第23話 斜陽
文字数 2,285文字
紀元前 二0八年六月
項梁と項羽軍は、楚の懐王 の玄孫 である熊心 を探しだし、懐王として擁立した。
楚国の復興という名目を掲げ、反乱軍の統率を計ったのだった。
項梁は、項羽及び劉邦を別々の経路で進軍させて咸陽を目指した。
がしかし、その項梁が章邯の率いる秦軍に猛攻撃を受け定陶 (現在の山東省 )で敗死してしまうのだった。
その後、懐王によって栄義 (楚の令尹 ...宰相に相当する位)が上将軍に任命された。
このとき、反乱軍の趙歇 (趙の王族)たちが秦軍の猛攻を受け、救援を早急に必要としていたが、栄義の戦略は秦軍が疲弊するまで待機するというものであった。
だが、それを見かねた項羽が懐王の命令だと偽り栄義を切り殺し、自らを上将軍と名乗りを上げ、鉅鹿 (河北省平郷県)にて秦軍を大破させ趙軍の危機を救ったのだった。
かなり強引な暴挙ではあるが、結果として反乱軍を勝利に導いたことは確かである。
この一連の項羽の武勇は、瞬く間に反乱軍の内部に伝播し、諸将が楚軍に帰属していった。
やがて組織化した反乱軍は、強化拡大され秦軍を次々に撃破していく。
翌年の二0七年には、秦の将軍たちである王離 、長史欣 、章邯 達が軒並み投降するに至った。
名将たちが楚軍に投降した要因は、楚軍を中心とした反乱軍の強さだけではないのは明白であり、秦の上層部の混乱による統率力の欠如が最大の要因であろう。
組織の解体は、外部からの攻撃だけで崩壊するのではなく、間違いなく内部の軋轢 によって人心が離れることが最大の要因である。
時をほぼ同じくして、趙高の陰謀により、丞相の李斯が謀反の嫌疑をかけられ、皇帝胡亥の勅命にて腰斬刑に処せられた。一家三代皆殺しという厳罰である。
李斯の人品 は、さておき、李斯は始皇帝から重用 され、丞相の地位まで上り詰め、秦帝国において全ての政策に関わり、国を治めることに心血を注いできた人物である。
それまで秦の政策を一手に担ってきた人物を失ったことは、国の指針を失ったも同然、集団が烏合の衆となるのは目に見えていた。
更に追い討ちをかけたのは反乱軍の猛攻撃による秦軍の連敗であった。
既に、このとき秦の領土は、わずか関中だけとなっていたのである。
趙高は、その李斯を抹殺したことで、自身が丞相となったまでは都合が良かったのだが...
責任を擦り付ける捨て駒がいなくなったことで、自分にお鉢が回ってくるのを恐れた。
この危機的状況で、趙高がとった行動は...
皇帝胡亥に責任を負わせることであった。
自分の権力が確固たるものだと判断した趙高は、(かの有名な逸話、『馬鹿問答』については割愛)紀元前二0七年八月女婿 の閻楽 に命じて兵千人余りを率いて宮中に乱入させた。
皇帝胡亥は、この時も自室の床几に座り、気に入りの女性を側に侍 らせ、寛いでいたことだろう。
そのようなおりに突然、兵を引き連れた閻楽が飛び込んできたのだから度肝を抜かれたに違いない。
胡亥の周囲にいた者が、蜘蛛の子を散らすようにサーっと消え失せ、胡亥ひとりが呆然と床几に取り残された。
閻楽は仁王立ちで開口一番、
「陛下!
反乱軍はすでに、この関中を目掛け進撃しております。
間も無く反乱軍に、この咸陽宮は包囲され、もはや逃亡することもかなわないと存じます!
陛下、この期に及んでは、敵に捕らわれ、首を取られるのは生き恥を晒すようなもの...何卒、お察しくださいますよう...」
と迫った。
胡亥は、わなわなと震えだし顔面蒼白になりながら訴えた。
「ち、趙高は何処に居るのか?趙高を此処に連れて参れ!
わ、わたしは皇帝になど成りたくは無かったのだ。本当は兄上(扶蘇)がなるはずであった...
わたしは皇帝でなくて良い。
そ、そうだ!国王で構わないから...それでも駄目というのならば臣下となっても良いのだ...
あぁ、このようなことになる前に、何故、誰も真実を言わなかったのだ...」
真実を告げたものは、殺されるに決まっているのに、誰も言えるわけがない。
臣下にとって、趙高の存在は、それほどの恐怖であったのだ。
涙ながらの胡亥の訴えであったが、閻楽が首を縦に振ることは無かった。
秦帝国二世皇帝の胡亥は、命乞いも虚しく、自刃を余儀なくされた。
優秀ではあったが、心悪しき本性を巧みに隠した趙高を信用してしまったがゆえに招いた悲劇である。
胡亥の人生は、宦官の趙高に乗っ取られも同然だった。といっても過言ではなかっただろう...
上記の経緯 は、始皇本紀によるものであるが、李斯列伝では、趙高が自ら皇帝になるという野望のために、胡亥を自殺に追い込んだ話になっているようだ。
同じ『史記』で違う経緯 が記されているが、史記では間々あることかと思われる。
事実と伝承が入り交じったうえに、司馬遷の想像も取り込まれているため矛盾が生じるのは仕方無いのだが、宦官である趙高が皇帝になるというのは不可能に近いのではないだろうか?
基本的に宦官は、人であって人ではない異形の者として扱われていた。
人以下の者が、宇宙で唯一無二の、選ばれし者として君臨できるわけがないのだ。
趙高が、どんなに皇帝の地位を望んだとしても人民は拒否することだろう。
その事は、権力に執心し欲望に狂っていたとしても、趙高は分かるはずなのである。
ただ、このとき秦帝国は統一国家としては機能しなくなっており皇帝位は、継承できない事態になっていた。
胡亥の後継者として担ぎ上げられたのは、胡亥の兄の子とされる『子嬰』 であった。
もちろん皇帝ではなく、秦王として即位したのだ。
この沈みゆく帝国に、太陽が降り注ぐことは、もうないだろう。
わずかな残光は、心許ない限りであった...
項梁と項羽軍は、楚の
楚国の復興という名目を掲げ、反乱軍の統率を計ったのだった。
項梁は、項羽及び劉邦を別々の経路で進軍させて咸陽を目指した。
がしかし、その項梁が章邯の率いる秦軍に猛攻撃を受け
その後、懐王によって
このとき、反乱軍の
だが、それを見かねた項羽が懐王の命令だと偽り栄義を切り殺し、自らを上将軍と名乗りを上げ、
かなり強引な暴挙ではあるが、結果として反乱軍を勝利に導いたことは確かである。
この一連の項羽の武勇は、瞬く間に反乱軍の内部に伝播し、諸将が楚軍に帰属していった。
やがて組織化した反乱軍は、強化拡大され秦軍を次々に撃破していく。
翌年の二0七年には、秦の将軍たちである
名将たちが楚軍に投降した要因は、楚軍を中心とした反乱軍の強さだけではないのは明白であり、秦の上層部の混乱による統率力の欠如が最大の要因であろう。
組織の解体は、外部からの攻撃だけで崩壊するのではなく、間違いなく内部の
時をほぼ同じくして、趙高の陰謀により、丞相の李斯が謀反の嫌疑をかけられ、皇帝胡亥の勅命にて腰斬刑に処せられた。一家三代皆殺しという厳罰である。
李斯の
それまで秦の政策を一手に担ってきた人物を失ったことは、国の指針を失ったも同然、集団が烏合の衆となるのは目に見えていた。
更に追い討ちをかけたのは反乱軍の猛攻撃による秦軍の連敗であった。
既に、このとき秦の領土は、わずか関中だけとなっていたのである。
趙高は、その李斯を抹殺したことで、自身が丞相となったまでは都合が良かったのだが...
責任を擦り付ける捨て駒がいなくなったことで、自分にお鉢が回ってくるのを恐れた。
この危機的状況で、趙高がとった行動は...
皇帝胡亥に責任を負わせることであった。
自分の権力が確固たるものだと判断した趙高は、(かの有名な逸話、『馬鹿問答』については割愛)紀元前二0七年八月
皇帝胡亥は、この時も自室の床几に座り、気に入りの女性を側に
そのようなおりに突然、兵を引き連れた閻楽が飛び込んできたのだから度肝を抜かれたに違いない。
胡亥の周囲にいた者が、蜘蛛の子を散らすようにサーっと消え失せ、胡亥ひとりが呆然と床几に取り残された。
閻楽は仁王立ちで開口一番、
「陛下!
反乱軍はすでに、この関中を目掛け進撃しております。
間も無く反乱軍に、この咸陽宮は包囲され、もはや逃亡することもかなわないと存じます!
陛下、この期に及んでは、敵に捕らわれ、首を取られるのは生き恥を晒すようなもの...何卒、お察しくださいますよう...」
と迫った。
胡亥は、わなわなと震えだし顔面蒼白になりながら訴えた。
「ち、趙高は何処に居るのか?趙高を此処に連れて参れ!
わ、わたしは皇帝になど成りたくは無かったのだ。本当は兄上(扶蘇)がなるはずであった...
わたしは皇帝でなくて良い。
そ、そうだ!国王で構わないから...それでも駄目というのならば臣下となっても良いのだ...
あぁ、このようなことになる前に、何故、誰も真実を言わなかったのだ...」
真実を告げたものは、殺されるに決まっているのに、誰も言えるわけがない。
臣下にとって、趙高の存在は、それほどの恐怖であったのだ。
涙ながらの胡亥の訴えであったが、閻楽が首を縦に振ることは無かった。
秦帝国二世皇帝の胡亥は、命乞いも虚しく、自刃を余儀なくされた。
優秀ではあったが、心悪しき本性を巧みに隠した趙高を信用してしまったがゆえに招いた悲劇である。
胡亥の人生は、宦官の趙高に乗っ取られも同然だった。といっても過言ではなかっただろう...
上記の
同じ『史記』で違う
事実と伝承が入り交じったうえに、司馬遷の想像も取り込まれているため矛盾が生じるのは仕方無いのだが、宦官である趙高が皇帝になるというのは不可能に近いのではないだろうか?
基本的に宦官は、人であって人ではない異形の者として扱われていた。
人以下の者が、宇宙で唯一無二の、選ばれし者として君臨できるわけがないのだ。
趙高が、どんなに皇帝の地位を望んだとしても人民は拒否することだろう。
その事は、権力に執心し欲望に狂っていたとしても、趙高は分かるはずなのである。
ただ、このとき秦帝国は統一国家としては機能しなくなっており皇帝位は、継承できない事態になっていた。
胡亥の後継者として担ぎ上げられたのは、胡亥の兄の子とされる
もちろん皇帝ではなく、秦王として即位したのだ。
この沈みゆく帝国に、太陽が降り注ぐことは、もうないだろう。
わずかな残光は、心許ない限りであった...