一円玉の覚悟 <銀行員シリーズ>

文字数 3,216文字

 朝から忙しい日だった。窓口で高齢のお客様を相手にしゃべり続けた一日。
 窓口は顧客でごった返す。今日は四月二〇日。貸付信託は五日と二〇日に満期日が設定されている。その満期手続きのために、支店の窓口は混雑しているのだ。
 二〇世紀末、信託銀行窓口担当の仕事は、満期になった貸付信託を、それよりうんと利回りの低い定期預金や、リスクの高い投資ファンドに振り替えてもらうことだった。高度経済成長からバブルを経て、貸付信託は大きく殖える金融商品だった。これからお勧めすべき商品は、どれも魅力に乏しい。それでも、当社のお客様であり続けていただかなくてならない。社内的には、「資金流失防衛」と物々しい標語が掲げられている。でも窓口担当者は笑顔で、優しく。そしてもちろん、正確に。

 昼近くになると、一般職の女性たちはグループごとに昼休憩へと抜けてしまう。昼には仕事の合間に来店する顧客が入るため、窓口は一層混雑する。だから残った窓口担当には、更に仕事が圧し掛かる。入社間もない総合職も、最初のうちは窓口での業務に就くことが多い。二週間の全体研修と一週間の窓口研修を経て迎えた初の満期日。昼休みは特に、休息を保証されず、ひたすらお客様としゃべり、パソコンを見、通帳をリーダーに通す。窓口は顧客から丸見えということもあり、ほっと息をつく間もない。一般職の先輩方や、課長クラスで窓口に戻ってきた総合職社員はさすがだ。華麗にその場を去り、一息ついて戻ってくる。でもそんなこと、新入社員にはできようもない。腹が鳴り、口が渇くのをむしろ快感に感じ、頑張る自分を美化する。銀行の窓口業務は一五時までだ。一四時五〇分。あと少し。あと少しだ。

 目の前に六〇歳前後の女性が座った。表情がきつく化粧が濃い。ずっとお待たせしたからな。接客の基本として、「大変お待たせしました」と当たり前のように言った。

「ほんとよ。もうっ。今日はね、もうおたくと取引を止めようと思って」
 ん? 満期日最後の客でこれか…と身構える。
「長年のお取引、有難うございます」
 マニュアル通りの対応を始めてみた。入社一か月。随分と慣れてきたなあ、と誇らしげな自分がいた。
「何言ってんのよ、早くしなさい。解約よ、カイヤクッ!」
 右手を大きく振り上げ、天井を指さす。声も大きかったので、両隣のお客様も、先輩もこちらをちらりとうかがった。
 いや待て、ここは冷静に。
「そうですか、お時間があるようでしたらご資金の使い道などお教えいただけますか?」
 少し押され気味であったが、聞き出しはやっておかないと。
 そして同時に、取引内容を検索する。
 あれ? この満期の元本五〇万円が一本だけ? これまでも特に大口の取引があった訳ではなさそうだ。しかし、普通預金が、公共料金の支払い口座になっていた。この場合、引き落としを中止するための書類が必要だった。そこに記載するべき登録番号は、銀行では管理していない。お客様に書いていただかなくてはならないものだった。

「あの、大変申し訳ありませんが、公共料金の……」と説明を始めた。正直に言うと、元本五〇万のクレーム客など、きれいに取引解消してしまう方がメリット大だと考えていた。

「あんた、面倒な客だなあとか思ってるでしょ!」
 と怒鳴られた。え、あ、分かりますか? いやでも、そんなこと言ってしまったらまずい。奥の席に座る課長は、この状況に気付いているだろうか?

「申し訳ありません。しかしお客様のご要望に応えられない状況なので、説明をさせてください」
 一五時一五分になっていた。支店のシャッターは降り、店内のお客様は目の前の彼女だけだ。他の窓口担当は、こちらを気にしながらも、勘定合わせや顧客情報の整理を始めている。すぐ後ろの出納担当は、当日の締めを始めたそうにこちらをチラ見しているだろう。

 説明を行った後、彼女も冷静さを取り戻してくれたようだった。定期預金の利率や、投資信託についても質問された。新入社員、よくやった。これは素晴らしいことだ。今、一五時二五分であることを除けば。

 結局、普通預金口座は残すが、今回の満期分は収益も含め現金で持ち帰る、という話が決まった。普通預金は、いずれ解約するつもりだが、また使うかもしれないとのこと。
 では、と満期の金額を自動計算する。税引きで六二万五〇三一円。紙幣は窓口担当の左から、硬貨は背中から。それぞれ置かれている機械から出てくる仕組みだ。改めてお客様の面前で札勘定を行い、お渡しする。六二枚の一万円札。扇型に広げ、きれいに数えた。
「あんた新人よね」
 札勘(さつかん)もうまくなったと自負していたが、このお客様には敵わない。頑張ります、と明るく応えておく。
 そして後ろを振り向き、機械に差し込んであるカルトンに手を置く。硬貨をお渡しし、これで終了だ。時計は一五時四五分を指していた。
「ありがとうございました」

 ようやく終わった。周囲の先輩女性たちがねぎらってくれる。課長は結局出てこなかったが、大きなトラブルにしなかったことは褒めてもらえた。
 ふと後ろのカルトンに目をやる。カルトンの隅っこに、あった。

 あっ。
 カルトン内の毛羽だったゴムに挟まれ、一枚の一円硬貨が直立していた。

 やばい。。。
 本来はカルトンごとお客様の前に出し、目の前で硬貨も数えるべきだ。その基本を守らずに犯したミス。

 仕事が終わろうとする、この和やかな雰囲気をぶち壊す訳にはいかない。もう機械からは出金されているので、今行われている現金と取引記録との勘定合わせでは、浮かび上がることのない一円。

 まだ新しいスーツのポケットに、そっと忍ばせた。



 一年上の総合職の先輩には打ち明けた。自分にも経験があるという。自費で一〇円硬貨一枚を現金書留として、お客様にお返ししたとのことだった。同じような失敗を先輩がしていることには安心したが、処理方法が正しいかは分からない。一円硬貨でも、これはお客様の資産であり、銀行名で発行する明細とお渡しした金額とにずれが生じたのは事実なのだ。しかもあの客である。

 一九時過ぎに仕事を終え、支店近くにある住宅街の坂を上った。手にした小さなメモは、ゼンリンの住宅地図を簡単に書き写したものだ。二つ目の角を曲がって見えた平屋は、周囲の建売住宅とは趣が異なっていた。あまり高級感はない。資産価値はどうだろう? なんて思うのは、新人とはいえ既に信託銀行(トラスト)マンとなった証拠か。
 灯はついているものの人の気配を感じない。不在かと思ったが、呼び鈴を鳴らすと、化粧を落とした女性が顔を出した。同じ人物であることは、間違いないだろう。
「何ですか? ああ、あんた、信託の……」
「夜分に突然、申し訳ありません。実はお渡し損ねた硬貨がありまして」
「えっ?」
 首を垂れ、怒鳴られるかとも覚悟した。

 笑い声が聞こえてきた。
「あんた、一円玉を渡しにわざわざ来たの? いいじゃない。そんなのあんたのにしなさい」
「いや、これはお客様のものですから、まずはお渡しします」
「ふーん、それじゃ」
 と彼女はそれを受け取った。こっそり持ち出してきた、外回りの営業用粗品である台所用ラップをお詫びとしてお渡しした。
「解約した客にこれくれるなんて、いい銀行じゃない!」
 安堵しながらも、恐縮し続ける。

「面白いから、あんた指名でこれからもおたく使うわ。それがいいんでしょ!?」
 複雑な喜びを味わいながら、その住宅を辞した。


 その後、駅前の居酒屋で総合職の先輩に報告した。もちろん周りの客に聞こえないよう、静かに。先輩からは、褒められも怒られもしなかった。多少の違いはあっても、皆経験してきたことなのだろう。ミスなく、公明正大に勤め続けることは、きっと難しい。金融再編も常に話題になっていた。果たしてこの先、どんな経験を積み、「大人」になってしまうのだろう。中ジョッキを傾けながら、考えていた。

[了]
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み