第8話 本当に好きな人

文字数 2,588文字

 孝弘と恋人同士になると失うもの。 
 それはなんだろう。
 すくなくとも、この日本で普通に暮らしていくことはできないかもしれない。

 いや、出来るだろ。俺たちなりの暮らしが。
 失うものが多すぎる、実際にそうだろうけれど、そんなの言い訳だろ。
 本当は自分が一般の常識から逸脱したくないだけだ。
 
「――さん、和沙さん、聞いていますか」
「あ、ああ……なんだっけ?」

 今、俺の前には友理奈さんがいる。
 また映画をみようと、彼女から誘ってくれた。
 それに俺はOKし、映画をみたあとに以前きた喫茶店に入った。そしていまここに至る。

「今日の映画は面白くなかったのですか?」
 
 ストローでコーヒーの氷を掻きまわして彼女は首を傾げる。
 ああ、孝弘もよくそうしてコーヒーをストローで掻きまわしていたな。
 そんなことを思い出してしまった。 

「どうして? 映画は面白かったよ」
「嘘よ。映画のストーリーなんて全然覚えていないみたいですわ」

 日本人形のような黒髪が、うつむいた友理奈さんの動きに合わせて揺れた。

「そ、そんなことないよ」
「いえ、……本当は知っていたんです」

 何をだ。彼女は意味深に俺の瞳を覗いてきた。

「和沙さんに好きな人がいること」
「……え?」
「いらっしゃるのでしょう?」
「いないよ」
「うそ」

 友理奈さんは顔を上げて厳しい目で俺を睨む。

「いつもいつも、和沙さんは私といても、私じゃない誰かのことを考えていました」
「そ……そんなことないって」

 誰かって誰だよ。
 孝弘だとでもいうのか。
 ふっとヤツの顔を思い出した。
 
「ほら、今考えている人が和沙さんの好きな人ですわ」

 彼女はあきらめたように眉を寄せて口元に苦笑を浮かべる。
 その表情に俺の方もはっとなる。

「私、初めて和沙さんに逢ったとき、とても気が合うと思いました」
 
 友理奈さんが泣きそうな顔で俺から視線を外す。

「でも映画を見に行ったとき、分かったんです。ああ、この人には好きな人がいるんだなって」
「……」
 
 俺はまた答えることができない。
 優柔不断にもほどがある。
 俺は俺自身に腹がたった。

「私といてもいつも上の空。そんな人と一緒になんてなれませんよね」
「……すみません」
「謝るんですね。違うって否定してくれないんですね」

 友理奈さんは泣くかな。そうおもったとき。
 厳しい瞳で目を射られ、ぺちんと軽く頬を叩かれた。

「失礼にもほどがあります」

 ぜんぜん痛くなかったけど。
 その代わりにこころが痛い。

「早くその人のところへ行ってしまいなさいな。好きなんでしょう?」
「あ……」

 ……そうだ。好きだ。

 俺も、もうごまかせない。
 そうだ。
 好きになったら、自分の心なんてごまかせないんだ。
 
 俺は伝票をもって、席をたった。
 とたんに胸がドキドキしてくる。
 まだ間に合うか? 俺はヤツのこころの中にまだいるのか?
 自分で自分がひどいと思う。
 さんざん孝弘を振り回して、最後にふったのに、それでもまだヤツのところへ戻りたがる。
 最低だ。
 でも、もうこころに嘘がつけない。
 ヤツの元へ走り出すこころが止められない。

「すみません、会計はおれが。俺、行きます。もう手遅れかもしれないけど、ヤツのところへ」
「ええ。早くいってしまいなさい」

 友理奈さんは聖母のように微笑んだ。

 それから俺は走った。街の中を全力疾走した。
 歩道橋の階段を駆け上がり、下りで転びそうになる。
 坂道をつんのめるようにして走り倒し、登り切ったところでまた全力疾走した。
 一度しか行ったことのない、孝弘のアパートへ向かって。
 電話ではだめだ。
 直接あって、ヤツに謝るんだ。

 俺、ヤツを凄く傷つけている。
 もう手遅れかもしれない。
 手袋をくれたこと、手の甲にキスをしてくれたこと、車の中でキスしたこと。
 そのどれもが、精彩を放って俺の脳に再現される。
 好きだ、好きだ。
 
 俺は、とっくに孝弘に落ちていたんだ。
 


 孝弘のアパートのドアの前まできた。
 光りだした照明の蛍光灯は、ぱちぱちと切れかけていた。
 壁は黒ずみ、ひびが入っていて無気味な雰囲気だ。 
 築二十年近くのアパートは、俺のアパートと違って、あちらこちらにガタがきている。
 
 駅から全力疾走できたので、苦しいくらい息があらい。
 呼吸を整えるために深呼吸をした。
 そしてドキドキしながらインターホンを押す。
 今度振られるのは俺かもしれない。
 俺は孝弘に許してはもらえないかもしれない。

 でもその恐怖を押してでも、この気持ちは伝えなければ。
 俺の気がすまない。 
 もし孝弘が許してくれるのなら、今度はちゃんとあいつの気持ちを受け止める。

 インターホンを押してしばらくたったけれど、誰もでてこない。
 留守か。
 もう一度押しても誰もでては来なかった。

「バカみて……俺……」

 自分で選んだはずなのに。
 孝弘とは一緒にいけないって。
 でも考えるのは孝弘のことばっかりで、心が苦しい。
 そう、気持ちに嘘はつけないんだって孝弘だって言っていた。

 扉を背にしてずるずると尻もちをついた。
 走り倒したので身体がぐったりしている。
 足もがくがくだ。
 
 息を整えて頭が冷静になってくると、孝弘が俺を許してくれるわけがないと思えてきた。
 あんな別れ方をして、どういう顔をしてあえるっていうんだ。
 体育座りで顔を伏せる。

「ほんと、バカ、俺、バカ」

 涙が出て、自分のバカさ加減に嫌気がさす。

「ほんとうに、バカだな」

 そんな俺の声に応えた声があった。 
 顔をあげると、孝弘がスーパーの袋をもって立っている。

「人んちの玄関の前でなにやってんだよ、お前は」

 呆れた声音。孝弘は俺を見て困った顔をして首を傾げた。
 俺は立とうとして、失敗した。
 足ががくがくして震えている。長時間の全力疾走はかなり俺の身体に負担をかけたらしい。

「いいから、入れ」
「い、いいのか? 俺が入っても」
「そんなんじゃ帰れっていっても帰れないだろう。こんな寒い日に外に放り出しておくほど、俺は無情じゃない」

 孝弘は俺を立たせて、肩をかしてくれた。
 足ががくがくしていて、立ち上がるのにも一苦労だった。

「本当に何をしたらそんな風になるんだよ」

 呆れた孝弘の声に俺は自嘲した。

「本当、俺ってバカだから」
 
 部屋に入れてくれるという孝弘のやさしさに少しだけ安堵する。
 それだけで涙が出そうなくらい嬉しかった。
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