第2話 それぞれの理由
文字数 3,455文字
「あの、田中香子さんのお家って何処ですか?」周囲を見渡しながら佐藤に訪ねた。
「ここよ!行くわよ!」
「え?この空き家?」そこには、生け垣の葉先が道に張り出し、窓が割れたまま、長年塗り替えらず薄茶に変色した壁面に蔦が張り付いている木造一軒家があった。
「失礼します!」佐藤は住人の返答を待たずに、古びた木材の玄関ドアをこじ開けて入っていく。尚子は一瞬躊躇しながら、佐藤を盾にするように続いていった。
玄関の隅には、無造作に古い靴が脱ぎ捨てられてたまま、狭い廊下から覗く部屋には、置き去りにされた家具や雑誌の山、古びた写真たち、壁にかけられた帽子やコートには、うっすら塵が積り歳月を物語っている。一見すると、やはり空き家の物置の様で日常が置き去りにされている様だ。
奥の部屋から香子の声が、忘れ去られた記憶の中からかき集めるかの様に、か細く響いてくる。
「あら、誰かしら?、、私の家に、お客様?珍しいわね。」
「こんにちは!田中さん!ひだまりの佐藤です!香子さん、私昨日来てたわよ!そして、こちらが今日からお世話させていただく訪問介護員の村田です。」佐藤が微笑みながら尚子を紹介した。
田中香子は小柄で白髪、メガネを掛けたどこにでもいる高齢者の様に思える。
「始めまして!村田尚子と申します!どうぞよろしくお願いいたします!」
香子の目はどこか遠くを見て焦点が合わず、尚子の顔を認識するのに数秒を要した。そして、尚子に視線が合うと突然、予期せぬ質問を投げかけた。
「尚子さん、あなたは独身ですね?それとも…離婚したの?」
「、、は?」尚子は一瞬言葉を失ったが、すぐに笑顔を取り戻し、答えた。
「はい、私は以前結婚していましたが、今は独身です。」
「やっぱり!私には判るのよ!いい人はいるんでしょ?」香子の質問はそこで止まらず、更に詳細を尋ねた。
「い、、いません。」佐藤が慌てて制止しようとしたが、矢継ぎ早に、、
「じゃ、なんで離婚したの?離婚の理由は?子供はいるんでしょ?」
佐藤が手先を横にふって、尚子に真艫に相手にするなと合図するが、尚子は正直に応えた。
「子育てで苦しんでいる時、夫は家事に全く無頓着で、それはいいのですけど、私が苦しんでいる事に関心が無い様で、、、私は自分の力を信じて、自分でやり直したかったんです!」
「村田さんいい加減にしなさい!そんな、まともに相手しなくて良いに!」
ケースファイルの中に田中香子の離婚歴を一目していた尚子は、田中香子なら分かってくれる気がして話した。
香子は思案するように腕組みし、頷きながら答えた。
「そう!あなた偉いわね!人生にはいろいろなことがありますよね!大切なのは、それぞれが今、後悔しないように、幸せに生きていることだと思います!」
一気にその場が和んだ。
尚子は、部屋の隅々に貼られたメモを目にした。食事の準備、薬の服用、大切な人の名前。それらはすべて、香子が日々の生活を繋ぎとめるための糸のようだった。しかしその糸も、香子の記憶と共に非常に脆く、断片化している。
「【4/2火曜日の昼にヘルパーさんが来るから家に居る事‼︎ 優子】ってメモにある優子さんって、長女さんですか?」
「ん?娘って、居なかったと思うけど?」記憶の糸が手繰り寄せるのが難しそうだ。
「ちょっと!お母さん!私が娘でしょ!優子!もう、、大丈夫?、、嫌になるわ!薬はもう飲んだの?」隣の客間から突然、娘の声が響き渡った。優子は定期的に訪れ、母の生活を支えている。彼女の存在は、このごみ屋敷にあって生活に一筋の光を投げかけている様に思えた。
「飲んだと思うけど、、」か細く響いた。
「お母さん、飲んでないじゃない!もう!毎日毎日!!」
佐藤が割って入る。
「それでは、今後も服薬や着替え、朝食の確認、必要な買い物、冷蔵庫や日常生活範囲の整理や掃除をさせていただきますね。村田さん、じゃ一緒にお願いします。」
「はい!分かりました!」
二人は手早く冷蔵庫内を確認し、今日の必要な買い物をメモし、寝室を見に行って脱いだ服を纏めて寝室の状況をチェックし、衣類を洗濯機にかけた後、朝食摂取の状況を確認してから、手際良く流しの洗い物をしていった。
「今日は香子さん落ち着いていらっしゃいますね。では、買い物行ってきますね!」
佐藤と尚子は近くの徒歩圏内のスーパー日和堂に向かった。
「佐藤さん!優子さんって認知症のお母さんに厳しいと思いませんでしたか?いつもあんなの、可哀想だわ。認知症の人には優しく、否定しないって基本を知らないのかしら?教えてあげた方が良いんでしょうか?」早足で歩きながら、問いを投げかけてみた。
「理由があるのよ。」
「理由?」
「香子さん、旦那の浮気や暴力に耐えられなくて、旦那が事業をやってて経済的に裕福だったから親権を旦那にしたままね、離婚して1人で家を出て行っちゃったの。だから、香子さんとしては、娘に申し訳なく思って過ごしてきたと思うよ。1人できっと寂しかったろうから内縁の夫も居たみたいね。娘は母親に放っておかれた、男も作って!と感じてるかもしれないわね。香子さんに冷たく感じるけど、本当に冷たかったら来ないよ。ああやって毎日来てるんだから、逆に偉いと思うよ。」
「、、、、」何も言えなくなり、決めつけってしまった自分の思い込みを恥じた。
それと同時に香子が語っていた『後悔しないように、その時を幸せに生きていること、、』を思い出していた。
「ただいま!」尚子が俯き加減で事務所に戻ってきた。
「初日お疲れ様でした!疲れたでしょ?」先に戻っていた高橋ゆりが笑顔で声をかけてきた。ゆりは、手にしていたコーヒーカップをテーブルに置きながらリラックスした声で言った。
「今日は田中香子さんだったんでしょ?認知症のお世話は、精神的にも体力的にもかなり要求されるから、大変だよね。」尚子は苦笑いしながら頷いた。
「はい、特に大丈夫だったんですが、娘さんの態度にちょっと気を取られちゃって…」
ゆりは優しい笑顔で尚子に視線を向けた。
「認知症に対する理解と本人への対応、そして家族への対応ね。難しいけど、この両立はヘルパーの仕事の核心の1つだよ。香子さんみたいに記憶が曖昧な方は、不安を感じたりすることが多いから安心できるような話題選びや、話し方、寄り添う姿勢を伝えるのが大切だよ。けど、、感情にはとても敏感だから気づいている事も多いしバカにできない。そして、娘さんの事を厳しく感じてしまうのも、彼女なりの思いや愛情の裏返しなんだと思う。認知症の方とその家族を裁かずに、両方をサポートするのが私たちの役目だからね。」
尚子は真剣な表情で頷き聞いていたが、頭の中は今日の色んな事で溢れそうだった。
「ありがとうございます、ゆりさん!もっと学びたいと思います!」
「無理しなくていいわよ!あと、尚ちゃんって呼んで良い?同い年でしょ。私の事もゆりって呼んで良いし!」
「ありがとう!助かります!ゆり先輩!ゆりちゃん!」
急に、ゆりが辺りを見回した後、顔を近づけてきた。
「あなたは来たばっかだから、佐藤さん言わないだろうし、私が言っとくね。春田さんには要注意よ!彼女は上っ面は親切そうに見えるけど、実は風見鶏みたいに節操なくお喋りだし、意地悪だし。失敗とかミスを待ち構えて食いついてくるから、絶対気を許しちゃダメだよ!」
尚子の表情が曇った。そこでゆりはふと笑顔になり「でも、心配しないで。尚ちゃんが私と同年で、これから仲良くやっていけることがすごく嬉しいんだから!私たち、仕事以外のことでもいろいろ話せるといいね。」
「うん!嬉しい!」尚子に笑顔がこぼれた。心強い味方の同僚を得たと感じた。
「村田さん!今日の記録をしてしまって、早く家に帰ってあげてね!」佐藤が会議室から顔を出して話しかけてきた。
「あ、はい!すいません!」同年の気を許せる高橋ゆりと信頼できる佐藤がいる。2人の縁に恵まれて、尚子は初日のしんどさにも関わらず、やっていける自信を得た。
「あ、それと、村田さん!」
「はい?」
「初対面の認知症の人相手に離婚の理由を話すのはどうなの?と思ってビックリしちゃったけどさ。香子さん、あれであなたの事直ぐに信用してたわね。結果としてはOK!って事ね!ま、それも明日には忘れてるだろうけど。」
尚子はゆりと顔を見合わせて、声をあげて笑った。