第4話

文字数 2,561文字


  私は1970年代前半生まれの、団塊ジュニア世代である。
  当時の子育て環境を振り返ると、まず第一に、良くも悪くも非常に「おおらか」であったように思う。現在の子育て環境との対比を具体化させるため、私自身の経験した子供時代について以下に具体的に述べたい。

  まず家族構成であるが、正社員の父と専業主婦の母、私と弟の4人家族だった。当時の家族構成としては最も標準的なパターンだったと思う。父は旧都市銀行勤めだったが、万年平社員で恐らく年収は500-600万円、地方都市とはいえ家族4人で生活するのは楽ではなかったと思う。家では、父と母は、恐らく生活苦からよく口げんかをしていて、子供心にも仲良くは見えなかった。
ただ母が、当時はまだ非常に珍しい四大卒であったにも関わらず、外で働く、という選択肢はなかった。当時、その地方都市では、共働きやひとり親家庭は極めて稀で、子供が帰宅する時間に親が家にいない家庭の子供は“鍵っ子”と呼ばれ、将来の不良予備軍と見なされていた。
衣食住だが、服は同じ団地の知人からもらったお下がりか、母の垢抜けない手作りが中心だった。よそ行き用は、年に1度デパートに行って買った。食事もほぼ母の手作りで、内容も、母が家計補助のために行っていた家庭菜園の野菜が中心、外食は年に1,2度だった。住居は、大学入学までは団地に家族4人暮らしだったので、特に小さい頃は、夕食のちゃぶ台を片付けてそこに布団を敷き、家族みんなで川の字で寝るような生活だった。エアコンも電子レンジも、導入されたのは私が成人してからだった。総じて現在よりも生活水準は低かったが、それで他人と比べて肩身が狭いとか、自信がもてない、ということはなかった。
家の外に出ると、そこらじゅうにわんさかいる団地の子供たちと、学校が休みの日には朝から晩まで遊んだ。近くのどぶ川でザリガニをとったり、田んぼに入ってオタマジャクシをとったり、周りの大人に怒られることもなく、ああしろこうしろと指図もされず、泥だらけになって自由に遊び回っていた。飼っていたザリガニが隣の家に脱げだして連れ戻したこともある。そういう時には母からこっぴどく叱られた。周りの人々に迷惑をかけながら、人間未満の、まるで動物のような子供時代を過ごした。
また小学校に行けば、やはり同じく動物園のような状態であった。「お前は汚いからマスクして給食食べろ。」と級友に言う、恐くて乱暴ないじめっ子や、学校の通学途中で、お地蔵様のお供え物のまんじゅうを取って食べる子、給食の余ったパンを鼻に詰めて飛ばして遊ぶような変わった子がいたりした。このような、猛獣のような子供たちを相手に、先生は時としてゲンコツを食らわせたりしながら指導していた。

  現在の常識に照らすと、家庭内での夫婦の不仲は子供の発達に悪影響を与えると問題視されるであろうし、他人の私有地に勝手に入って子供だけで遊んでいるのも迷惑行為となるだろう。小学校での教師の指導や子供のあり方も、それぞれ「体罰」、「いじめ」、「発達障害」などとレッテルを貼られ、場合によっては厳罰に処せられたりすることもあるように思う。
しかしながら、大人である先生や親同士は、「迷惑をかけあうのはお互い様だ」として、大抵のことは目をつぶってお互いを許し合っていたし、そういう大人たちの姿を見て子供たちも「まあいいか」と、お互いを受け入れていた。そこには、他者に対する共感と受容があった。

  第二に、これは当時であっても一般的ではなかったかもしれないが、我が家では、母が文字通り「母なる大地」として全力で子供たちを支えていた。
先ほど述べた衣食住のみならず、勉強も小学校卒業までは見、学校生活での悩み、問題は、全て母が聞いて一緒に解決しようとしてくれた。私が小学校で窓ガラスを割れば、菓子折を持って一緒に学校に謝りに行った。そして、食事の時には、一番おいしいところは大人が食べるのではなく、私たち子供に分け与えた。また寒い夜には、冷えた私の足を自分の足で挟んで温めながら寝かせてくれた。
 決して単に優しかったのではない。お互いの主張がぶつかり合い、親子げんかも多かった。ただ、母の姿からは一貫して「子供を守り抜く。そのために自分が出来ることは何でもする。」という姿勢が見て取れた。私は常に「どんなことがあっても、母は私のことを守ってくれる。」という絶大な安心感を支えに育つことが出来た。残念ながら、平均寿命をかなり下回る年齢で、まさに子供たちのために命を捧げ尽くすようにして母は既に他界したが、この母の支えによって、私たちきょうだいは進学、就職、結婚、出産・育児といった人生の課題に立ち向かうことが出来ていたように思う。

  振り返ると、どうして40年前には、様々な問題を内包しながらも、子供たちが「子供らしく」元気でのびのびいられる環境があったのだろうか。

  まず一つ目の背景として、「一億総中流」という言葉に代表されるように、「どこの家もみな似たようなもの」といった、時代の空気が社会全体で共有されていた。また、高い経済成長が続くなかで、現在どのような状況下におかれていようと、「真面目に働けば、明日は今日よりも良くなる」と、皆が信じていた。親たちが社会全体に醸成される大きな安心感に支えられるなかで、今よりも安心して子供に向き合うことが出来ていたのではないだろうか。皆同じで且つ将来が明るいのであれば、現状からすべり落ちるのを恐れて他者を出し抜く必要もないし、下に見られることを案じる必要もなかった。

   次に二つ目の背景として、グローバル化の影響がまだまだ薄かった。人々の意識の上で、西洋型の個人の人権に対する意識は低く、個別の問題には忍耐で対応していた。当時の日本人にとって、我慢強いことは美徳であった。従って、問題があることをうすうす認識はしつつも、白黒つけずに灰色のまま曖昧にしていた。

   しかし、こうした社会全体で共有されていた空気は、恐らくは1980年代後半から1990年代前半に起きた社会的変化によって大きく変貌を遂げていくことになる。
   次に、この時期に起こった社会的変化と、それによってもたらされたであろう人々の意識の変化について考察する。
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  • (1)はじめに

  • 第1話
  • (2)子供たちの現状

  • 第2話
  • (3)親たちの現状

  • 第3話
  • (4)違和感の根底にあるもの---40年前の子供時代を振り返る

  • 第4話
  • (5)人々の意識の転換点---1980年代後半から1990年代前半に起きたこと

  • 第5話
  • (6)経済・社会不安に覆われる中で---個人主義の先鋭化

  • 第6話
  • (7)現在の子育てで感じるしんどさについて

  • 第7話
  • (8)子供たちの抱える苦しみを考察する---親のしんどさはどう子供に影響するか

  • 第8話
  • (9)子供たちの苦しみを救う手がかり

  • 第9話
  • (10)おわりに

  • 第10話
  • 注記

  • 第11話

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