溺れる者久しからず【三題噺その七】

文字数 1,731文字

 グラスの水割りを飲み干し、左隣のユリエを見た。ああ、美しい。そして可愛い。文句の言いようがない容姿。この子に注がれる酒なら何杯でも飲める。マドラーを回すユリエの右手。その所作も形も完璧だ。もちろん見てくれだけではない。ユリエは俺の自慢話を面白そうに聞いてくれる。悩み事にも真摯に応えてくれる。職場でも家庭でも理解者がいない俺のギャグでしっかり笑ってくれる。これは運命の出会いだ。ユリエに会うためなら、毎晩この店「ユートピア」に通ってもいい。

 注がれるままに酒を飲み、俺の気分はますます盛り上がった。ユリエの点数をどんどん上げて、彼女をトップにしてやろう。人気が出ると指名が難しくなるかもしれない。でもいいんだ。ユリエが喜ぶなら。そのために俺は、残業も出張もどんどんこなそう。ふと家で待つはずの妻の顔が脳裏に浮かぶが、高揚感がそれを抑えてしまった。

 酒とユリエは俺を覚醒させる。この場を楽しむこと。ユリエとのトークを続けること。あわよくばアフターに誘うこと。閉店までまだ三時間もある。当初の予算は間違いなく超えてしまうが、俺の心はもう一線を越えているのだ。指名料の追加も含めるととんでもない金額になるやもしれぬ。そこまでは考えられたが、そこまでだった。

 金銭感覚がどんどん鈍感になっていく。帰巣本能なるものは消えてしまいそうだ。それが分かっていながらも、また水割りに手をつける。チーズとチョコレートがやってきた。寿司とかフルーツ盛もつけちゃおうか? しかしユリエがそれを制した。おなかいっぱい、と言ってくれたが、おそらく俺の財布を心配してくれたのだ。そしてこれは、アフターオーケーのサインだろう。その時奢ってもらうから、もうお店で使わないで。俺には確かに、彼女の声が聞こえたのだ。

 そこまで来れば、もう押すしかない。俺は、ユリエの太ももに左手を置いた。ちょっと睨まれたような気もしたが、俺の左手は振り払われないままそこにある。ストッキングの感触を味わいながらも、俺はユリエに声をかける。
「あっ、ごめん。つい……」
 そう言ってから自分で手を降ろした。そうしないとここで理性を失うような気がした。まだ自分をコントロールできている。俺が確信した時、ユリエが答えてくれた。
「うん、大丈夫よ。でもあんまりやると、お店に目をつけられるからね」
 ユリエは心地の良いささやき声で、微笑んでくれる。さっき睨まれたように感じたのは、自分の恐怖心からなのか。ユリエが作ってくれた水割りに口をつけ、俺は自分を(わら)う。店に注意を受けないようにさえやればいい。ユリエはそう言ってくれた。つまり彼女は、俺に気があるのだ。そうに違いない。アフターで飲み直すだけではなく、もしかすると……。

 だが、酒は記憶をも奪っていく。もちろんそうなることはある程度予想していた。だが結局はこの先のことを思い出せない。楽しいことをしたとしても覚えていなければ意味がない。しかし俺は間違いなくラストまで「ユートピア」にいたはずだ。そして思い出せる次の場面が警察ではないことから、とんでもないことはやらかしていない。えっ、なんで「ユートピア」にいたと断言できるかって?

 それは次の記憶も「ユートピア」の店内だから。金額をみて驚いたせいもあるけど、それだけじゃない。フカフカのソファーに黒服がやってきて、俺の顔に両手を添えたんだ。俺は思わず声を上げた。
「なにしやがる!」
「お客様、本日の営業は終了です。こちらをお返しいただきますので、失礼いたしますよ」
 黒服はそう言って、俺の眼鏡を外した。いや、眼鏡とヘッドホンが一体になったような、ゴーグルみたいな装置だった。そんなのを着けていたことなんてすっかり忘れていた。そしてそばにいたはずのユリエを見た。記憶にない普通の顔の女だった。あれはユリエじゃなかったのかもしれないが、あの薄い水色のドレスには確かに見覚えがあった。でも、顔も声も、そして手の形も全然違ったんだ!

 そして黒服が真顔で言った。
「本日の一部始終はあそこのカメラが全て記録しております。ゴーグルでご覧になったお客様の理想も、お話も勿論。さあ、お客様、奥様がお待ちです。本日はご来店有り難うございました」

【了】
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