文字数 1,413文字

 しばらく平穏な日々が続くかに思えた。
 その日は朝から雨だった。深夜一時をまわった頃だろうか、アパルトマンの通りを挟んだ向かい側に車が停まった。黒いワゴン車はしばらくエンジンをかけたまま、ヘッドライトを消していた。この通りは街灯が少ない。黒い車体が闇夜に同化していた。パリ市内の石畳の道は人通りも無く、雨が強弱をつけては車のボンネットを叩いた。
 深夜二時、近々開催する個展用の油彩画を描き終え眠りについた。ヨウコは先に寝室に入っており、ノボルが妻を起こさないようにそっと部屋に入るのが常だった。子供たちは別室で、朝まで起きることはない。一度寝室に入った後、アトリエであるリビングで微かな物音がした。降りしきる外の雨で、ハッキリとは聞こえなかった。護身用の銃は持っていなかった。フランスでは必要に応じて、許可を得ることで個人で銃を所持することが許されている。しかし、銃規制の認識は日本より少し緩いといった程度で、誰もが所持しているというわけではなかった。特に日本から来て、ヨーロッパ各国を転々としたノボルにそのような危機感はなかった。ただ、六月の雨という美術品だけを狙う窃盗団の存在は知っていた。パリ警察からは自宅で作品を保管しないようにと言われたが、ピカソやゴッホじゃあるまいし、多少名が知れているとはいえ、窃盗団のターゲットになるとは思えなかった。アトリエには個展用に描いた十数点がイーゼルに掛けたままになっていた。数週間後には全てギャラリーに運ぶ予定だった。部屋はアパルトマンの五階。見晴らしの良い最上階だった。念のためヨウコの体を揺すって声をかけた。次の瞬間、暗がりの中で部屋の扉が開いた。振り向いた瞬間、黒ずくめの長身の男が銃の引き金を引いた。

 日本人夫婦二人を殺すのは簡単だった。平和ボケした日本人が銃の扱いに慣れていないことくらい想像できた。例えそれなりに護身用の銃を持っていたとしても、暗がりの中、銃を初めから構えてでもいない限り、侵入してくる相手を狙い撃つことなど到底できやしない。闇雲に発砲され万が一にも被弾したら、それは元々運がなかったということだ。それより銃声が響き渡ってしまったら作戦は失敗だ。こちらの銃には超高性能のサイレンサーがついている。雨が屋根を叩く音も好都合だった。被弾させる箇所さへ間違わなければ絶命する声すら洩れない。だが、夫婦二人をほぼ同時に、正確に撃ち抜かねばならなかった。組織の大老である黄志雄からタザキノボルの油彩画を奪うこと、そして夫婦の殺害に成功すれば大老の椅子を譲ると言われた。何か特別な恨みでもあるのだろうか? だが、そんな理由などどうでもよかった。今後は自分が組織の頂点に立つ。すでに仲間が絵画を車に積み込んだ頃だろうか。そんなことを考えながら部屋を出ようとした時、寝室のテーブルの上の写真たてが目に入った。そこには二人の子供の写真が入っていた。自分の息子の顔が一瞬頭を過ぎった。振り返って夫婦の死体を眺めた。子供の姿は無かった。別室か? 両親を無残にも殺されたと知ったなら、生き残った子供たちがいつか禍の種になるかもしれない。やはり今ここで殺しておくべきだろう。部屋を出て、隣の部屋のドアノブに手をかけた時、玄関の鍵を内側から開け、堂々と外に出ようとしていた仲間から声をかけられた。雨音が冷たい空気の中に響き渡った。男はチッと口を鳴らし、握ったドアノブから手を離した。
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