましょうよ」と佐久間さんが声をかけると、芋づる式に全員ついていくことになった。
「じゃ、汗流して十六時俺ん家集合。酒の持ち込み歓迎。女の子はウチの風呂使ってOK」
「お疲れー」
「じゃあまた後でー」
 それぞれさっさと帰って行く中で、まだ身支度を整えていなかった五十嵐さんは「十六時だかんね! 十分前集合だかんね!」と学生のようなことを喚いていた。
 さて、いつも親に送迎してもらっていたあたし達は、集合と言われた所で足がない。
 どうしようと思っていると鈴汝さんが「乗ってく?」と声をかけてくれた。ただ、鈴汝さんの車が帰り、ここから大通りに出た後南に出ていくのは知っていたため、逆方向であるう家を経由するとなると、ものすごく遠回りになってしまう。
 返答に困ると、続けて「鈴汝さんは逆方向だろ」という声がした。振り返る。思わぬ申し出。「乗っけてくよ」と言ったのは寺岡さんだった。
 ふと以前、五十嵐さんが言っていたことを思い出す。
〈そっか……あ、こっからなら寺岡サンとこの方が近いか〉

 シャワーを浴びて化粧し直す。準備が済むと時刻は十五時四十分になる所だった。
 落ち着かない。変な感じがする。コート外であの人達に会うのは、まるで本の世界の住人に会うかのような、何とも不思議な感じがした。
 その後、時間になって現れた寺岡さんは、母にスクールでの関係や、帰宅時間について明言すると、何のことなしに車に乗り込んだ。
 驚く。何はなくともあたしに声をかける母が「よろしくお願いします」と言ったっきり何も言わなかったのはその時が初めてだった。紅葉と二人、後部座席で揺られる。

 当たり前だけど、私服に着替えると、みんなイメージがガラリと変わった。
 上着を羽織ろうと、タンクトップに筋肉なブラザー。機能性重視な白シャツにチノパンの五十嵐さん。薄手のパーカーにジャケットを合わせたアキラ。鈴汝さんはロゴの入ったTシャツにニットのカーディガンとデニムに、はっきりとした口紅と大ぶりなピアス。対して伊織さんは白のブラウスとベージュのスカート。いずれも麻地のもので、つけているアクセサリーはエスニック。普段見ない大人な面々に圧倒されて、なかなか玄関から入れずにいたが、冬にはこたつになるという正方形のテーブルに座るよう指示されると、とりあえずそれに従った。
「違う違う。チーム戦にするから、とりあえずさっきのペアと並んで座って」
 一辺二人計算で丸く収まる。紅葉と並んで座ろうとしていたあたしは動きを止めるが、紅葉は「えー」と言いながらアキラと並んで座った。
「ええ。お前と座るのかよ」
「それこっちのセリフだかんな。俺だってゴメンだ。伊織サン、ジャンケンでこの筋肉とトレードしません?」
「ちょちょちょちょっと! それならボクも参戦するよ!」
「アキラよく見て。私女子」
「やさシい女の子希望!」
「鈴汝さんはカウントされてるのか?」
「やさシい女子って言ってるデしょ! ウッ!」
 揉めている。いつの間にか蚊帳の外で、何となく居心地が悪い。その時だった。「まとめてもう一回ジャンケンしようぜ」という流れになると、寺岡さんが手をかざした。
「いや、ここはいいよこれで」
 驚いて見上げるが、五十嵐さんは「意外なシュミ。ロリいけるのな。俺もいいよ筋肉以外なら」と続けて、すぐさま「最初はグー」と言った。その後寺岡さんはテーブルの一辺に腰を下ろすと「どうぞ」と隣を促した。

 大富豪もチーム戦でやるのは、単純に八人だと一人当たりの手札が少ないからだ。始めから「革命」の可能性がないのはつまらないと言う。
 再度行われたジャンケンの結果、新しい組み合わせは
「これなら勝負できそうだ」
「引きが良かったですね」
 手札を見ながら既にニヤニヤしている五十嵐さん、紅葉ペア、
「ん? 一が一番強いんだよな?」
「二です。その上がジョーカー、ジョーカーに唯一勝てるのがスペードの三です」
 勢いだけのブラザーと介助する鈴汝さんペア、
「頑張ろうね」
「うふふふふ頑張りましょウ。うふふふふ。ウッ!」
「やさシい女の子」の伊織さんとキモいアキラのペア、そうしてあたし達だった。
「勝てそう?」
 そう言って覗き込まれる手札。近い。ずっとこの距離とか、心臓がもたない。
 目を逸らすと、ブラザーと目が合った。鈴汝さんに助けられてるクセに、肘をついて隠した口元からは思いっきり口角がはみ出ている。
「じゃあ負けたチーム買い出しね。ダイヤの三だーれ?」

「ごめんなさい」と言うと「大丈夫だよ」と返ってきた。
 まさか最後に二を残しているとは思わなかった。それまで出されたカードの、せめて強いものだけでも記憶しておくことも重要なのだと知る。
「わははは買い出しヨロー」と指差して笑う五十嵐さんは実質三位。決して誉められた成績ではないが、ルールはルール。仕方なく外に出る。
「大丈夫、杉田がいつか殺ってくれる」
 それは例の「百回ラリー」の時、杉田さんが言っていたこと。あの時は気の毒に思っていたが、今は全力で杉田さんの背中を押したいと思う。
〈意外なシュミ。ロリいけるのな〉
「あ、の」
 車に乗る。助手席に乗るのは、二人きりであること以上に緊張した。母親に送迎してもらう時も大抵紅葉と二人、後部座席に乗ることが多く、見ている景色が落ち着かない。
 寺岡さんはボーダーにイージーパンツというラフな格好をしてた。
「あの時はありがとうございました」
 でも同じ方向を向くのはいいなと思った。正面切って向き合うと、どうしてもうまく話せない。自分のペースで向き合うにはこっちの方がよかった。
「あの時?」
「百回ラリーの時、アドバイスして下さったじゃないですか」
 ああ、と言う。
「別に、実際打ってたのは君だ。僕は何もしてないよ」
「そんなことないです。あの時本当に緊張してて、本当に助かったんです」
 たった一つ握りしめた寄る辺。それによって溺れずに済んだ。
「それなら今日、君が教えてくれたことの方が大きいよ」
 その頬が緩む。運転中は前を見る。だから安心してその横顔を見ていられる。左目の下、あたしはこの時、寺岡さんの目元に泣きボクロがあることを初めて知った。正面から見ると、丁度メガネの黒縁に隠れて見えないのだ。
「前に小出に聞いたことがあって、ボレーのやり方。でもアイツ感覚でモノを言うから分からないんだ。こうなったらこう。そういう筋道立てて頭で理解できるものの方が、本番でも役に立つだろう?」
 分かる気がした。勉強と一緒だ、と思った。この人も理系なのかもしれない。
「いや、文系だったよ。数学はまだしも。物理は全然だったな」
 懐かしい、と言うとウインカーを出す。
「物理だったんですね。あたしは生物でした」
「理系で? それは珍しいね」
「文系で物理も珍しくないですか?」
「うん。……その時は確か、生物の先生が苦手だった気がする」
 笑ってしまう。高校生ではそんなこともある。自分の将来より、目先の感情をとるような。そんな発作じみた破滅的衝動。でも逆に
「あたしは生物の先生が好きで、そのおかげで一年でテストの点数が倍になりました」
 そんなこともあるからバカにできない。好きこそものの上手なれ、とか何とか。何でもいいのだ。足がかりさえあれば、登っていける。
 寺岡さんも笑った。
「伸びしろすごいなぁ。こういう場合、元々の点数は聞いちゃいけないんだよね?」
「内緒です」
「今更」
 確かに「今更」だった。
 車を降りて、飲み物、お菓子、つまみ類を購入すると、再び来た道を戻る。その途中「あ」と寺岡さんが言った。

「ちょっと家寄ってもいい?」
「え?」
 時計を見る。寺岡さんはハンドルを切りながら続ける。
「窓、開けたままだった。外の空気が好きで」
 外の空気が好き。
 何のことかと思うが、ふと五十嵐さんが〈猫いるっつってたし〉と言っていたことに思い至った時、その通り言葉が付け足された。
「猫。家にいるんだ。頭が通れない分だけ窓開けて網戸にしてある。流石に何時間もそれだとちょっと」
 確かにちょっと、だ。
「分かりました」
「ごめん、急ぐから」
「クロですかシロですかチャトラですかサバですかミケですかハチワレですか」
「え」
「ただの興味です」
 本当だった。ほとんど家にいることのない父が猫アレルギーで、そのせいで家は動物全般飼えなかった。飼うとしたら猫かウサギがよかった。
「キジトラだよ。兄弟にサバトラがいる。保護猫だから完全雑種だけど」
「男の子ですか女の子ですか」
「オスだよ。ひょうきんな顔してる」
「目は何色ですか」
「青かな」
 困ったように頬をかいた寺岡さんは「見る?」と聞いた。言うより早いと思ったに違いない。無論だった。

 猫は基本警戒心が強い。中でもオスは初めて見る相手に近づいて敵か味方か判断し、メスは完全に隠れてしまうことが多いという。ただそれは大方、という話であって、
「にゃー」と一度だけ長く鳴いてみせた猫は、予期せぬ来客の存在を察知すると、秒で姿をくらました。そのシルエットすら確認できなかった。
「かぼちゃ」
 大きい靴を残して部屋に入っていく。
「あ、どうぞ」
 その後、少しして奥から声がした。「はい」と応える。
 大きい靴。
 無論、というか、本当はものすごく論議が必要な案件を、勢いでスルーしてしまったという事実に面して「ブラザーのことを笑えない」と今更反省する。多分ブラザーはニヤニヤしながら「構わん、続けろ」と言うに違いないが。
 嗅いだことのないにおいがする。
 窓を開けていたとはいえ、完全に消えるものではない。一番強く香るもの。それはタバコの残り香だった。
「かぼちゃ、大丈夫だって。ホラ」
 寺岡さんの腕の中で必死に暴れているのは、黒とこげ茶の、確かにキジトラと呼ばれる猫だった。あたしが部屋に足を踏み入れると同時に腕を蹴り出すと、ソファの下に潜り込む。ため息ひとつ、寺岡さんは「見えた?」と尋ねる。
「はい」
「オスなんだけどなぁ。ビビりで」
 そう言ってソファの下を覗き込む。
「大丈夫ですよ」
 確かに猫は見たかった。でも今は、それ以上に聞きたいことがあった。





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