同じ思いはさせじ、とて【課題文学賞その七】

文字数 1,751文字

 色とりどりのボールが、水の上を漂っていた。濡れたボールたちは黄色い照明に光沢を与えられていた。今まで見たことのない綺麗な世界。私はしゃがんでそれを眺めていた。水を張ったプールの向こうから声が聞こえ、私は顔をあげた。声の主は、頭に手ぬぐいを被ったおじいさんだった。それはガラガラと聞き取りにくい音だった。
「お嬢ちゃん、さっきからずっとここにおるけど、おかあちゃんにやらせてもらえんとか?」
 見知らぬおじいさんが発する聞き慣れない言葉に恐怖を感じた。私は聞き取ることのできた「おかあちゃん」という言葉に反応して振り向く。私の後ろにはいとこの恵美(めぐみ)とその母親がいるはずだった。
「お嬢ちゃん、一人でずっと見とっけん、おっちゃん心配でなあ」
 一人、という言葉を聞き取った私は、恵美と容子(ようこ)おばさんがここにいない、ということを理解した。突然の不安が私を襲った。四歳だった私は、何を言って良いかもわからず、こみ上げてくる感情のまま泣き出した。
「泣いてもなあ、困っとよなあ」
 手ぬぐいを被ったおじいさんは立ち上がって、大きな声で誰かを呼んだ。どこかからサングラスをかけて髪の毛をガチガチにリーゼントで固めたお兄さんがやってきて、私に近付いてくる。
 今度は身の危険を感じた。見知らぬ人から声をかけられたり、近付かれた時には大声を出すか、逃げるようにと横浜の幼稚園で教えられていた私は、走り出すことを咄嗟(とっさ)に選んだ。
「あっ、おい! ちょい、待ってや!」
 背中から聞こえる声を振り切り、人混みのなかに紛れ込む。一メートルくらいしか身長のなかった私は、自分がどこを走っているのかも分からない。でもとにかく逃げよう。あの怖そうなお兄さんが追って来るかもしれないと焦り、必死だった。
 何度か大人にぶつかりながら、私は結構遠くまで走った。履きなれない下駄のせいもあって、足が痛い。せっかくの浴衣も着崩れしている。夜店の明かりがまばらになった木の根元で、私の目からは涙があふれて来た。「なんで恵美もおばさんもいなくなったの?」言葉に発することも叶わず、ただ嗚咽を漏らしていた。誰も知らない福岡の街で、一人になった自分がとにかく悲しかった。

 どのくらい時間が経ったのだろう。道路の反対側から聞き覚えのある声が私を呼んでいる。あれはそう、私の名前だ。
歩美(あゆみ)ぃ、そっちにおるとぉ?」恵美の声だ。私は泣き声のまま、返事をする。
「めぐ、めぐみ? わたし、わたしここっ!」
 そう言いながら振り向いたとき、懐かしい恵美と容子おばさんの姿が確認できた。そして私は、二人に向かって駆けだした。私を見失ってから、恵美たちはずっと探し続けてくれたという。無事でよかった、と容子おばさんは何度も言った。先ほど通ったはずの通りで、匂いに釣られて買ってもらった焼きトウモロコシの味は今でも忘れられない。

 容子おばさんの姉である私の母は、故郷のこの街で同窓会に出席していた。だから私は母なしで、叔母親子と夏祭りの夜店に出かけていたのだった。同い年のいとこである恵美と柄違いの浴衣を着て、ウキウキとした気持ちでいっぱいだった。
 母は罪悪感を覚えていたのだろう、それ以降もしつこく私や容子おばさんに謝っていた。母が一緒ならあの迷子はなかったのに、と子どもの頃は思っていたが、今となってはそれも怪しいかなと思う。


 二十年以上も前のそんな出来事を思い出しながら、私は総合受付の奥にある控室の冷たい椅子に座っていた。娘の果歩(かほ)は先週四歳になったばかり。あの時の私と同じ年齢だ。イベント会場で中学時代の同級生に偶然会い話し込んでしまった隙に、果歩がどこかへ行ってしまった。当時と違い、近場の街の建物内、しかも日中の出来事ではあるが、今では物騒な事件も増えている。何かあったらどうすればいい? そして果歩の不安や母である私への思いはいかなるものだったろう。胸が張り裂けそうだ。無事との知らせを受けて少しは気持ちが安らいだものの、娘をこの目で見るまでは落ち着けない。

 ドアを叩く音が響く。私は思わず立ち上がり、白い無機質な板へ顔を向けた。手が湿り、目が霞んできたことを自覚したその時、ノブが回った。静かにこちらへと開いた扉の陰から、泣きはらした果歩の顔が覗く。

 ああ、果歩っ――。
【了】
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