その先へ 【三題噺その四】<銀行員シリーズ>

文字数 1,997文字

 大都会のタワーマンションを毎朝最初に出るのは、この男。岩崎直樹。冬が近付く朝は日に日に暗く、そして冷えていく。それでも岩崎は始発電車に乗る。数駅先で乗り換え、その先も始発だ。朝のラッシュまでには随分時間がある上、方向は逆。つまりロングシートでノートパソコンを開いても全く問題ない。職場である銀行の事務管理センターまでは約五十分。ちょうど一仕事が終わる。
 ホットの缶コーヒーを握りしめ、ホームで乗り換えの電車の入線を待つ。電光掲示板が点滅し、電車が入ってきた。今日も頑張るか、と思った岩崎の前に、騒がしい男女数人が立ちふさがった。明らかに酔っている。どうせ沿線の後輩学生だろう、と思ったが、どうも年齢が高そうだ。キャバ嬢とアフターでもしたヤンキー上がりか、と軽蔑する。同時にこういう連中に絡まれたら大変なので、目を合わせないよう心掛ける。

 彼らが増えたくらいで座席は埋まらない。なのになぜ、この連中は岩崎の正面に陣取るのだろう。席は空いているのだから自分が動けばいいのだが、それはプライドが許さない。いつも通りノートパソコンを起動するが、大きな声で騒ぎ、いちゃつくあの連中が気になってしまう。早く()りやがれ。もちろん声には出せないので、スマホでつぶやくだけにした。

 停車駅ごとに、連中も一人、二人と減っていく。車窓から朝日が射す頃には、図体のでかい男だけになっていた。さすがに一人では静かだ。岩崎は安心し、キーボードを叩き始めた。が、ふとした瞬間に奴と目が合ってしまった。すぐに画面へ顔を戻したが、どうやら奴がこちらに近付いてきたようだ。敢えて気付かないふりを続けるが、自分でも明らかに動きがぎこちない。そして、奴は岩崎の隣にどしっと尻を落とした。

「直樹だよな? 気付かなかったか?」
 なんでこんな奴に名前を知られているのだ? 岩崎は自分の手が震えていることを自覚する。無視はとてもできない状況だ。恐る恐る右を向いた。いや、やっぱり知らない奴だよ……。
「直樹、お前、冷たいなあ。俺だよ、要。高木要(たかぎかなめ)!」
 高木要。岩崎はその名前を聞き、一気に記憶を遡ることができた。だが目の前の男はその記憶と全くつながらない。コイツがあの要のはずはない。こんな奴では……。が、岩崎はこの男の左の耳朶(じだ)、それはピアスのすぐ横にあり目立たなくなっていたが、その耳朶にある黒子(ほくろ)で分かった。そうだ、これは要……。でもなんで?

「あの、高木さん? えっと、地元に戻ってるの?」
 実は岩崎の勤務先である事務管理センターは、彼らの地元に存在する。岩崎は大枚をはたいてタワマンを購入した直後に、栄転させられたのである。実家に戻るなんてありえない。終業時間を守るため早朝出勤しているのだが、実のところ地元の知り合いに見られたくない、というのが本音だ。
「高木さんって、お前、よそよそしいなあ。折角二十年振りに再会したってのに!」
 岩崎はむしろ、二十年振りなのにここまで馴れ馴れしい高木の方が変だと思う。やはり野球の世界で挫折しておかしな人生を歩んでしまったのだろうか。
「じゃあ、要君? 今な、何を?」
「おう、結局大学は無理だったから、社会人野球で取ってくれるところに高卒で入ったんだけど、やっぱ駄目でな。転々として、この前の夏に帰って来たんだ。で、今はフリーター」

 三十過ぎてフリーターか。岩崎は高木を憐みの目で眺めた。かつて、甲子園を目指すために東北の高校に進んだ男。その話を聞き、毎年夏に図書館で新聞各紙を読み漁ったのは、岩崎である。結局最高で県大会決勝止まりだった。運動が苦手で目立たなかった岩崎にとって、そんな高木は夢をかなえるために努力するヒーローだったのだ。高校卒業後しばらくはドラフト下位指名選手をチェックしていたが、いつの間にか忘れてしまっていた。直線区間を過ぎ、電車はゆっくりとカーブに差し掛かった。岩崎は高木に寄りかかりそうになりながらも、次の問いを発することができなかった。

「んで、直樹は? お前もオールした帰り? じゃなさそうだけど?」
 岩崎は中学から都心の進学校に通い、この沿線にある大学を出て、銀行に就職した。世間的にはエリートといわれる部類だと自覚している。この年で事務管理センター勤務なので、出世コースではないことも分かっている。かいつまんで高木に説明する。
「なんだよ、直樹は東大に行って、政治家になってほしかったのに」
 岩崎には、そんなことを言われたり、ましてや約束した覚えなどはない。それほど高木と仲がよかったという記憶もない。
「直樹は俺らみたいな頭悪い奴の夢、ヒーローだったんだよ!」
 高木がそう言った頃、電車のアナウンスは、彼らの目的地が近いことを告げていた。岩崎の手は止まり、高木の口も塞がってしまった。

 改札を抜け、岩崎と高木は互いに反対の方向へと歩き出した。次に会う約束はしなかった。

 【了】
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