第二十六話 夕食の誘い

文字数 1,996文字

 近づいていた二人の距離が大きく引き離されたあの日から、五日が経った。
 
「…………ただいま」
 勤務後のトレーニングを終え半袖のスポーツウエアで帰宅した六は、リビングの椅子に座りぼーっとバラエティ番組を観る希海に言った。
「おかえり」
 ずっと孤独に暮らしていた六の中で、希海がここへ来てから習慣化した挨拶。二人の間に蟠りが生まれた後、多分に形式的とは言えこの短いやりとりだけがどんよりした部屋をか細い光で照らしてくれる。

「今日早いね、帰ってくるの。これからトレーニング?」
「いや、それももう終わったよ」
「え、ほんと!?」
 希海が視線をテレビから六に移す。
「ああ…………どうした?」
 希海の反応は六にとって少し意外だった。いつもなら前の自分のような不愛想な返事しか返ってこない筈だ。こちらに向けたその睫毛が美しい大きな目は、心なしか輝いているようにも見える。希海がこういう顔を見せる度、六は刹那に心のどこかで高鳴りを感じ、その直後には嫉妬のような何かが追随するのであった。

 全てを持って生まれた人種。その美しい目も、容姿も、快活で人を惹きつける性格も、育った環境も。希海の横を歩いていると、周りから彼女を賛美する声が聞こえてくる。彼女にとって今までとは全く違うこの環境でも、仲の良い人間は何人も出来たようだ。きっと彼女はどこに行っても気づけば輪の中心に居て、生きているだけで誰かを傷つけないように、誰かに傷つけられないように心に纏った結晶の中に閉じこもる人間の気持ちなんて考えたことが無いのだろう。
 確かに希海はパンドラだ。それも特別危険な。実質的に冥対本部に軟禁されていて普通の女子高生のような生活は不可能であり、吐き気のするような光景すら短い期間で何度も見てきただろう。だがそれでも変わらず明るく振舞い続けられるのはどうしてだろうか?
 勿論六に対してはぎこちない。しかし希海が特異課の面々や機動局の職員と談笑し、その場を和ませるのを遠くから見る度、また、「羽宮さんは本当に良い子だよねえ、可愛いし」と周りに言われる度、六はそんなことを取り留めもなく考えるのであった。

「もし君が良かったらさ…………今から一緒に夕ご飯食べに行かない?」
「…………良いけど、どこに? 前みたいに外に出るのは当分無理だぞ?」
「食堂だよ、ここの。職員用だけど私も自由に使っていいってフランさん言ってたし。まだ開いてるから」
 軽い食事ならもう食べてきたんだが──とは言わなかった。鬱陶しいどころか、心を縛る結び目が解けるのを感じる。
 小野寺にナイフを突き立てるという選択が本当に正しかったのか、その結論は未だ出ていない。希海が言う通り間違っていたかも知れないが、そうである確かな理由だって自分の中には無い。だから六は謝ることが出来ずにいたのだが、もう一度二人で話し合いたいと思っていた。自分達があの日信じたことについて。もしかしたら、希海もそう思っているのかも知れない。六は希海と離れつつも、自分からは行動を起こせずに、心の奥底でこんな機会を待っていたのである。



 二人が外出の準備を終えて食堂に着いた頃にはすでに日が落ち、暗い夜空にぽつぽつと星が顔を出している。
 外出用の普段着など持っていない六は、ネクタイの無い新しいワイシャツとスーツのズボンという恰好で半袖のルームウェアの希海と共に部屋を出た。

「うっわ……これ満席っぽいや。一旦座れるとこ見つけよっか」
 こんな時間なのに中はかなり混雑しており、先に席を取ってから券売機に並ばなければならない。
 人前に出たがらない六は冥対に入ってから二年経つというのに、一度もここを利用したことが無かった。二人で空席を探して食堂内を歩き回っていると、すぐに「やば、あれ特異課の宵河六じゃね? めっちゃ強くて怖い人」「羽宮さんだ、可愛い~!」という声と視線に囲まれる。

 ────冥力が高い人間は普通の奴より耳が良いってこと、知らないのかこいつら。

 自分達に向けられた数多の好奇の眼差しに、六は心の中で愚痴を漏らした。



 広い堂内をぐるりと一周しかけた末に、唯一空いているテーブルを漸く見つける。
 希海だけが券売機に並ぶことにして六が椅子を引いたその時、二人は隣のテーブルで三人分もあるかと思える量の食事をかきこんでいる青年を発見した。ラーメンに炒飯、野菜炒め……テーブルの端にはその他に空いた皿が何枚も重ねられている。六からすればかなりの量を食べる希海ですら比較にならない程だった。周りの人間は彼をじろじろと見ながら、小声で何やら話している。そんな周囲を一切意に介さず、青年はスープに手をつけ始める。
「…………あ」
 六と目が合った青年は、素早くスープを飲み干してから食事の手を止めて言った。
「うげっ」
「最悪だ、よりにもよってここで」

 その青年が螺神侭だと分かった二人は、途端に顔を顰めた。
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