第1話 新しい仕事
文字数 2,720文字
「慎二、起きなさいよ。もう朝だよ」と尚子は優しく声をかけた。
慎二は布団の中で少し動き、ゆっくりと目を開ける。
「んー、お母さん、今日は何曜日?」彼はまだ半分夢の中のような声で尋ねる。
「水曜日よ。でも今日は特別な日。お母さん、今日から新しい仕事なんだ」と尚子は微笑みながら答えた。慎二はその言葉に少し驚いたように目を丸くした。
「そうだった、お母さん、新しい仕事だね。がんばってね!」元気いっぱいに応えた。
尚子は新たな一日を迎えていた。
今日は、過去の苦難を乗り越えてきた一連の出来事の集大成の様だ…シングルマザーとしての生活、離婚、そして子供との絆。それら全てが彼女を今日のこの瞬間へと導いている様に思えた。
「新しいページが始まった」柔らかな朝日が彼女の顔を照らし、お守り代わりに身につけているアクアマリンのブローチにも光が差し込んでいる。
「え?」慎二の曇り1つ無い目にも光が差し込んだ。
「ううん、独り言だよ。ありがとう!慎二!」
尚子は慎二の髪を優しく撫でながら続けて言った。
「でも、、お母さんががんばるのはいつものこと!慎二も学校でがんばってくれる?」
「うん!」慎二は元気よく答えて布団から飛び出した。彼はお母さんの新しいスタートを全力で支えたいと思っていた。それが自分にできる最大の応援だと信じて…
慎二は手を洗ってテーブルにつき、魚の身を解しながら尋ねる。
「お母さん、今日のお弁当は何?」
「今日はお母さん、出勤で忙しいから、お弁当はないの。学校の給食を楽しんでね」と尚子は申し訳なさそうに言った。
慎二は少し残念そうな顔をしたが、すぐに笑顔を取り戻し「大丈夫、給食も好きだから!」と明るく答えた。
「忘れ物ない様にね!行ってらっしゃい!」尚子は慎二を学校に送り出し、自分も新しい職場へと向かった。
「神様、私たち親子っ、一番幸せかも、、ありがとう!」尚子の心に温かい気持ちがいっぱい入ってきて、涙で溢れそうになった。
出勤の道中、尚子はこれまでの人生を振り返った。離婚後の辛さ、シングルマザーとしての苦労。しかし、それら全てが彼女を強くし、今日の彼女を形作っていた。そして、離婚後の方が物心両面で不安や心細さが増した筈なのに、慎二からの信頼と支えがあることで、幸せが以前より増して感じられていた。
尚子は新しい職場であるひだまりヘルパーのオフィスに到着した。心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、彼女は深呼吸をして、建物の中に足を踏み入れた。
「おはようございます!」オフィスは小さく、温かみのある雰囲気で迎えられ、壁には「家族のように支え合い、心を繋ぐ」と書かれたポスターが掲げられていた。
「村田さんようこそ!緊張してる? 大丈夫、ここは常勤4人と登録さんでやってるこじんまりとフレンドリーでやってるから。」彼女の最初の出会いは、ひだまりヘルパーのチームリーダーである佐藤美紀だった。
佐藤は穏やかな笑顔で尚子を迎え、彼女の不安を和らげるように丁寧にオフィスの環境や業務の流れを説明してくれた。美紀は、尚子が以前経験した困難や子育ての経験を尊重し、それが人として、ヘルパーとしての彼女の強みになるだろうと励ましてくれた。
「村田と申します。皆さんどうぞよろしくお願いします!」
「こんにちは、高橋です。私たちの仕事は大変だけど、とてもやりがいがあるわよ!同じ年みたいだから、何かあったらいつでも聞いてくださいね。」ヘルパー経験20年のベテラン、経験豊富な高橋が優しい眼差しで尚子を見つめた。同い年には見えない、、高橋の言葉には重みがあり、尚子はこの人から多くを学べるだろうと感じた。
そして、山田が尚子に近づいた。
「山田です。技術的なことなら何でも聞いてください!使うシステムやアプリがいくつかあるけど、一緒に慣れていきましょう!」と、親切に言葉をかけてくれた。山田の誠実なサポートの言葉は、尚子に更に安心感を与えた。
「えーっと、春田って言う今日休んでる子がもう1人常勤で居るからよろしくね!又、紹介するわ。」
今まで丁寧に話していた佐藤が、急に春田には「休んでる子」という少し下の様に見る心情が表現されていて、理由が気になった。
「は、はい!よろしくお願いします!」
佐藤は尚子を小会議室に案内し、1人のケースファイルを尚子に手渡した。
「これから訪問する独居で認知症がある田中香子さんよ。」
佐藤は、訪問する田中香子の背景、健康状態、好み、日常生活のルーティン、そして認知症の特徴について詳しく尚子に説明していく。
「田中香子さんは、最近認知症の症状が進行してきていますが、彼女はまだ自宅で自立した生活を望んでいます。ケアプラン上の私たちの主な任務は、香子さんが安全に、そして可能な限り自立して自宅で過ごせるように支援することです。」
認知症の人が自立って?、、尚子はメモを取りながら矛盾する様で疑問に思ったが、次々と田中香子の日常生活での注意点や薬の管理、食事の準備、そして家の安全を確保するための注意点が続くので、必死でメモをしているうちに消えてしまった。
「ケアプランって見てないんですが?」
「また帰ってきてから、、」続けて、認知症患者とのコミュニケーション方法についてもアドバイスが始まった。
「香子さんは時々、過去の出来事と現在を混同することがあります。そんな時は、焦らず、優しく、そして根気よく対応してください。彼女の話をじっくり聞き、現実に引き戻すよりも、その話に寄り添う形で接するのが良いでしょう。」
香子の家族構成や、彼女の好きな話題、音楽、テレビ番組についても触れ、これらの情報が香子さんとの関係構築に役立つことを強調した。
佐藤は、尚子が不安を感じたらいつでも質問するように促し、サポートが必要な時はチーム全員で支えることを約束し、安心感を与えてくれた。
最後に佐藤が強めに言う。
「私たちの仕事は単に身体的なケアだけではありません。利用者の心にも寄り添うことが大切です。この仕事の最も重要な部分は、利用者に対する思いやりと自立を尊重する事です。無闇にできる事を取ってはダメです!そして、、ケアプランに書いてない事が必要と思えたら、すぐに報告して下さいね!」
「は、はい!」と理解したふりをして返事をした。
「では、行きましょう!」
実際は、尚子の頭には収まりきらないメモが溢れかえり、「自立」と言う消化仕切れないままの言葉が頭にチラつき視界を曇らせた。
2人は足早に、田中香子宅に向かった。