二十六

文字数 1,728文字

 リビングに飾ってある絵を息子の建宏がじっと見ていた。まだ七歳になったばかりで、この絵の作者が誰であるかなど知らない。ただ、この絵が幼い子供の目を引くことは確かだった。
「パパ、コノ月ハ何デ紅イノ?」
「サア、パパニモワカラナイ。キット画家本人ニシカワカラナイヨ」
「パパハ紅イ月ヲ見タコトアル?」
 洋上に沈む夕陽を思い浮かべたが、それとは違う。
「建宏、コノ絵ガ好キカ?」
 頷いた。
「ダケド、少シ恐イ気ガスル」
「ソウ思ウカ」
 趙大海が息子から絵に視線を移した。
 一瞬、パリで画家を殺害した時の光景が甦った。普段なら絶対に思い返すはずのない光景。しかしこの日は違った。画家を殺害した後に見つけた写真立ての情景が続いてフラッシュバックし、手の中に銃の感触が戻った。あの自分が殺した日本人画家は一体誰だったのだろう? これまで一度だって殺害した相手の素性など気にかけたことはなかった。同世代の息子を持つ親同士だったからだろうか? 趙大海は不思議な気持ちで、その紅い月の絵の傍に立った。絵の下の隅に『N.T』とある。壁から外し、画布の裏を見たが画家のサインは無かった。しかし、この際そんなことはどうでもよかった。正直、絵画のことなどさっぱりわからなかった。ピカソやルノワールほど有名であればその価値も理解できる。しかし何故無名な日本人画家の絵を、それも殺害してまで奪う必要があったのか。趙大海が壁に絵を戻した。すると突然、家の電話が鳴った。この番号を知る者は限られている。受話器を取った。電話の主はあるヨーロッパの大富豪の代理人を名乗る男からだった。
「絵ヲ売ッテ欲シイ」
「何ノコトダ? 絵ナド所有シテイナイ」
 代理人の男が受話器の向こうで笑う。
「ソンナハズハナイ。タザキノボルヲ所有シテイルコトハワカッテイル」
 紅い月の絵に目をやった。
「タザキノボル」
「ソウダ、ソノ紅イ月ノ絵ヲ、アル御方ガ欲シガッテイル」
 趙大海が鼻を鳴らした。
「アンタ、ドコノ誰ダカ知ラナイアガ、名乗リモセズ、絵ヲ売レト言ワレテモ、ハイソウデスカト言ウト思ウカ? トコロデアンタラ、コノ俺ガ誰ダカ知ッテイルンダロウナ?」
 また受話器の向こうで笑みが漏れているのがわかる。
「勿論ダ、私ノ依頼人ハ全テ知ッテイル」
「全テダト? 全テトハ何ダ」
「全テダ、オ前ガドウヤッテソノ絵ヲ手ニ入レタノカモ知ッテイル」
 趙大海が息を飲んだ。
「デタラメヲ言ウナ、俺ヲ脅スノカ? コノ後ノ話次第デハ、オ前トオ前ノ雇主ノ命ハ無イト思エ」
「オ前ガ今所有シテイル紅月ハ、私ノ依頼人ガ手ニスルハズダッタモノダ。ソレヲオ前ガ横取リシタノダカラナ」
「横取リダト? 一体、オ前ノ雇主ハ誰ナンダ?」
「知ラナイ方ガ身ノ為ダ。オ前ノヨウナ小サナマフィアガ知ッタトコロデ、ドウナルモノデモナイ」
「ソウカ、ソレ相応ノ身分ダト言ウコトカ。ナラバ、ソノオ偉イサンハ、俺ノ紅月ヲ幾ラデ買ッテクレルンダ? コチラモ命ヲ懸ケテ手ニ入レタンダ。ソコラ辺ノ絵画ト一緒ニサレテモ困ルガ」
「ワカッテイル、五百万ポンドデドウダ?」
「何? イッ、五百万ポンドダト?」
 為替レートで五百万ポンドは日本円で十億円ほどである。
 趙大海が苦笑した。
「カラカウノハヨセ。モット現実的ナ話ヲシロヨ」
「フザケテナドイナイ。私ノ依頼主ハ殺サレタ画家ノ友人デナ、モンマルトル時代のパトロンデモアッタノダヨ」
「フン、ソイツハ気ノ毒ダッタナ、友人ヲ殺サレテ、サゾカシ残念ダッタロウヨ。ダガナ、生憎コチラハ情ナド持チ合ワセチャイネエ」
 沈黙が拡がった。
「ヨシ、イイダロウ、絵ヲ売ッテヤル。但シ、一千万ポンドダ。一千万ポンド用意シロ。ソレ以下デハ決シテ売ラナイ」
「イイダロウ、一千万ポンド用意シヨウ。受ケ渡シハ、マタコチラカラ連絡スル」
 ボツリと通話が切れた。一千万ポンドという大金が手に入る。この金を元手にビジネスするのも悪くない。広州のしみったれた小さなマフィア組織になど、さして執着はなかった。貧乏な幼少時代を過ごした広州に未練はない。この使い切れぬ程の大金を持って、どこか新しい土地に移り住もう。そしてビジネスを始めよう。そうだ、香港などはどうだろうか? 趙大海の心はすでに決まっていた。
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