第14話 脱出

文字数 2,710文字

「はぁはぁはぁ...」息が苦しい。
出口は、まだまだ先なのだろうか?
琳曄は自分に起こっている事態が現実だとは、とても思えなかった。
まるで他人事のように感じていた。息があがって胸が苦しくて、手のひらや膝も激しい痛みで我慢の限界を越えているのだが、何故か自分ではない自分が苦しんでいる。そんな変な感覚であった。
この胸の苦しさは、呼吸が乱れていることだけが原因ではない。
母の

の姿が目に焼きついて離れなかった。
想像などしたくない。
母が、あの後どうなってしまったかなんて...
琳曄は何も考えられなかったし、何も考えたくなかった。
最愛の母との別離が、あまりに突然で6歳の琳曄には到底理解できるわけがなかったし、例え大人であったとしても事の次第を受け入れるのは難しい。

秀慧を先頭に、二人は狭く真っ暗な通路を四つん這いで進んでいた。
壁は粗削りで不揃いな石を積み上げてあるだけだが、流石に強固な作りである。
時に虫が這うらしく手の甲がモゾモゾしたが、それよりも手の平が痛みでピリピリ疼き、体重の掛かる膝が真っ赤に擦りむけて血が滲んでいるのが辛い。だが止まるわけにはいかなかった。休んでる(いとま)は二人に与えられていない、ひたすら手足を前後に動かすことだけを求められている。

琳曄の前を進む、秀慧もまた無心であった。
後方に琳曄の苦し気な息遣いを聞きながら、出口を目指した。ただ、ただ自分の使命を果たすべく集中するのみである。
今は、感傷に浸っている状況ではない。琳曄を一刻でも早く安全な場所まで導かなくては!との使命感だけが秀慧を支えているのであった。

秀慧の動作がピタリと止まった。指先に土壁が触れたのだ、これ以上進めない...

「琳曄様!通路は、ここで行き止まりです!」
秀慧の声に驚き、琳曄の肩がビクッと萎縮したと同時に、全身の筋肉が弛緩していくのを感じた。
琳曄の呼吸は大きく乱れて疲れきってもいたが、不思議と達成感のようなものが湧いてくるのだった。
秀慧は手を上下左右に動かし、こぶしで壁を叩いて感触と音の違いを聞き分け、出口を探しているようだ。
斜め左上部を叩いた時、明らかに周囲とは異質な箇所があった。少し強めに叩いて確かめてみると、木材らしき感触と外部に抜けるような軽い音がした。
「良かった...」秀慧は、出口がちゃんとあったことに安堵した。
重みのある硬い木材の板に、右手のこぶしを押し当て少しずつ力を加えてゆく、長い時間放置されていたうえ外側は出口が見えないように草や土などに覆い隠されているに違いない。
秀慧は渾身の力を込めて板を押した。
グググッ......バタン!!
厚みのある木製の板は、鈍い音をたてて地面に
転がったのだった。
秀慧は腕で体重を支え(いたち)のように胴体を伸ばし身軽にスルッと出口を抜け出した。
「琳曄様、さぁ手に掴まってください!」と再び上半身を通路の出口に突っ込み、自分の右腕を伸ばした。
琳曄は下から秀慧を見上げて、必死に足の爪先をたてて体を支え、手の指もピーンと伸ばして秀慧の手を掴もうともがいた。
ふたりの指先が何回か触れあい、あと少し...
琳曄は更に体を伸ばした。
秀慧は、その瞬間を逃さずにしっかりと琳曄の手を握った。
秀慧にうまく引っ張られた勢いで、楽に出ることができた。
果たして暗闇から出ても、目の前には更なる暗闇が広がっていて自分がどこにいるのかわからなかったが、風に吹かれた草が互いに(こす)れ合う乾いた音や、コオロギや鈴虫の物悲しい鳴き声が聞こえた。そして夜空には流れる雲の間からキラキラと光る星々が見える。

~星は変わらずあそこで輝いているのに
  ああ...ここはもう宮中じゃない。

琳曄は、生まれてから今のいままで城の外に出たことが無かった。
押し出されるようにして知らない世界に放り出され、冷たい夜風が体を撫でるように通りすぎて身体はブルッと震えた。
母の暖かい腕の中に戻りたい...と心の底から願ったが、背後には吸い込まれそうな暗闇があるだけで母の姿は見えない。
城壁さえもわからなかった。ついさっきまで自分の居場所であったのに、当たり前のように過ごしていたのに嘘のように消えてしまった。

「し、秀慧?」
「...はい、琳曄様」

琳曄からは何も言葉が出てこない。
秀慧は膝を折ると、琳曄を強く抱き寄せた。
「大丈夫、大丈夫ですよ。」
秀慧は優しく、だがしっかりとした口調で励ました。
それは琳曄に向けての言葉ではあったが自分自身に対する言葉でもあるようだった。
琳曄は小さく無言で頷くのみであったが、意思表示をしてくれただけでも秀慧は嬉しかった。

「お水を召し上がりますか?」
コクンと琳曄は頷いた。
背負っていた荷物をほどいて竹製の水筒を取り出し、栓を外してから、琳曄に手渡した。
冷えた水を口に含み、食道を通り胃におさまると、琳曄はやっと認識できた。
これは現実に起こったことで
夢ではないのだと...

「琳曄様、先を急ぎましょう。夜明けが来る前に、できるだけ進むのがよろしいかと思います。」
「うん...わかった。
それで、これから何処に行くの?」

「はい、私達が参りますのは崋山(かざん)でございます。」 
「...崋山?」
「わたくしの叔父がおりますゆえ、
叔父上と関中(かんちゅう)の東の外れで二日後に落ち合う手筈です。」
「秀慧の叔父上と会うの?」
「はい、そうです。」
琳曄は、初めて聞く地名や人物に戸惑いつつも、これまで起こったこと、これから起こることを受け止めようと6歳なりに懸命であった。

秀慧は、叔父の瑛成(えいせい)と会えない可能性が高いと踏んでいた。駄目なら何としてでも自力で崋山に辿り着くまで!と腹を決めているのである。
そして夜空を見上た秀慧は、北辰(ほくしん)(北極星)を探しだした。

「琳曄様、出発しましょう!」
「うん!」
琳曄の小さな背中は健気にも訴えていた。
先へ進むのだ...
そして、二度と後ろは振り返らなかった。


次の日の朝、後宮では憐れにも息絶えた李夫人が発見されたが、公主琳曄と御付きの女官の姿が見あたらないと郎中令(趙高)に報告された。

「城内に必ずおるわっ!草の根わけてでも探し出せ!必ずや生きたまま引っ捕らえろっ!!」
趙高は、まるで狂犬のように吼えた。
癪にさわる小娘どもめが...
見せしめにしてやるっ!

この時、自分の身に崩壊の危険が迫っているなど趙高は爪の先ほども考えてはいなかった。
一介の農民である、陳勝と呉広から派生した反乱が大きく激しい波となり秦帝国を砕こうと唸りをあげはじめていた。
この期に乗じて、かつて秦に滅ぼされた国々の貴族たちも狼煙(のろし)を上げた。
そのなかでも、楚の大将軍であった項燕(こうえん)の息子、項梁(こうりょう)と甥の項羽(こうう)が頭角を表し、秦の小役人であった劉邦(りゅうほう)と天下を争うこととなるのである...














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