十九

文字数 2,437文字

 組織の大老である黄志雄を撃ち殺した。今、手の中に日本人画家の絵がある。これで追われる身になった。どこへ逃れようか。広州にいては見つかるのも時間の問題だ。元々この街が好きではなかった。ヨーロッパや他のアジア諸国を知ってしまったからというのもあるが、この蒸し暑く雨の多い広州には、貧困と幼少からの嫌な思い出が詰まっている。いっそのこと祖国を捨て、他国で一からやり直すのも悪くない。幸い手にした絵画は高く売れると聞いた。その金を元手に商売でも始めようか。
 広州市の外れにある、自分を匿ってくれる知人の家で一夜を明かした。夜、屋根裏に用意してもらった布団に体を横たえ、今日の出来事を思い出す。あの時はカッとなって引き金を引いてしまったが後悔はない。いづれあの老いぼれは死ぬ。今頃組織の連中は血眼になって俺を探していることだろう。組織の大老を殺めた興奮と、言われようのない刹那。不安などという甘ったれたものではない。明日死ぬかもしれないという思いなら、それは幼少の頃から毎日のように味わってきたことだ。組織の中核になって人を使うようになり、そんな刹那を自分は忘れかけていたのかもしれない。身体は疲れているはずなのに、目を瞑っても眠れなかった。
 古びた建物の脇を電車が通っている。一瞬眠りに落ちてもすぐに振動で目が覚めた。確かこの線路は香港特別行政区へと続いている。香港はイギリス領ではあるが、元々は我々中国の領土。広州の目と鼻の先にある。香港に逃れようか。この時初めて脳裏に香港という新たな世界が開けた。死が近いという切迫感と、その先に開けた大きな夢。果てしない未来への希望と今、この瞬間の絶望が交錯する。やがて電車の音が遠退いた。
 朝、通気孔から光が漏れていた。それに気付くと同時に下階で人の気配を感じた。どうやら追手にこの隠れ家のことが知れたようだ。建物の外はすでに包囲されているに違いない。自分が屋根裏から出たところを捕らえようと銃を構えているはずだ。今更逃げられるはずもない。電車が通る振動で建物の壁が震えた。香港への夢は一瞬で終わったな、思わず苦々しい笑みがこぼれた。組織の次のリーダーは一体誰であろうか? 急を知って日本から孫小陽が駆けつけられるとは思えなかった。元々組織は大老の黄志雄の他、右腕である自分と左腕である孫小陽以外、組織の中心になれるような人物はいない。自分はヨーロッパを転々としていたし、孫小陽は日本にいる。他にもそれなりに幹部はいたが組織を背負える器の者はなかった。だから組織がどんどん弱体化していることは明らかだった。「六月の雨」と呼ばれ恐れられた数十年前など見る影もない。実は組織など形だけですでに実態は死に体だったのかもしれない。
 趙大海は覚悟を決めた。向こうから来たのであれば、こちらから迎え撃つまで。銃はあるが弾は残り三発のみ。敵に捕らえられるくらいなら自死も考えたが、バカバカしいのでやめた。一発でも多く敵に撃ち込んで弾を使い果たした後、体中に銃弾を浴びて絶命するのも悪くない。銃の安全装置を外し、屋根裏から下階へと降りる階段の扉に手をかけた。隙間をそっと押し拡げ、中を窺うが誰の姿もない。銃口を覗かせつつ勢いよく扉を開け、廊下の向かいにある小部屋に飛び込んだ。どこからも銃声が聞こえない。拍子抜けしたような静けさが漂った。先程まで感じていた気配は何だったのか? まさか屋根裏に隠れている自分に気付かなかったはずはない。趙大海は眉をひそめながら玄関かで歩き、小窓から外を見て事態を把握した。
「マ、マサカ、コンナコトガ」
 外には数人の男たちが整列しており、中央に黒塗りの外車が停まっている。
「オ迎エニ上ガリマシタ大老殿」
 その時の目の前が晴れ渡る光景を一生忘れることはないだろう。
「我々ハ、趙大海殿ヲ我ガ組織ノ大老ニオ迎エスル」
「謝謝!」
 組織の本部に戻る途中、車の中で側近に話しかける。
「何故、私ヲ大老ニ? 私ハ黄志雄ヲ殺シタンダゾ」
 隣には組織のナンバー3だった周忠民が座っている。この男はマネーロンダリングなどを専門とする経済マフィアだった。決して表に出ることがなく、常に武闘派の自分の陰に隠れていた。なるほど俺にはまだ利用価値があるということか。
「黄志雄ハ遅カレ早カレ死ヌ運命ダッタ」
「何故、孫小陽デハナク俺ヲ?」
 周忠民は黙っていた。
「俺ノ方ガ動カシヤ易イトイウ訳カ。マア、イイダロウ」
 表情は変わらなかった。この男が俺を殺し、大老の座につくこともできただろう。しかしこの男はそういう男ではない。あくまで陰にいて、全てを動かそうとする男。それはこの男が何故か組織内での人望に欠ける面があり、そのことを本人がよく理解している。組織内で人望があるのは間違いなく孫小陽だった。序列では四番目。周忠民の一つ下である。黄志雄も孫小陽の人心掌握術を恐れて自分から遠ざけたが、周忠民もまた孫小陽を恐れたに違いない。
「日本ニイル孫小陽ハドウスル?」
「奴ニハ死ンデモラウ」
「ソウダナ、ソレガ賢明ダ」
「孫ハ今回ノコト、知ッテルノカ?」
「イズレハ耳ニ入ルダロウ。ダカラソノ前ニ」
 趙大海が周忠民の横顔を見つめた。薄く人形のようである。
「誰ヲ行カセル?」
 失敗は更なる強敵を生み出すことになる。趙大海が煙草に火をつけた。いつかそんな日が来るだろうとは思っていた。孫小陽の人望はその上に立つ者にとっては脅威だった。今になって黄志雄の気持ちがよくわかる。生かしておけばいづれ孫小陽を中心にしてもうひとつの組織ができあがり、現組織が二分されるだろう。そうなれば組織同士の対立、抗争を生み更なる弱体化、または壊滅も有り得る。幸い奴は今日本にいて、このクーデターを知らない。この辺で奴には死んでもらった方がよい。それに奴の手元には日本人画家タザキノボルの「白月」がある。自分が手に入れた「紅月」とは元々兄弟であると聞いた時から、いつかは自分のものにすると決めていた。
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